第20話「老人の話と、三者の交渉」
老人の名前は最終的にわからなかった。
「名前は三代目で途絶えた」と言った。初代が冒険者で、二代目が迷宮で生まれ、三代目——この老人——も迷宮で生まれた。
外の世界を、老人は知らない。
「封印を書き換えた方法を教えてください」
エリアが手帳を出しながら聞いた。
「封印の核に、古代語でアクセスする方法がある。ここに百二十年分の研究が積み重なっている」
「資料はありますか」
「全部ここにある」
老人が部屋の奥を示した。
石造りの棚に、びっしりと本が並んでいた。
エリアの目が輝いた。
「……これは」
「初代が持ち込んだものと、俺が書いたものだ。持っていってくれ。外で役立てる方がいい」
エリアの助手が本を取り出し始めた。百冊以上ある。
「封印を、元に戻せますか」
俺は老人に聞いた。
「戻せる。ただし——今の調停者が封印の核と交渉する必要がある」
「俺がすればいい?」
「そうだ。封印の核には古代の調停者の意思が残っている。今の調停者が同じ意思を示せば、核が応答して封印を強化する」
「どうやって」
「封印の核の前で、霧と正式な交渉をしろ。霧が同意すれば、封印は自動的に強化される」
俺は少し考えた。
「霧との交渉が先か。封印の強化が後か」
「そうだ。封印は霧を閉じ込めるためにあるのではない。霧と外界が合意するまでの——猶予のために存在する」
「猶予」
「霧はもともと、外に出たかったわけではない。ただ古い時代、人間と接触する方法がなかった。だから封印して、調停者が橋渡しをする形を取った。霧が外界と正式な関係を結べれば、封印は必要なくなる」
俺はスキルを起動して、霧に接触した。
「聞こえるか」
『——聞こえる——』
「23層に来ていいか。直接会いたい」
長い沈黙。
『——来るのか——調停者が——直接——』
「行く」
『——待っている——ずっと——待っていた——』
老人を外に連れ出すことにした。
ドルグが「歩けるか」と聞いた。老人は「百二十年ぶりだが問題ない」と言った。
47層から23層まで戻る道、老人は一度も弱音を吐かなかった。
ただ、薄く明るい47層の廊下を出る瞬間だけ、少し止まった。
「生まれた場所を出るのは、どんな気分ですか」
俺が聞いた。
「怖い、とは違う。ただ——重い。百二十年分が、ここに詰まっているから」
「持って行けます。全部」
老人が俺を見た。
「調停者というのは、そういうことを言う生き物なのか」
「そうかもしれません」
「……初代も、似たことを言っていたと伝え聞いている」
23層の入口は、石でできた巨大な扉だった。
扉の向こうに、霧がある。
全員が止まった。
俺だけが前に出た。
「俺一人で入ります」
「馬鹿を言うな」
ドルグが言った。
「交渉の場に武装した人間が複数いると、相手が構える。これは俺の仕事です」
「お前に何もできなくなったら——」
「そうなってから考えてください」
ドルグが何か言いたそうだったが、グッと黙った。
扉を開けた。
霧の中に、入った。
視界が白くなった。
足元は見えない。前も見えない。ただ、スキルは動いている。
【調停者——霧の中心に向かっています】
歩いた。
どのくらい歩いたかわからない。時間の感覚が変わっている。
そして——何かがいた。
形はなかった。ただ、存在感があった。巨大な、疲れた、何か。
「会いに来た」
俺は言った。
『——来た——調停者が——本当に——』
「本当に来た。話を聞きたい」
しばらく間があった。
『——何が欲しい——』
「外に出たいか」
『——出たい——ずっと——出たかった——』
「出て、何をしたい」
また間があった。
『——わからない——考えたことが——なかった——』
俺は少し笑った。
「わからなくていい。出た後に考えればいい。ただ——一つだけ約束してほしい」
『——なんだ——』
「人間と迷宮の民を、支配しないと約束してほしい。出た後に、この世界と関係を結ぶ交渉をする。その交渉が終わるまで、待っていてほしい」
長い、長い沈黙があった。
『——それは——封印と——同じだ——』
「似ています。ただ今度は、俺が交渉を終わらせます。前の調停者とは違う。俺は——」
俺は少し考えてから言った。
「時間をかけても、終わらせます。あなたが納得できる形で」
霧が揺れた。感情的な揺れ方だった。
『——約束——できるか——』
「できます」
『——信じていいか——』
「信じていいです。俺は調停者で、引き受けた仕事は終わらせます」
また沈黙。
そして——霧の圧力が、少し変わった。
受け入れる方向に。
『——わかった——待つ——』
扉の外に出ると、全員が俺を見た。
スキルを確認した。
【第23層「支配の霧」封印強度:68%(急激強化)】
【霧との暫定合意:成立】
【推定猶予:最低6ヶ月以上】
六ヶ月。
十分だ。
「終わったか」
ドルグが聞いた。
「暫定的に。六ヶ月以上の時間ができました」
「六ヶ月で何をする」
「霧と人間と迷宮の民の間で、正式な関係を結びます。それが終われば——封印を解けます」
「封印を解くのか」
「最終的には。霧は閉じ込められるべきものじゃない。ただ急がない。きちんと準備する」
ドルグが首を振った。
「……お前の仕事は、終わらないな」
「まだまだ続きます」
「付き合わされる俺たちの身にもなれ」
「付き合ってくれることに感謝しています」
エリアが老人に向かって頭を下げた。
「資料をありがとうございます。百二十年分の研究、必ず世に出します」
「頼む。俺一人で抱えてきたものが、外に出られるなら——それだけでいい」
ヴァルが老人の前に立った。迷宮語で何か言った。
「なんと?」
「上層の言葉で話しかけた。百年前に消えた者たちの子孫だと言って、礼を言った」
「老人は?」
「——泣いていた」
帰り道、俺は前哨基地に戻りながら考えた。
第二章が終わった。
霧との暫定合意、封印の強化、47層の老人の救出、ドルグとの協力関係、ギルドへの情報開放。
全部が繋がった。
次は——霧と、人間と、迷宮の民の三者で、正式な関係を結ぶ。
それが第三章だ。
【迷宮管理 Lv.3→Lv.4 解放】
【新機能:多者間調停——三者以上の知性体との同時交渉が可能になります】
笑ってしまった。
スキルが、次の仕事を知っていたらしい。
施設に戻ると、ゴブが入口で待っていた。
「帰ってきた」
「帰ってきた」
「約束通りだ」
「約束したからな」
ゴブが少し間を置いて言った。
「……首尾は?」
「六ヶ月の時間ができた。その間に全部解決する」
「全部、とは」
「霧と、人間と、お前たちの間で、正式な関係を作る」
ゴブが俺を見た。
「……それが終わったら」
「終わったら——施設じゃなく、もっと広い場所に移れるかもしれない」
ゴブが夜空を見上げた。
「広い、か」
「広い。屋根のない場所で、毎晩星が見える」
ゴブが小さく言った。
「……楽しみだ」
【第二章 完】
次章「三者の契約」予告:
霧・人間・迷宮の民——三者が初めて同じ場に立つ日が来る。レンの迷宮管理スキルはLv.4に到達し、多者間の調停が始まる。そして47層から連れ帰った老人が語る「封印の本当の目的」とは何か。




