第195話「一日に、一国」
朝の議事堂は、昨日より寒かった。
すり鉢の底に立つと、石の冷たさが靴底から脛まで這い上がってくる。宿の硬い寝台で浅く眠っただけの体に、その冷えはやけに沁みた。腹も小さく鳴っている。出された乾いたパンを半分残してきたのは、緊張で喉を通らなかったからだ。
——まあ、空腹くらいで判断は鈍らない。
俺は息を吐いて、頭上を見上げた。
百二十七の席。そのほとんどが、昨日と同じ冷たい目で俺を見下ろしている。だが昨日と一つだけ違う席があった。最前列、フェンの老代表ハーランの席だ。彼は俺と目が合うと、ばつが悪そうに視線を逸らした。一票を取り下げた人間の顔だった。
正面の高い壇から、査問官セルウィンが書類を繰る音だけが響く。
「昨夜、一晩かけて考えた」
彼は俺を見ずに言った。
「君の要求——『なぜ自分が怖いのかを、九十七人から一人ずつ聞きたい』。これは却下する」
「理由を聞いても?」
「数だ」
セルウィンが顔を上げた。眠っていない目をしていた。たぶん、俺と同じくらいには。
「九十七国。一国につき仮に一日。それだけで三ヶ月かかる。会期は残り二十四日しかない。君の要求は、処分の引き延ばしにしか機能しない。査問官として、それを許す道理がない」
筋は通っていた。彼の言うことは、いつも筋が通っている。
俺はうなずいた。
「正しい計算です」
「なら——」
「でも、聞いてから判断してほしい。俺は、九十七国ぜんぶと話したいなんて言ってない」
セルウィンの指が、書類の上で止まった。
「昨日、俺は確かに『一人ずつ聞きたい』と言いました」
俺はゆっくりと、すり鉢の縁をぐるりと見上げながら続けた。声が反響して、自分の言葉が天井で一度跳ね返り、また降りてくる。妙な感覚だった。まるで自分の声を、もう一度自分で聞かされているような。
「でも、ぜんぶ聞く必要はないんです。九十七国のうち、本気で俺を怖がっている国は、たぶんそんなに多くない」
「……根拠は」
「昨日のフェンです」
俺は最前列のハーランに、軽く頭を下げた。老人は驚いたように身を縮めた。
「ハーラン殿は、自分がなぜ賛成したのか、覚えていなかった。怖かったからじゃない。隣の大国の顔色をうかがっただけだった。——たぶん、同じ人が、ほかにもいる」
ざわ、と席の一部が揺れた。
図星を指された者の揺れ方だった。俺はそれを見ないふりをした。指を突きつけるためにここに来たわけじゃない。
「だから、一国ずつでいい。代表が、自分の言葉で『なぜ俺が怖いか』を話す。話してみて、それでもまだ怖いなら、賛成のままでいい。俺は説き伏せない。論破もしない。ただ聞く。それだけです」
「それだけ、とよく言う」
セルウィンの口元が、わずかに歪んだ。笑ったわけではない。理解できないものを前にした人間の顔だった。昨日も、彼はその顔をした。
「君は、なぜそんなに『聞く』ことにこだわる。聞いたところで、票が割れるとは限らない。むしろ——」
「むしろ、何も変わらないかもしれない。そうです」
俺は認めた。認めることで、相手の刀が空を切る。前世から染みついた、たった一つの技だ。
「変わらないかもしれない。でも、聞かないと、変わる可能性はゼロです。聞けば、ゼロじゃなくなる。それだけで、俺には十分なんですよ」
しん、と議事堂が静まった。
そのとき、俺のすぐ後ろで、小さく装置の鳴る音がした。カイルだ。第七迷宮の核——フォルの回線を介して、連合の集計が彼の手元の板に映る。彼はそれを掲げ、議場全体に向けて声を張った。
「査問集計——変動なし。【賛成96/反対18/保留13】。過半数まで、あと三十二」
数字が石壁に反射して、誰の頭にも刻まれる。
九十六。昨日、九十七だった。たった一つ。
だが、その一つを、この議場の全員が見た。動かないと信じられていた数字が、確かに動いた瞬間を。
長い沈黙のあと、口を開いたのはセルウィンではなかった。
壇のさらに上、議場をすべて見下ろす最も高い席から、低い声が降ってきた。
「——形式を、認める」
連合議長オルディーン。白髪の、大きな体の男だった。これまで一度も口を開かず、ただ俺を見下ろしていた人物だ。その声が初めて議事堂を満たした。
「セルウィン。会期内に処理できる範囲で、希望する国に発言の機会を与えよ。一日につき、一国。公開で行う。全市民が傍聴できる形で」
「議長——」
「これは温情ではない」
オルディーンは俺を見たまま、言葉を切った。
「むしろ逆だ。脅威がどれほど言葉巧みか、全市民に見せておくのがいい。九十六の賛成が、聞いてなお揺るがぬのなら——処分の正当性は、いっそう強固になる。違うか、アシダ殿」
冷たい論理だった。俺を救うための提案ではない。俺を、より確実に裁くための舞台装置だ。
それでも、俺はうなずいた。
「ありがたいです」
「礼を言うのか」
「舞台をもらえるなら、立場は関係ない。聞いてもらえる席があるなら、俺はどこにでも立ちます」
オルディーンは何も答えなかった。ただ、わずかに眉が動いた気がした。気のせいかもしれない。だが、その一瞬を、俺は覚えておくことにした。後で効いてくるかもしれない。人の表情というのは、たいてい言葉より先に本音を漏らす。
こうして——査問は、形を変えた。
剣ではなく、言葉で。一度にではなく、一日に一国ずつ。すり鉢の底に立つ俺と、上から見下ろす一つの国とが、市民の見ている前で、ただ話す。
様式が、決まった。
「それで」
セルウィンが、書類を畳みながら冷ややかに言った。彼はまだ、この形式を内心では認めていない。声でわかる。
「初日だ。希望する国は」
議場を、沈黙が滑った。
誰も手を挙げない。当然だ。脅威とされた男と、衆人環視のなかで一対一で話す。下手をすれば「脅威に取り込まれた国」の烙印を押される。昨日のフェンが、まさにそうなりかけている。
俺は静かに待った。
待つのは得意だ。門番だった頃、俺はずっと待っていた。来る者を、ちゃんと待つこと。それが門番だと、昔、ゴブに言われたことがある——いや、あれはドランがゴブに言い、ゴブが俺に教えてくれた言葉だった。
懐かしさが、胸の奥を一瞬かすめた。
そして、その沈黙を破る音がした。
椅子の脚が、石の床を引きずる音。
立ち上がったのは、上段の、軍装に近い堅い意匠の席だった。
長身の、肩幅の広い男。胸に、剣を交差させた紋章を着けている。その紋章を、俺は知っていた。資料で見た。三年前まで、最も多くの兵を魔物討伐に送り出していた国の紋だ。
「ドラズが受ける」
低く、よく通る声だった。野次馬の市民席がどよめいた。
セルウィンが意外そうに眉を上げる。
「ドラズ。貴国は賛成派の筆頭格だ。話を聞く必要があるのか」
「あるとも」
ドラズの代表は、俺をまっすぐ見下ろした。怖がっている目ではなかった。フェンのハーランとは、まるで違う。むしろ——獲物を見定める目だった。
「査問官殿。私は、この男が怖くて賛成したのではない。怖がってなどいない。だからこそ、聞きたい。逃げも隠れもせず、堂々と」
彼は一歩、席から前に出た。
「この三年、貴国も、ほかの国も、平和に酔っている。結構なことだ。だが私の国は違う。我が国の鍛冶は剣を打ち、我が国の兵は剣を握り、それで国を養ってきた。魔物という敵がいたから、剣に値がついた。兵に給金が出た。——その敵が、消えた」
声に、熱がこもり始めた。怒りではない。もっと切実な、生活の匂いのする熱だった。
「平和とは、我が国にとって、飢えと同義だ」
俺は黙って聞いていた。口を挟まなかった。挟むべき場所ではない。彼はまだ、本当のことを言っていない。本音の手前で、言葉を選んでいる。
それが、地の底に立つ俺には見えた。
ドラズの代表は、ふっと笑った。剣を抜く前の、静かな笑みだった。
「だから、私はあなたに感謝してもいるのだよ、アシダ殿。あなたが魔物と人とを和解させてくれたおかげで——我が国の窮状が、誰の目にも、はっきりした」
ざわめきが、波のように議場を満たしていく。
俺は息を整えた。冷えた空気が、肺の奥まで届く。腹はまだ鳴っていたが、もう気にならなかった。
——まあ、聞いてから判断しよう。
胸の内で、いつもの言葉を唱える。この男が何を抱えているのか、まだ何も聞いていない。剣を打つ国の、剣を握る人間の、その本当の事情を。
「ドラズ殿」
俺は顔を上げた。
「あなたの国の話を、聞かせてください。明日、いちばんに」
「いや」
代表は、ゆっくりと首を振った。その目が、すうっと細められる。
そして、議場の全員に聞かせるように、はっきりと言った。
「逃げる気か。今、ここで聞け。——魔物が消えれば、また我が国が必要とされる。あなたは、それを邪魔した男だ」
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