第百九十七話「だから、聞く」
「もういい」
査問官セルウィンが、手のひらで卓を打った。乾いた音が、すり鉢の底に立つ俺のところまで降ってくる。
ドラズの代表ガロウが「保留」とだけ言って腕を組んでから、議事堂はしばらく静かだった。その静けさを破ったのが、進行役であるはずの男の苛立ちだったのは、少しだけ意外だった。
「アシダ。君は——一つ、ごまかしている」
セルウィンは灰色の目で俺を見下ろした。百二十七国の代表が見守るすり鉢の縁、その一段高い席から。
「君は、ここに立つ全員を“いい人”扱いする。フェンの老人も、ドラズの鉄屋も、まるで一皮むけば善人だとでも言うように。だが世界はそんなに甘くない。人は、得をするから人を裁く。怖いから殺す。君のその……博愛は、ただの幼さだ」
俺は足の裏に体重をかけ直した。出頭してから、もう何時間立っているだろう。石の床は冷たくて、踵の奥がじんと痛む。腹も減っていた。だが、こういうときに椅子をくれと言わないのが、この場では一番強い。
「ごまかしてない」
俺は静かに言った。
「俺は、誰のことも“いい人”だなんて思ってませんよ」
セルウィンの眉がわずかに動いた。
「……ほう」
「ガロウさんは、俺の作った平和を本気で恨んでた。フェンのハーランさんは、大国に脅されて俺を売った。みんな、いい人じゃない。事情のある人だ」
俺は一度、言葉を切った。喉が乾いていて、声がかすれる。
「俺は人を善人だと思って聞いてるんじゃない。事情を持ってると思って聞いてる。事情のない人間なんて、この世にいないでしょう」
セルウィンは答えなかった。
すり鉢の縁で、誰かが小さく身じろぎした音だけが、やけに大きく聞こえた。
「君は」
セルウィンが、今度は少し低い声で続けた。羊皮紙の束を卓に置き、指先で揃える。その仕草が、苛立ちを抑えるための儀式のように見えた。
「人を、敵だと思ったことがないのか」
「ありますよ」
俺は即答した。
「最初に俺の小屋の扉を叩いたのは、ゴブリンでした。三年前——いや、もっと前か。夜中に、鎧戸の向こうから声がした。『話を聞いてほしい』って。正直、めちゃくちゃ怖かった」
議事堂のどこかで、息を呑む音がした。魔物、という単語に、人類連合は今でも肌が粟立つらしい。
「俺は剣を持ってなかった。門番ですから。ジョブはランク外で、スキルは迷宮の様子が数字で見えるだけ。戦えない。だから——」
「だから、聞いた、と」セルウィンが遮った。「美談だな。だが結果として、君はその魔物を国の中まで連れ込んだ。査問されるのは当然だ」
「ええ。当然です」
俺があっさり頷いたので、セルウィンの言葉がわずかに浮いた。反論されるつもりだったのだろう。
「俺は、自分が裁かれること自体には文句がない。手続きとしては正しい。怖いものを、怖いと言って、確かめようとしてる。それは——立派なことだと思いますよ、本当に」
「皮肉か」
「いいえ」
俺は首を振った。
「皮肉を言える立場じゃない。俺はただ、確かめ方の話をしてる。怖いものを確かめるのに、二つやり方がある。先に潰すか、先に聞くか。潰せば、間違ってたときに取り返しがつかない。聞けば、時間はかかるけど、間違いに気づける。——だから、聞く。聞かないと、損だ」
セルウィンの口元が、ほんの少し歪んだ。笑ったのか、苛立ったのか、その両方か。
「損、か。君は、人の生き死にを商人みたいに言うんだな」
「商人は嘘をつくと潰れます。だから案外、正直なんですよ」
縁の席のどこかで、誰かが小さく噴き出した。すぐに咳払いで隠れたが。
セルウィンは、その笑い声がした方角を冷たく一瞥してから、視線を俺に戻した。
「カイル・ベルグ。集計を」
「……はい」
俺の斜め後ろに控えていたカイルが、フォルの回線をつないだ。空中に薄青い光の板が浮かび、数字が刻まれる。
【査問集計:賛成95/反対18/保留14】
「過半数は六十四」セルウィンは数字を読み上げた。「君が二日かけて動かしたのは、たった二票だ。九十五が、まだ君を処分しろと言っている。残り、君に与えられた出頭期限は二十四日。——この速度で、間に合うと思うか」
「思いません」
俺はまた即答した。
カイルが、隣で小さく息を吐いたのがわかった。「お前なあ」とでも言いたげな。
「思いませんけど」と俺は続けた。「二票は、動いた。動かないと言われてたものが、二つ動いた。それが事実です。明日は、もう一票」
「君は——」
セルウィンが何か言いかけて、止めた。
俺を見る目が、ほんの一瞬だけ、揺れた気がした。
そのときだった。
すり鉢の縁、代表たちの席よりさらに後ろ。傍聴と護衛のために立つことを許された者たちの列から、ひとつの影が立ち上がった。
鎧が、灯りを返してにぶく光る。
「——発言を、求める」
低い声だった。場慣れした、命令に慣れた声。議事堂中の視線が、いっせいにそちらへ向いた。
ガレス。連合討伐隊の隊長。三年続いた平和の中でなお現役の、歴戦の重騎士。俺をこの首都まで送り届けるために、連合の意に背いて護衛についた男だ。
「ガレス隊長」セルウィンの声が、初めて硬くなった。「ここは代表の発言の場だ。武官に発言権は——」
「ない。知っている」
ガレスは縁を回り込み、すり鉢の階段を、一段、また一段と降りてきた。底に立つ俺の隣まで。
近くで見ると、この男の鎧には古い傷が無数に走っていた。何年も、何十回も、本物の死線をくぐった者の鎧だ。
「規則違反は承知の上だ。処分でも何でもしてくれ。だが——一度だけ、聞いてもらいたい」
ガレスは議事堂全体を、ゆっくりと見回した。百二十七国を。
「私は、この男を殺しに来た」
ざわめきが、波のように広がった。
「決議第一号。《人類最大の脅威》。私はその討伐を命じられ、部隊を率いて第七迷宮へ向かった。私はな——溢出で、部下を二十三人、失った男だ。魔物は、敵だった。ずっと、敵だった。だからこの命令は、むしろありがたかった。やっと、わかりやすい仕事が来たと思った」
声が、少しずつ熱を帯びていく。
「迷宮の前に立っていたのは、この、何の変哲もない男だった。剣も持たず、鎧も着ず。私の隊が並んで、弓を構えて、剣を抜いて——それでも、この男は」
ガレスは俺を指さした。
「剣を、抜かなかった」
議事堂が、しんと静まった。
「茶を出した。私たちに。討伐に来た私たちに、だ。ゴブリンが——魔物が、その茶を運んできた。私は、わけがわからなかった。怖かった。脅威を前にして、自分が何に怯えているのかさえ、わからなかった」
ガレスの拳が、震えていた。怒りではない。もっと別の、長く抱えてきた何かが、ようやく出口を見つけたような震えだった。
「この男は、私の“怖い”を聞いた。馬鹿にもせず、論破もせず。私が部下を失った夜のことを、最後まで聞いた。誰も、聞いてくれなかったことを。——三年だ。三年、誰も、私の話を聞かなかった」
セルウィンが何か言おうとして、できずにいた。
「私はこの男を殺せなかった。理由は単純だ。殺す前に、話を聞いてしまったからだ。聞いてしまえば、もう、わからないものを“わからないまま”斬ることが、できなくなった」
ガレスは、俺ではなく、議事堂の天井を見上げた。高い窓から差す光が、その傷だらけの横顔を照らしていた。
「諸君は、これを“洗脳された”と言うかもしれん。心を操られたと。好きに言え。だが、私は——」
そこで、ガレスは言葉を切った。
何かを、自分の中で確かめるように。
「私は迷ったとき、この男の口癖を、いつの間にか拾っていた。馬鹿げた言葉だ。だが、私のような男には、これしか盾がない」
俺は、息が止まった。
聞き慣れた言葉の、最初の音の形が、その武人の喉から立ち上がってくるのが、わかってしまったから。
俺の言葉だ。俺が、夜の小屋で、迷宮の闇で、議事堂の底で、何度も何度も繰り返してきた、たった一つの武器。それが今、剣を二十年握ってきた男の口から、こぼれ落ちようとしている。
カイルが、隣で息を呑んだのがわかった。あいつも、気づいた。
ガレスは、まっすぐに前を見て、はっきりと言った。
「だから私は——まあ、聞いてから判断した」
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