第196話「戦争が要る国」
「怖くて賛成したわけじゃない」
ドラズの代表は、すり鉢の縁からもう一度そう言った。
底に立つ俺を見下ろす目に、怯えはなかった。あるのは値踏みだ。馬を買うとき、剣を選ぶとき、人がそうするように——この男は俺という品物の値を見定めようとしていた。
「ガロウ・ドラズ氏」
進行役のセルウィンが名を読み上げる。代表は軽く顎を引いて応じた。仕立てのいい外套の下に、鍛冶場で叩かれてきたような太い前腕がのぞいている。商人の目と、兵の背骨を持つ男だった。
「我が国は、賛成九十七のうちの一国だ。だが——フェンの老いぼれのように、震えて入れた票じゃない」
底の床は冷たかった。もう何時間立っているのか、足の裏が石の冷えを吸って固くなっている。喉も乾いていた。だが俺は水を頼まなかった。頼めば、弱さを見せたと取られる。そういう場所だった。
「ドラズという国を、あんたは知らんだろう」
「知りません」
「いい。知らんなら教えてやる」
ガロウは胸の前で腕を組んだ。
「我が国は鉄でできている。山に鉄が出る。だから千年、剣を打ってきた。槍を、鎧を、攻城の弩を。この大陸のどの戦場にも、ドラズの鋼が刺さっていた。誇りだ。子供は十で槌を握る。それが当たり前の国だ」
すり鉢状の議事堂が、しんと静まっていた。百二十七国の代表が、上から俺たちを見ている。誰も口を挟まない。
「三年前、お前が魔物と和解させた。戦が消えた。結構なことだ——他の国にはな」
ガロウの声が、一段低くなる。
「だがドラズでは、去年、鍛冶場が三百、火を落とした。槌を握っていた男たちが、職を失った。注文が来んのだ。誰も剣を買わん。平和だからな」
「……」
「お前は世界に平和をもたらした英雄かもしれん。だが俺の国にとっては、お前は——飢えを連れてきた男だ」
上の席から、低いどよめきが起きた。賛成派が、満足げに頷くのが見えた。これだ、と言いたげに。こいつは英雄なんかじゃない、と。
俺は黙って聞いていた。
ガロウは言い切ると、勝ち誇るでもなく、ただ俺を見下ろした。さあ、どう返す、という顔だった。論破してみろ、平和は正しいと説いてみろ、と。
俺はゆっくり息を吐いた。
「まあ、聞いてから判断しよう——と、思って来ました」
ガロウの眉が、わずかに動いた。
「だから、もう少し聞かせてください。剣が売れなくて、火を落とした鍛冶場。その三百の鍛冶場で、槌を握っていたのは——どんな人たちですか」
質問が、予想と違っていたらしい。
ガロウは一瞬、答えあぐねた。論を返されるなら受けて立つ構えだったのだろう。だが俺が聞いたのは、論ではなく、人の顔だった。
「……どんな、とは」
「名前のある人たちでしょう。あなたが知っている」
ガロウの口元が、固くなった。
「……ボルグという男がいた」
低い声だった。
「俺の親父の代からの鍛冶だ。片目が潰れている。若い頃、焼けた鉄の欠片が飛んだ。それでも腕は国一番だった。あいつの打つ剣は、刃文が——川の流れみたいに見えた。戦場に出た兵が、ボルグの剣だと分かると安心したものだ。これなら折れん、とな」
「その人は、今は」
「去年、店を畳んだ。息子に継がせるはずだった店をだ」ガロウは床の一点を見ていた。俺ではなく。「孫が、聞いたそうだ。じいちゃんの仕事は、もう要らないの、と。ボルグは答えられんかった」
議事堂は静かだった。さっき賛成派が浮かべた満足は、もうどこにもなかった。
「……それを、俺は」ガロウの声が、初めて震えに似たものを帯びた。「平和のせいだとは、言いたくないんだ。平和が悪いわけがない。分かっている。分かっているが——」
「ボルグさんの手を、無駄にした顔を、あなたが見た」
「…………ああ」
俺は、足の冷えも喉の渇きも、一瞬忘れていた。
この男は、戦争が好きなわけじゃなかった。血を求めているわけでも、人を殺したいわけでもない。ただ、自分の国の、自分の知っている男の、五十年磨いた手が——ある日いきなり「もう要らない」と言われたことに、耐えられないだけだった。
それは、怖いだろう。
俺だって怖い。ある日、誰かに「お前の役目はもう終わった」と言われたら。門番だった俺が、スキルを手放したとき、ほんの少しだけ感じたあの軽さと、寄る辺なさ。あれを国ごと味わっているのが、ドラズだった。
「ガロウさん」
俺は呼んだ。
「あなたが本当に守りたいのは、戦争ですか。それとも、ボルグさんの手ですか」
ガロウは、答えなかった。答えられないのではなく、答えが分かりすぎて、口にするのが怖い——そういう沈黙だった。
「俺は、剣のことは分かりません」
俺は正直に言った。
「打ったこともない。重さも知らない。だから、あなたの国の鋼がどれだけ凄いかも、本当には分からない。でも——一つだけ、分かることがあります」
俺は上を見た。すり鉢の縁にずらりと並んだ、百二十七の顔を。
「ボルグさんの手は、剣を打つ手じゃない。鉄を、人の役に立つ形にする手だ。違いますか」
ガロウの目が、見開かれた。
「剣も、鋤も、鍋も、同じ鉄から生まれる。刃文が川みたいに見える鋼で、鋤を打ったらどうなりますか。畑が拓ける。鍋を打ったら、煮炊きができる。橋の鎹を打てば、川を渡れる。——その鋼は、戦がなくても、売れます。むしろ、平和な国ほど要る」
「……それは」ガロウが、かすれた声を出した。「剣を捨てろ、と言っているのか」
「いいえ」
俺は、はっきりと言った。
「捨てなくていい。ドラズの剣は美しい。美しいものは、戦のためだけにあるんじゃない。飾りにも、儀礼にも、誇りにもなる。残せばいい。ただ——同じ手で、鋤も打てる。それだけの話です」
「剣を打つ手で、鋤を……」
「ボルグさんが、孫に言える日が来るかもしれない。じいちゃんの仕事は、まだ要る、と。剣じゃなくて、畑を拓く鉄だけどな、と」
ガロウは、長いこと黙っていた。
太い前腕が、ほどけた。組んでいた腕が、だらりと下がる。彼はもう、俺を値踏みする目をしていなかった。何か、遠いものを——たぶん、片目の潰れた老鍛冶の手を、見ているようだった。
「……お前は」
ガロウが、ようやく口を開いた。
「俺を、論破しなかったな」
「するつもりがなかったので」
「平和は正しい、戦は悪だと、そう言えば俺は黙るしかなかった。だがお前は、それを言わなかった」
「言っても、ボルグさんの手は戻らない。意味がない」
ガロウは、ふっと——笑った、のだと思う。疲れたような、けれど何かが軽くなったような笑いだった。
「俺の票を、保留にしてくれ」
議事堂が、ざわついた。
「賛成を、取り下げる。ドラズは——もう一度、自分の国の鍛冶場のことを、考えてから決める。お前を裁くかどうかは、その後だ」
俺の隣で、補佐に立つカイルが、そっとフォルの回線を開いた。淡い光が、宙に数字を結ぶ。
【査問集計:賛成95/反対18/保留14】
九十六から、九十五へ。
また一つ、動かないと信じられていた数字が、動いた。過半数の六十四までは、まだ三十一票。けれど二日前、誰一人「動く」とは思っていなかった盤面が、二日で二つ崩れた。
ガロウは席に着くと、もう俺を見なかった。ただ、自分の太い手のひらを、じっと見下ろしていた。
その夜、議事堂を出る回廊で、セルウィンが俺を待っていた。
冷ややかな男だ。査問官として、処分を粛々と進める検事役。これまで一度も、俺に表情を見せたことがなかった。
「アシダ」
「はい」
「軍需国家ドラズだぞ。あの国は、戦で食ってきた。お前を最も憎んでいいはずの国だ。憎しみで投じた票だと、誰もが思っていた」
「憎しみじゃなかったんです。怖さでした」
「……怖さ」
セルウィンは、回廊の窓の外を見た。月明かりが、ヴァリスの城壁を白く照らしている。あの城壁のどこかに、まだ俺の——角と牙の生えた、似ても似つかぬ似顔絵が貼られているはずだった。
「フェンも、ドラズも。お前は、票を投じた相手を、一人も悪く言わなかった」セルウィンの声が、いつもより低い。「脅した者を、飢えを恐れた者を。罵ってもよかった。そのほうが、見ている者には痛快だ。なのにお前は——皆を、いい人扱いする」
「いい人だとは思っていません」
「では何だ」
「事情のある人だと思っています。事情を聞かないと、損なので」
セルウィンが、こちらを向いた。月明かりに、その横顔が半分だけ照らされる。
理解できないものを見る目だった。だが——軽蔑ではなかった。これまでの冷たさとは、明らかに違う何かが、その奥で揺れていた。
「お前は」
セルウィンが、言葉を選ぶように、一度切った。
「君は……人を、敵だと思っていないのか」
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