第199話「増えた票」
カイルが、机の上に紙束を放り出した。
乾いた音が、狭い宿の部屋に響く。羊皮紙の束は、今日の査問の記録だ。各国代表の発言、賛否の移り変わり、そして——集計。
「読むぞ」
カイルの声は、いつもより低かった。俺は窓際の椅子に腰を下ろしたまま、うなずく。指先が冷えていた。ヴァリスの夜は、王都よりも風が乾いている。茶を淹れたはずなのに、すっかり冷めていることに、口をつけてから気づいた。
「【査問集計:賛成九十八、反対十八、保留十一】」
カイルが、フォルの回線越しに届いた数字を、そのまま読み上げる。
賛成九十八。
過半数は六十四。とっくに超えている。それどころか——三日前、ここに来た時は九十七だった。フェンが取り下げて九十六に減り、ドラズが保留に回って九十五になった。ふたつ、動かしたはずだった。
なのに、今は九十八。
「三つ、増えてる」
「ああ」カイルは紙束を見たまま言った。「ガレスのせいだ。いや——」言い直す。「ガレスを使った、セルウィンのせいだ」
俺は答えなかった。
今日の昼、討伐隊長のガレスが立ち上がった。俺を斬りに来た男が、規則を破って俺を庇った。溢出で失った二十三人の部下のこと。三年間、誰も聞かなかった「怖い」を、俺だけが聞いたこと。
それを、査問官セルウィンはひっくり返した。
——歴戦の武人すら、一度の対話で寝返らせる。これこそが、人の心を操る《脅威》の証拠だ。
俺の言葉が、人を救う言葉から、人を惑わす呪文に裏返った瞬間だった。迷っていた代表たちが、次々に賛成へ回った。聞く前に決めるほうが安全だ、と。
そしてガレスは、隊長職を解任された。
「あいつ、どうしてる」
「軍の宿舎を出された。今は……知らん」カイルは肩をすくめようとして、できなかった。「お前のために動いて、職を失った。それだけだ」
それだけ、という言葉が、胸の奥に石みたいに沈んだ。
俺は冷めた茶を、もう一口飲んだ。味がしなかった。
夜が更けても、眠れなかった。
寝台に横になって、天井の梁を数えていた。三本。四本。五本目で、もう数えるのをやめた。
ガレスの顔が浮かぶ。あの大男が、議事堂のすり鉢の底で、震える声で「斬る前に、話を——」と言いかけた、あの顔。
俺は、あの人に何をしてやれた。
聞いた。それだけだ。聞いて、そして——あの人の居場所を奪った。
寝台から身を起こす。床板が冷たくて、足の裏がひやりとした。
机の向こうで、カイルがまだ起きていた。蝋燭の灯りで、明日の代表名簿を睨んでいる。二代目調停者。連合とのパイプ役。三年でずいぶん顔つきが変わった。俺の知っている、世界を疑わなかった同期の剣士は、もういない。
「カイル」
「なんだ」
「……俺のやり方は、もう、駄目かもしれない」
カイルが、名簿から顔を上げた。
「聞けば聞くほど、票が増える」俺は自分の手のひらを見た。三年前、ゴブの扉を開けた手だ。「セルウィンの言う通りなのかもしれない。俺がやってるのは——交渉じゃなくて、人を怖がらせてるだけなのかもしれない」
言葉が、口から出た瞬間に重くなった。
「みんな、わからないものが怖い。俺が一人ひとりの話を聞けば聞くほど、『あいつは何を考えてるかわからない』って、怖がられる。だったら——」
「だったら、なんだ」
「だったら、俺がここにいること自体が、票を増やしてる」
言ってしまった。
口に出すまでは、ただの夜の不安だった。口に出した途端、それは事実みたいな顔をして、部屋の真ん中に居座った。
俺はいつも、誰かに言ってきた。まあ、聞いてから判断しよう、と。ゴブにも、カイルにも、セルディンにも、フォルにも。聞けば道が見える。聞かないと損だ。そう信じてきた。
でも今、その言葉は、俺自身に牙を剝いている。聞けば聞くほど、怖がられる。だとしたら、俺の口癖は——人を救う言葉なんかじゃなかったのかもしれない。
蝋燭の炎が、風もないのに小さく揺れた。
カイルは、しばらく何も言わなかった。
名簿を机に置く。蝋燭の灯りを、指でちょっとだけ寄せる。それから、椅子をこちらに向けた。
「お前さ」と、カイルは言った。「ゴブが最初にお前の小屋の扉を叩いた夜のこと、覚えてるか」
「……三年以上前の話だぞ」
「俺は、別の夜のことを覚えてる」カイルは俺を見た。「お前が、墓場の門で魔物を匿ってるって聞いた夜だ」
俺は黙った。
「あの頃の俺は、お前のことが——気味が悪かった」
その言葉は、不思議と、まっすぐ俺に届いた。
「剣も持たない門番が、ゴブリンと茶を飲んで、何やら難しい話をしてる。みんなが斬れって言うものを、お前は『話を聞こう』って言う。意味がわからなかった。何を考えてるのか、まったく読めなかった」カイルは少し笑った。自嘲気味に。「正直に言う。俺は、お前が怖かったんだ」
俺は、初めて聞く話だった。
カイルはいつも、俺を舐めていたと思っていた。「生きてはいけるんじゃないか」と言い放った、あの同期。見下していたんだと。でも——違ったのか。
「お前を見下してるふりをしてた。そのほうが、楽だったからだ。わからないものを、下に見れば、怖くなくなる」カイルは膝に肘をついて、身を乗り出した。「セルウィンと、同じだよ。今の連合と、まったく同じだ」
「……」
「でも、俺は途中で、見下すのをやめた。第七迷宮でお前が魔物の話を聞いて、それが本当に世界を動かすのを見たから。怖いまま——気味が悪いと思ったまま、俺はお前の話を聞いた」
怖いまま、聞いた。
その言葉に、俺はどこかで聞いた響きを思い出した。セルディンだ。あの反対派筆頭の議員が、長い沈黙の末に署名した時。怖いままでいい。聞くのに、怖くなくなる必要はない——あの時、俺が言ったことだ。
それが今、カイルの口から、俺に返ってきている。
「いいか、レン」カイルの声が、低くなった。「お前のやり方が人を怖がらせてる、っていうのは、半分当たってる。お前は、人を怖がらせる。わからないものは、怖いからな。それは、変わらない」
「だったら——」
「最後まで聞け」カイルが、俺の言葉を遮った。「お前のやり方が間違ってる証拠じゃない。それが、お前のやり方が始まる場所なんだよ」
蝋燭の灯りが、カイルの横顔を照らしていた。
「怖がられて、それでも聞いてもらえる。怖いまま、聞いてもらえる。——それが、お前が三年前に俺にやったことだ。ゴブにやったことだ。セルディンにやったことだ。みんな最初は、お前が怖かった。怖いまま、聞いた。そして、変わった」
胸の奥の石が、少しだけ動いた気がした。
「九十八人が、お前を怖がってる」カイルは紙束を、とんと指で叩いた。「それは、九十八人が、聞く一歩手前に立ってるってことだ。怖がってもいない奴は、聞きもしない。お前が一番よく知ってるはずだろ」
俺は、自分の手のひらを、もう一度見た。
冷えていた指先に、少しだけ熱が戻っている気がした。
「……セルウィンは、俺の言葉を裏返した」俺はぽつりと言った。「『聞いてから判断しよう』を、人を惑わす呪文だって」
「ああ。裏返した」カイルはうなずいた。「だったら、お前がもう一回、表に返すしかない。お前の言葉だろ。あいつに貸してやった覚えはないはずだ」
俺は、ふっと息を吐いた。
笑いみたいなものが、口から漏れた。三日ぶりだったかもしれない。
「……まあ」と、俺は言った。「聞いてから判断しよう、か」
口に出すと、その言葉は、また少しだけ俺のものに戻ってきた。
呪文じゃない。牙を剝く言葉でもない。ただ、聞く。聞いてから、決める。それだけのことだ。三年前から、それしかやってこなかった。
カイルが、立ち上がった。
蝋燭の灯りを少し細める。名簿を、机の端にきちんと揃えて置いた。明日の段取りだ。明日も、一国。誰かが手を挙げるかもしれないし、挙げないかもしれない。九十八は、明日も九十八のままかもしれない。
「明日は、どこの国だ」俺は聞いた。
「わからん。今日のことがあって、誰も名乗り出ないかもな」カイルは寝台のほうへ歩きかけて、立ち止まった。「でも、それでもいい」
「いいのか」
「いい」カイルは振り返らずに言った。「お前は、聞きに行くだけだ。誰も手を挙げなきゃ、お前のほうから一国を指名すりゃいい。前代未聞だってセルウィンが喚くだろうが——それも、聞いてやればいい」
俺は、窓の外を見た。
ヴァリスの夜空には、星があった。第七迷宮の門の前で、ゴブと見上げた星と、たぶん同じ星だ。ゴブは今ごろ、門の前で待っているだろうか。レンは戻ってくる、と言って。
戻る。九十八を、ひとつずつ。
「カイル」
「なんだ」
「……ありがとう。聞いてくれて」
カイルは、ちょっとだけ肩を揺らした。笑ったのかもしれない。
「礼を言うのは、まだ早い」
蝋燭の最後の灯りを、カイルが指で摘んで消した。
部屋が、闇に沈む。星明かりだけが、窓から薄く差し込んでいる。
暗がりの中で、カイルの声がした。低くて、まっすぐで、三年前の同期の声とは、もう全然違う声だった。
「明日も叩け、レン。一国でも、半人でもいい。扉を叩いて、聞いてこい。——それしか、お前の武器はないんだからな」
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