第198話「寝返りの代償」
「だから私は——まあ、聞いてから判断した」
ガレスの声は低く、よく通った。すり鉢状の議事堂の、いちばん底に立つ俺の足元まで、その一言は石段を一段ずつ転がり落ちてくるように届いた。
俺の言葉だった。三年前、誰も聞いてくれなかった頃から、俺がひとりで唱え続けてきた言葉だ。それが今、二十三人の部下を魔物の溢出で失った重騎士の口から、鎧の重みを乗せて出てきた。
胸の奥で、何かがことりと動いた。
——伝わるんだな。武器も持たない言葉でも、人から人へ。
俺はそう思いかけて、すぐに気づいた。この場所で、それを喜ぶのは早い。
天井近くの回廊にずらりと並んだ油灯が、底に向かって熱を落としてくる。ずっと立っているせいで足の裏がじんと痺れていて、喉はとっくに乾いていた。それでも俺は、ガレスの横顔から目を離さなかった。
「私は剣士だ。三十年、剣の前に立つ者を斬って生きてきた」ガレスは議長席を見上げた。「だが、この男は剣を抜かなかった。私が殺しに来たと知って、茶を出した。魔物に給仕をさせ、その魔物に『脅威に見えるか』と俺へ問わせた。——私は、答えられなかった」
ざわ、と回廊が波打つ。
「答えられないものを、私はずっと殺してきた。わからんから、怖いから、斬ってきた。だが、こいつは——わからんものを、まず聞こうとした。それだけだ」
ガレスはそこで、ほんの少し声を落とした。
「斬る前に、聞く。それができる人間が一人でもいるなら、私の部下たちは——別の死に方を、できたかもしれん」
静寂が落ちた。
油灯の芯が、じり、と鳴る音まで聞こえるほどの静けさだった。誰かが洟をすすった。回廊のどこかで、椅子の軋む音がした。
俺はその沈黙が好きだった。人が「聞いてしまった」あとの沈黙。言葉が胸の柔らかいところに刺さって、まだ抜けないでいる時間。
——いける。
そう思った。確かに、そう思ってしまった。
「——なるほど」
冷たい声が、沈黙を割った。
査問官セルウィンだった。彼は手元の書面を閉じ、ゆっくりと立ち上がって、まっすぐ俺ではなくガレスを見た。
「ガレス隊長。あなたは三十年、剣の前に立つ者を斬ってきた、と言った。歴戦の、揺るがぬ武人だと、この場の誰もが知っている」
「……ああ」
「その揺るがぬ武人が、たった一度の会話で、討伐対象を庇うために連合の規則を破り、こうして証言台に立っている」
セルウィンは回廊をぐるりと見渡した。声を張るでもなく、むしろ静かに、確かめるように。
「皆さん。これは——美談に聞こえますか」
俺の背筋を、嫌な予感が這い上がった。
「私には、こう聞こえます」セルウィンは一語ずつ置いた。「鉄の意志を持つ歴戦の隊長ですら、わずか一度の対話で、敵を味方と取り違えるよう作り替えられた。——心を、操られた」
ざわめきが、さっきとは違う質で広がった。
「考えてもみてください。ガレス隊長の言葉を。『この男は剣を抜かなかった』。当然です。剣など要らないからだ。この男の武器は剣ではない。言葉だ。人の恐怖の隙間に滑り込み、判断を奪い、敵意を溶かす——それこそが、この《脅威》の本質だ」
セルウィンは、ようやく俺を見た。値踏みするのでも、苛立つのでもなく、勝利を確信した者の落ち着きで。
「あなたは昨日、私に言った。『聞かないと損だ』と。私は今、理解しました。あなたに聞かれた者は、皆こうなる。——ガレス隊長のように」
俺は口を開きかけた。
違う、と言いたかった。聞くことは、奪うことの逆だ。俺は誰の判断も奪っていない。むしろ、奪われていた判断を本人に返しているだけだ。ガレスは操られたんじゃない。ただ、三年間ずっと胸につかえていたものを、初めて誰かの前で吐き出せた。それだけだ。
でも——
その「違う」を、どう証明する?
聞いて、変わった人間がここにいる。それを「操った証拠だ」と言われたとき、俺の手元には、何も残らない。説得すればするほど、「ほら、また操ろうとしている」と返される。
胸の奥が、すっと冷えた。
俺の最大の武器が、そのまま、俺を化け物にする証拠になっていた。
「待ってくれ」
回廊の中段で、ひとりの代表が立ち上がった。中背の、灰色の外套を着た男だった。声が少し震えていた。
「セルウィン査問官。今の話が本当なら……我々も、危ういということか。この男と言葉を交わせば、誰もが——あのガレス隊長のように、知らぬ間に作り替えられる、と」
「その通りです」セルウィンは即答した。「だからこそ、弁明の機会は与えても、対話は最小限にとどめねばならない。聞けば聞くほど、危ういのです」
灰色の外套の男は、ごくりと喉を鳴らした。
「私は……昨日まで、保留にしていた。この男が本当に脅威なのか、確信が持てなかったからだ。だが——確信が持てないこと自体が、もう、操られかけている証拠なのではないか」
俺は思わず声を上げていた。
「待ってください」
回廊じゅうの視線が、底にいる俺に刺さった。
「あなたが迷っているのは、操られているからじゃない。迷えるのは、あなたがまだ自分の頭で考えてる証拠です。本当に操られた人間は、迷いません。——まあ、聞いてから判断しよう。それだけのことです」
言ってしまってから、しまった、と思った。
俺の口癖だった。ガレスが借りていった、あの言葉。今この場で、いちばん言ってはいけない言葉だった。
案の定、セルウィンの口の端が、わずかに上がった。
「——お聞きになりましたか、皆さん。今のが、その『呪文』です」
ざわめきが、波になった。
「『聞いてから判断しよう』。耳に心地よい。誰も傷つけない。反論しようのない、優しい言葉だ。だが、これを言われた者は——フェンのハーラン代表も、ドラズのガロウ代表も、ガレス隊長も、皆、票を動かした。これが操作でなくて、何だというのか」
灰色の外套の男が、崩れ落ちるように席に着いた。そして、震える手を挙げた。
「……私は、賛成に回す。聞く前に、決める。それが——いちばん安全だ」
別の代表が立った。「私も賛成だ。危ない橋は渡れん」
また一人。「賛成。話を聞いてからでは、遅い」
俺は、何も言えなかった。
口を開けば、それが証拠になる。黙れば、流れは止まらない。
——聞いてから判断しよう、が。
人を恐怖から救うはずの言葉が、人を恐怖へ追い立てる呪文に、裏返っていた。
その時、議長席のオルディーンが、初めて口を開いた。低く、重く、世界そのものの重みで。
「ガレス隊長。あなたの忠誠は、もはや連合のものではない。証言台を降り、隊長職を解く。沙汰があるまで、城内にとどまるように」
ガレスは何か言いかけ——俺を一度だけ見て、口を閉じた。
その目が、「すまん」と言っていた。
俺は小さく首を振った。あなたは悪くない、と伝わるように。あなたは、ただ正直だっただけだ。正直でいた代償を、あなたに払わせてしまった。
衛兵に挟まれて回廊を去るガレスの背中を、俺は最後まで見送った。足の裏の痺れも、喉の渇きも、もう感じなかった。ただ、胸の真ん中が、石を呑んだみたいに重かった。
その夜、城の外れにあてがわれた狭い控え室で、俺は壁にもたれて座っていた。
窓もない部屋だった。蝋燭が一本。冷えた石の壁が、背中から体温を吸っていく。
「レン」
扉の隙間から、カイルが滑り込んできた。手には、フォルの回線につながった通信盤を抱えている。第七迷宮の核を経由して、この大査問会の集計を逐一拾い、俺に渡す——それが、二代目調停者になったこいつの、今の役目だった。
カイルの顔は、青かった。
「集計が……出た」
「ああ」
「言うぞ」
「言ってくれ」
カイルは通信盤に目を落とし、それから、言いにくそうに口を開いた。
【査問集計:賛成98/反対17/保留12】
俺は、その数字を、ゆっくりと頭の中で並べ直した。
朝は——賛成九十五だった。ハーランが票を返し、ガロウが保留に回って、九十七から九十五まで、二日かけて削ってきた。一票ずつ。一人ずつ、話を聞いて。
それが、たった一日で。
「……増えてる」
俺の声は、自分でも驚くくらい平らだった。
「ああ」カイルが頷く。「賛成が、三つ増えた。反対が一つ、保留が二つ、賛成に回った。——ガレスが寝返ったせいで、流れが、逆に振れた」
蝋燭の炎が、ゆらりと傾いだ。
俺は壁に後頭部を預けて、天井を見上げた。何もない、煤けた石の天井だった。
「ガレスは、本当のことを言っただけだ」と、俺は呟いた。「聞いたら、変わった。それは、いいことのはずだろ」
「……」
「俺のやり方が、正しいなら——どうして、聞いてくれた人間が立ち上がるほど、数字が、こっちを怖がるんだ」
カイルは答えなかった。答えがないのを、こいつも知っていた。
俺は初めて、足元が抜けるような感覚を味わっていた。三年間、墓場の門でずっと一人だった頃ですら、こんなふうには思わなかった。聞けば、いつか届く。そう信じていた。
でも——届いた先で、それが「操られた証拠」になるなら。
俺の言葉は、いったい、どこへ行けばいいんだ。
カイルが、通信盤を膝に置いた。そして、低い声で言った。
「数字が……増えた。怖がられてる」
ぱき、と蝋燭の芯が爆ぜて、部屋の影が、わずかに揺れた。
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