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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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200/278

第200話

「昨日、査問官殿は俺の言葉を呪文と呼んだ」


四日目の朝、俺は誰に促されるより先に口を開いた。


すり鉢状の議事堂の底は、いつもより冷えていた。石の冷たさが薄い靴底を通して足の裏に這い上がってくる。四日も喋り続けた喉は、朝いちばんの声がかすれて、自分でも他人の声みたいに聞こえた。


「『まあ、聞いてから判断しよう』。この言葉が、人の心を操る呪文だと、そう言った」


天井近くの傍聴席までびっしりと埋まった議場が、しんと静まる。百を超える国の代表が、俺ひとりを見下ろしている。その視線の重さには、もう四日かけて慣れた。慣れたふりが、できるようになった。


「だったら、ひとつだけ聞かせてください」


俺は顔を上げた。


「その呪文に、いま、この場の何人がかかっていますか」


誰も答えない。当然だ。答えれば負ける問いの形をしている。


「呪文っていうのは、かかった本人が気づかないものでしょう。でも、あなたたちは全員、自分はかかっていないと思ってる。だから安心して『あれは呪文だ』と言える」


俺は壇上のセルウィンを見た。冷えた目が、俺を値踏みするように細められる。


「おかしいですよね。誰もかかっていない呪文を、どうして全員が恐れているんですか」


「詭弁だ」


セルウィンの声は、刃物のように平らだった。


「言葉の遊びで論点をずらしている。それこそが操作だ」


「いいえ」


俺は首を振った。


「操りは、いつも『考えるな』と言うんです。『こいつは危険だ、だから聞くな』『聞いたら危ない、だから決めてしまえ』——それが操りです。俺は、その逆を言っている。聞いてくれ。考えてくれ。そのうえで判断してくれ、と」


喉の奥が引きつって、咳が出そうになるのを呑み込む。


「考えてから決めることを、あなたは怖がっている。考えずに決めるほうが、安全だと言っている。——査問官殿。それは、どっちが呪文ですか」



 



セルウィンは、すぐには答えなかった。


その沈黙が、四日間で初めての沈黙だった。今までの彼は、俺が言い終わる前に次の刃を抜いていた。今は、抜かなかった。


「……数字を、見せろ」


ようやく出てきたのは、反論ではなく、命令だった。話を逸らしたとき、人は弱っている。俺はそれを三年前、墓場の門で覚えた。


傍聴席の隅でカイルが指を動かす。フォルの回線を通して、遠い迷宮の核から運ばれてくる集計が、議場の石壁に淡い光で刻まれた。


【査問集計:賛成98/反対18/保留11】


「九十八」セルウィンが、その数字を盾のように掲げる。「四日喋って、君は何も動かせていない。むしろ増やした」


「いいえ」


俺は壁の光を指した。


「三日前、これは九十七でした。フェンが聞いて、九十六になった。ドラズが聞いて、九十五になった。——それから昨日、九十八に戻った。ガレス隊長の話を、あなたが裏返したからだ」


議場の空気が、わずかに軋む。ガレスの名は、もう誰も口にしたがらない。解任され、宿舎を追われた重騎士。寝返りの代償を、あの人ひとりに払わせた。その重さは、いまも俺の胸の底に石みたいに沈んでいる。


「でも、聞いてください。フェンとドラズは、戻っていない」


俺は一国ずつ、傍聴席を見渡した。


「聞いた国は、考えた。考えた国は、動いた。そして——動いた国は、戻らなかった。これが操りなら、なぜ戻らないんですか。操られた人間は、術が解ければ元に戻る。でもフェンは、ドラズは、一度自分の頭で考えたから、もう戻れないんです」


声がかすれて、最後がほとんど息になった。それでも、議場の隅々まで届いたのがわかった。届いたとき、議場は音を立てない。ただ、空気の密度が変わる。


セルウィンの唇が、薄く動いた。


「……まあ、聞いて——」


途中で、止まった。


俺は、聞き逃さなかった。あの査問官の口から、俺の言葉の最初の二音が、確かにこぼれかけた。本人は気づいていない。無意識に、四日間ずっと俺の言葉を浴びて、舌が先に覚えてしまった。


セルウィンは自分の唇に指を当て、そこに何かが付着していたかのように、強く拭った。


「……黙れ」


それは、俺へ向けた言葉じゃなかった。自分自身への命令だった。



 



「もうよい」


低い声が、議場の天辺から落ちてきた。


議長オルディーン。査問が始まって四日、ひとことも発さずに俺を見下ろし続けてきた男が、初めて立ち上がった。白い議長衣が、すり鉢の縁にぬっと影を伸ばす。


「この形式は、終わりにする」


セルウィンが弾かれたように振り返る。「議長、まだ——」


「一日に一国。四日で三票。このやり方では、結審まで百日かかる」オルディーンの目は、俺だけを見ていた。「そして百日のあいだ、この男は毎日ひとつずつ、票を削り続ける。——違うか、アシダ殿」


否定はしなかった。それが俺のやり方だ。一日に、ひとつ。


「ならば」


オルディーンは、ゆっくりと両腕を広げた。慈悲深い裁定者のように。あるいは、すべてを呑み込む口のように。


「君に、最高の舞台をやろう」


背筋が冷えた。褒め言葉の形をした宣告ほど、恐ろしいものはない。


「公開大査問会を開く。全百二十七国の代表のみならず、連合のすべての市民が見守る前で、君は弁明する。一国ずつ呼ぶ必要はない。全員を、一度に集めてやる」


議場が、ざわめいた。傍聴席の代表たちが、隣と顔を見合わせる。オルディーンはその波が引くのを待ってから、続けた。


「君の言葉が、一国ずつに効くというのなら。——百二十七国を一度に並べれば、君は百二十七倍、雄弁になれるはずだ。そうだろう?」


俺は、答えられなかった。


それが罠だと、わかったからだ。


聞くことは、一対一でしか起きない。相手の目を見て、声を拾って、事情を一つずつ受け取る。それを百二十七国、何万という市民の前に放り出すということは——恐怖を、百二十七倍に増幅するということだ。一人が「怖い」と言えば、隣がうつる。群衆の中で、恐怖は風邪のように広がる。ガレスひとりの証言を裏返しただけで、票は二つ増えた。万の目の前では、俺の言葉は一人にも届かないまま、恐怖だけが燃え広がる。


オルディーンは、それをわかっていて、舞台を用意した。


「カイル」俺は小さく呼んだ。


傍聴席のカイルが、こわばった顔で頷く。回線の向こうのフォルから、新しい数字が壁に灯った。それは票数ではなかった。


【共存協定 自動失効まで:あと90日】


「三年前、君たちが魔物と結んだ共存協定」オルディーンの声が、その光をなぞる。「あれには、更新条項がある。連合議長の署名による更新がなければ、協定は九十日後に自動で失効する。——私は、署名しない」


ざわめきが、ぴたりと止んだ。


「九十日後。協定の失効と同時に、大査問会は結審する。君が全市民を説き伏せれば、協定は更新され、処分は撤回される。説き伏せられなければ——協定は消え、君は《人類最大の脅威》として、執行される」


つまり、こういうことだ。


引き分けがない。沈黙すれば、九十日後に何もせず負ける。喋れば、群衆の恐怖を煽る証拠にされる。一日ひとつ削るやり方は、もう使えない。一度に、全部を相手にしろと言っている。


俺の最大の武器を取り上げて、最大の戦場に放り込む。これ以上ないほど、よく考えられた一手だった。


「怖がらせる気だな」


俺は、思わずそう呟いていた。


オルディーンの眉が、ほんのわずかに動いた。図星を指したからじゃない。——その逆だ。


「私は、世界を守っているだけだ」


その声に、嘘の響きはなかった。本気で、そう信じている。だから手強い。事情を持たない敵はいない。この人にも、九十日後に協定を消したい理由が、きっとある。聞いていない。まだ、何ひとつ。


足の裏から這い上がる石の冷たさが、膝まで来ていた。四日喋り続けた喉は、もう一滴の声も残っていない気がした。九十日。百二十七国。何万の目。数えるほどに、足がすくむ。


——まあ。


俺は、心の中でその言葉を握った。三年前、墓場の門で、ノックの音に向かって握ったのと同じ言葉を。


聞いてから、判断しよう。怖いのは、まだ何も聞いていないからだ。九十日あれば、九十回、誰かの扉を叩ける。


顔を上げると、オルディーンが俺を見下ろしていた。すり鉢の縁に立つその影は、もう裁定者ではなく、ただ一人の、何かをひどく怖がっている人間に見えた。


議長が、両腕を下ろした。


そして、議場じゅうに——いや、まだ姿の見えない何万の市民に向かって、宣言するように告げた。


「弁明せよ、人類最大の脅威よ」

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