第194話「最初の一票」
「賛成した。確かに賛成したのだ。九十七のうちの一国として、このフェンも札を上げた」
すり鉢の底に立つ俺の頭上、いちばん下の段から、白髪の老人が身を乗り出していた。フェンの代表だ。名をハーランと名乗った。声は震えていたが、引っ込める気配はない。
「だが昨夜、寝台でふと思ったのだ。私はなぜ賛成したのだったか、と」
ざわめきが、すり鉢の壁を伝って上へ昇っていく。百二十七段の席が、波打つように揺れた。
進行役のセルウィンが、書見台を指で叩いた。乾いた音が一度。それで広間が静まる。
「ハーラン代表。議事を乱さないでいただきたい。査問は採決済みです。賛成九十七、反対十八、保留十二。過半数は六十四。——もう、終わっている」
「終わっているなら」と老人は言った。「私が今さら何を思い出そうと、害はあるまい」
セルウィンの眉が、わずかに動いた。
俺は石の床を踏みしめた。磨かれた大理石は、ひんやりと足の裏に冷たい。半年歩き通した靴底はもう薄くて、床の冷たさがそのまま伝わってくる。喉が渇いていた。朝から水を一口も飲んでいない。
それでも、俺は少しだけ救われた気がした。
昨日、俺は「九十七人ぶんの『なぜ俺が怖いのか』を、一人ずつ聞きたい」と言った。失笑が起きた。誰も応じないと思った。
最初の一人が、向こうから手を挙げた。
「セルウィンさん」と俺は言った。「一人だけでいい。ハーラン代表と、話をさせてもらえませんか」
「無意味だ」
「無意味かどうかは」俺は息を吸った。「まあ、聞いてから判断しましょう」
セルウィンが俺を見た。冷たい目だった。だが、彼は手続きの人だ。手続きを盾にする人間は、手続きに縛られる。
「……五分だ」と彼は言った。「それ以上は与えない」
補佐席で、カイルが小さく頷くのが見えた。あいつの手元には、フォルの回線でつながった集計板がある。賛成九十七。出頭してから、まだ一票も動いていない。
五分。
俺は、頭上の老人を見上げた。
「ハーランさん。あなたの国は、迷宮の素材で潤っていると聞きました」
老人の顔が、わずかにこわばった。図星を踏まれた人間の顔だ。
「……フェンは小国だ。畑も鉱山もない。だが幸い、第三迷宮の縁に位置している。三年前、調停の取り決めができてから——迷宮の魔物たちが採った鉱石が、正規の交易品として国を通るようになった。関税で、国庫がようやく息をつけるようになった」
「魔物と、商いをしている」
「している」老人はうつむいた。「だから、おかしいのだ。私の国は、魔物のおかげで飢えずに済んでいる。なのに私は、その魔物との橋を架けた男を——お前を、処分すべしと札を上げた」
すり鉢の上のほうで、誰かが舌打ちをした。軍需国家ドラズの席だ。鎧をまとった代表が、腕を組んでこちらを睨んでいる。
俺はその視線に気づいた。気づいて、確信した。
「ハーランさん。一つだけ、答えてください」俺は静かに言った。「あなたが札を上げたあの日。あなたは、俺が怖かったんですか。それとも——札を上げないと、誰かに睨まれるのが怖かったんですか」
広間が、しんとした。
老人は答えなかった。答えられなかった、と言うべきか。皺だらけの手が、手すりを強く握った。指の節が白くなっていた。
「私は」と、やっと声が出た。「採決の前夜、ドラズの代表に呼ばれた。それから、北の三大国の名を出された。『大勢は決している。フェンのような小国が一国だけ反対に回って、後でどうなるか分かっているな』と」
セルウィンが、書見台から顔を上げた。
「ハーラン代表。それは——」
「脅しではない、と言われた」老人は遮った。「忠告だ、とな。だから私は、忠告に従った。私が恐れていたのは、この男ではない。この男の背後にいる魔物でもない。——同じ人間の、顔色だ」
俺は、ゆっくり息を吐いた。
これだ。
九十七の札の中に、こういう札が、いったい何枚混じっているのか。
「ハーランさん」
俺は一歩、前に出た。すり鉢の底の中心。百二十七の視線が、全部こちらに落ちてくる。背中が汗で冷たい。それでも声は、不思議と震えなかった。
「俺は、あなたを責めに来たんじゃありません。あなたを論破するつもりもない。ただ——一つ、知っておいてほしいことがあるんです」
「なんだ」
「俺の背後には、誰もいません」
老人が、顔を上げた。
「魔物の軍勢もいない。隠した刺客もいない。俺はただの旅人で、ここまで一人で歩いてきました。もし俺が、あなたの言う『人類最大の脅威』なら——なぜ、たった一人で、丸腰で、自分から裁かれに来ると思いますか」
返事はなかった。
「あなたが本当に怖いのは、俺じゃない。たぶん、ドラズでもない。——明日、誰の顔色をうかがって生きるのか、それが分からないことが怖いんだ。違いますか」
老人の目が、揺れた。
長い、長い沈黙だった。すり鉢の天井に開いた明かり取りから、細い光が一本、斜めに落ちている。その光の中を、埃がゆっくり舞っていた。誰も、咳ひとつしなかった。
やがて、ハーランが口を開いた。
「……三年前」と彼は言った。「フェンの子供らが、初めて腹いっぱい飯を食えた冬があった。迷宮交易で入った金で、配給ができた。あの冬の、子供らの顔を——私は、今でも覚えている」
声が、湿っていた。
「その飯を運んできた荷馬車を引いていたのは、お前が和解させた魔物たちだ。私はそれを知っていて、なお、お前に死ねと札を上げた。同じ人間に睨まれるのが怖くて。——情けない話だ」
老人は、背を伸ばした。震える手で、胸の徽章に触れた。フェンの紋章だ。
「セルウィン進行役。私は、賛成の札を取り下げる」
広間が、爆ぜた。
怒号。制止。どよめき。すり鉢の壁の全部が、一斉に声を上げた。セルウィンが書見台を続けざまに叩く。乾いた音が、何度も、何度も鳴る。
その音の向こうで、俺はカイルを見た。
あいつは集計板を見つめたまま、唇だけを動かした。声は聞こえない。でも、何を言ったかは分かった。
——動いた。
カイルの手の中で、フォルの回線が、新しい数字を結んでいた。
【査問集計:賛成96/反対18/保留13】
九十七が、九十六になった。
たった一票。百二十七のうちの、たった一票。過半数の六十四までは、まだ三十二も遠い。出頭してから二十五日のうち、丸一日を、俺はこの一票に使った。
それでも、と俺は思った。
一票は、動かないものだと、この広間の全員が信じていた。動かないと信じられていたものが、動いた。それは、一票ぶんの重さじゃない。
ざわめきが、なかなか引かなかった。
ハーランは席に座り直し、もう何も言わなかった。だが、その背中はさっきよりまっすぐだった。役目を一つ終えた人間の背中だった。
セルウィンが、ようやく広間を黙らせた。彼は書見台の縁に両手を置き、しばらく俺を見下ろしていた。冷たい目は、冷たいままだった。けれど、その奥に、初めて見る色があった。
困惑、ではない。
苛立ち、でもない。
——理解できないものを、初めて目の前にした人間の、戸惑いだった。
「アシダ」と彼は言った。低い声だった。「君は、何をしたつもりだ」
「何も」と俺は答えた。「ただ、聞いただけです」
「聞いただけ、で一票が動いたと、本気で思っているのか」
「俺が動かしたんじゃありません。ハーランさんが、自分で思い出しただけです。なぜ自分が札を上げたのか。——人は、思い出すと、変わることがある」
セルウィンは、何か言いかけて、やめた。
彼は集計板に目を落とした。賛成九十六。さっきまで九十七だった数字。彼の世界で、四日間ずっと動かなかった数字。
「……いいか」と、彼は静かに言った。指先が、書見台を一度だけ叩いた。「百二十七の票がある。残りは百二十六だ。仮に君が、今日のように一日に一人ずつ説いて回ったとしよう。過半数を割るには、あと三十二票。三十二日かかる」
彼は顔を上げた。
「君の出頭期限は、二十五日後だ。——数字の上で、君はもう、間に合わない」
俺は、何も言わなかった。
セルウィンが、初めて、ほんの少しだけ前のめりになった。まるで、自分自身に問いかけるように。
「一票で、何が変わる」
「……一票で何が変わる、と」彼はもう一度、繰り返した。「教えてくれ、アシダ。本当に分からないんだ。君は、この九十六という数字を見て——なぜ、まだ笑っていられる」
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