第192話「数字は動かない」
「俺がレン・アシダです」
衛兵の手が、槍の柄の上で止まった。
それから、彼の視線がゆっくりと上へ動く。議事堂の正門に垂れ下がった、見上げるほど巨大な布へ。角の生えた、牙のある、赤い目をした怪物。その下に黒々と書かれた文字——《人類最大の脅威・第一号》。
視線が、また俺に戻ってくる。
たっぷり三秒、彼は俺と布を見比べた。
「……何の冗談だ」
「冗談じゃないです。出頭しに来ました」
衛兵は隣の同僚と顔を見合わせた。二人とも、笑っていいのか槍を構えていいのか分からないという顔をしていた。無理もない。布の中の怪物は身の丈三メートルはありそうだし、俺は背も並、顔も並、半年の旅で日に焼けてはいるが、せいぜいくたびれた行商の供にしか見えないだろう。
革のブーツの底が、磨き上げられた白石の床に触れていた。冷たさが、薄くなった靴底を通してじかに伝わってくる。ここまでの石畳の道は、夏でも妙にひんやりしていた。富める者の建てた建物は、いつもどこか体温が低い。
「身分を証明するものは」
「ないです。手配書なら、そこにありますけど」
俺は正門の布を指さした。衛兵が、思わずといった様子で噴き出しかけ、慌てて咳払いでごまかした。
「似てないでしょう」
「……似てない」
正直な男だった。俺はそういう人間が嫌いじゃない。
奥から、上官らしき男が呼ばれてきて、また同じ問答が繰り返された。彼も俺を見て、布を見て、もう一度俺を見た。ただ、彼は笑わなかった。代わりに、ひどく面倒くさそうな、それでいて警戒した目をした。
「名乗り出る脅威など、聞いたことがない」
「俺もです。でも、逃げ回るほうが面倒だと思って」
男は何も答えず、顎で「来い」と示した。槍を持った衛兵が二人、俺の左右についた。縄も枷もない。たぶん、その必要を感じなかったのだろう。怪物だと思えば縛りたくなる。ただの旅人だと思えば、縛るのも馬鹿らしくなる。手配書が立派すぎたせいで、かえって俺の身は軽くなっていた。
長い廊下を歩いた。
両側に並ぶ柱は、一本一本が人間の何倍も太く、天井は首が痛くなるほど高い。窓から差す光が、磨かれた床に細長く落ちて、俺たちの影を四つ、引き延ばしていた。足音だけが、やたらと反響する。誰も口をきかない。
腹が、低く鳴った。
そういえば、朝から干し肉を一切れかじったきりだった。市場で店主が「持っていけ」とくれた肉。あれが最後の一切れだったな、と思い出す。世界を裁く建物の真ん中で、空腹を感じている自分が、少しおかしかった。
——まあ、腹が減るうちは、まだ大丈夫だ。
そう思うことにした。
廊下の突き当たりに、両開きの扉があった。衛兵が押し開けると、円形の広間が現れる。中央に低い演壇があり、それを取り囲むように、何段にも重なった石の席が並んでいた。今は、ほとんど空席だ。
ただ、ひとりだけ、立っている男がいた。
灰色の長衣を、皺ひとつなく着こなした、痩せた男だった。年は四十の半ばだろうか。背筋が、定規を入れたように真っ直ぐだ。手には薄い書類の束。その表紙に、俺の名が書いてあるのが、遠目にも分かった。
彼は、俺が広間に入っても顔を上げなかった。書類の最後の一枚を読み終え、几帳面に揃え、それからようやく俺を見た。
「レン・アシダ」
「はい」
「査問官のセルウィンだ。本査問の進行と、被指定者への弁明機会の付与を担う」
声に、抑揚がなかった。怒ってもいないし、軽蔑してもいない。ただ、目の前のものを「処理すべき案件」として見ている目だった。こういう目を、俺は何度か見たことがある。最初の頃の管理局にも、議会にもいた。話を聞く前から、結論を箱にしまい終えている人間の目だ。
「弁明は許す」
セルウィンは、書類を演壇の縁に置いた。
「規定により、被指定者には弁明の機会が与えられる。何を言ってもいい。証人を呼んでもいい。涙を流しても、土下座をしてもいい。すべて記録される」
「ありがたいです」
「ただし」
彼は、初めてわずかに俺のほうへ一歩踏み出した。
「覆らない。賛成は、既に九十七だ」
広間の空気が、その数字でほんの少し冷えた気がした。
「過半数は六十四。すでに三十三、超過している。君がここで何日かけて何を語ろうと、弁明とは——記録のための儀式に過ぎない。手続き上、君に口を開かせる必要があるから、開かせている。それだけだ」
俺は、黙って聞いていた。
セルウィンは、俺が反論するか、青ざめるか、あるいは命乞いをするのを待っているようだった。けれど俺が何も言わないので、かすかに眉を寄せた。
「驚かないのか」
「九十七、ですよね。来る途中で、何度か聞きました」
「ならば、絶望しているはずだ」
「うーん」
俺は、少し考えた。
「絶望は、しないです。だって、九十七人が俺を怖がってるってことは——九十七人ぶんの『理由』が、まだそこにあるってことなので」
セルウィンの眉が、もう一段寄った。
そのとき、広間の脇の扉が開いて、聞き慣れた足音が入ってきた。
「遅れた。悪い」
カイルだった。
旅装ではなく、調停者の正装をしている。詰襟の、紺の上衣。胸に、第七迷宮の紋。三年で、ずいぶん様になった。最初に「俺に門番を学べというのか」と渋い顔をしていた男が、今は「人類連合公認・第二代調停者」として、この場に立っている。
「カイル・ベルグだ。被指定者の補佐として帯同する。連合規定第十四条、被指定者は調停者一名を補佐に同行させられる——あんたが書いた規則だぞ、セルウィン査問官」
セルウィンは、表情を変えなかった。
「承知している。記録は取ってある」
「なら話が早い」
カイルは俺の隣に並ぶと、低い声で「無事に着いたか」とだけ言った。俺は「ガレスは門の前で別れた」と返す。それで、互いの確認は済んだ。多くを語らなくても通じるようになったのは、いつからだろう。
カイルが、右手をかざした。
その手のひらの上の空間に、薄い光の文字が浮かぶ。第七迷宮の核——フォルの回線を通じて、連合の公開集計を引いてくる。三年前まで俺の手にあった力が、今はこの男の手から立ち上がっていた。
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
【出頭期限:あと25日/公開査問・本日開廷】
「これが、たった今の数字だ」カイルが言う。「賛成九十七。反対十八。保留十二。……数字だけ見れば、もう終わってる」
俺は、その光の文字をしばらく眺めた。
九十七という数は、たしかに大きい。けれど俺の目は、自然とその隣の数に吸い寄せられていた。反対十八。保留十二。合わせて三十。
「三十人は、まだ手を挙げてない」
「レン」
「いや」俺は首を振った。「九十七人を相手にするんじゃない。怖がってる人を、ひとりずつ相手にするだけだ。それなら、やったことがある」
セルウィンが、初めて口元をわずかに歪めた。笑ったのではない。理解できないものを見たときの、人間の顔だ。
「君は——その三十を、説き伏せるつもりか」
「説き伏せる、っていうのは、ちょっと違うかな」
俺は、できるだけ正直に答えた。
「説き伏せると、その人は黙るだけです。黙った人は、後ろでまた怖がる。だから、説き伏せはしません。聞きます」
「聞く」
「はい。なんで怖いのか。何があったのか。聞かないと、こっちが損なので」
セルウィンは、しばらく俺を見つめていた。やがて、書類を取り上げ、表紙を指の腹でとんとんと叩いた。それは、彼が苛立ちを処理するときの癖なのかもしれなかった。
「君は、勘違いをしている」
「どこをですか」
「ここは、村の井戸端ではない。百二十七の国が、それぞれの利害と恐怖と歴史を背負って、票を投じる場だ。一人の話を聞いて、心を入れ替えて——などという、童話のような転がり方はしない」
「だといいんですけど」
「は?」
「俺も、最初はそう思ってました。だから、いつもこう決めてるんです」
俺は、セルウィンの目を見て言った。
「まあ、聞いてから判断しよう、って」
その言葉を口にした瞬間、広間の冷たい空気が、ほんのわずかに揺れた——ような気がした。気のせいかもしれない。ただ、セルウィンの指が、書類を叩くのをやめていた。
彼は、その言葉を、口の中で一度だけ転がしたように見えた。聞いてから、判断する。けれど、すぐにその余韻を振り払うように、ぱさりと書類を閉じた。
「下らん」
短く、彼は言った。
「君は皆を『話せば分かる相手』だと思っている。世界は、そんなに甘くない。三十年、この席を見てきた私が言うのだ」
「三十年、ですか」
「ああ」
「じゃあ、三十年ぶんの『聞かなかった話』が、その席にはあるんでしょうね」
セルウィンの顔から、初めて、温度というものが消えた。怒りでもない。冷たさでもない。それは、自分でも触れたくない場所に、不意に触れられた人間の——あの一瞬の、無防備な顔だった。
けれど彼は、すぐにそれを灰色の長衣の下にしまい込んだ。
演壇を回り込み、開廷を告げる鐘の紐に手をかけながら、背を向けたまま、彼は言った。
「弁明を許可する。明日から、一日に一席。君の好きにすればいい」
紐を引く寸前、彼の手が止まる。
「だが、忘れるな、アシダ。君が何を言おうと——」
鐘が、鳴った。
広間の高い天井に、その音が幾重にも反響して、空席の石段を駆け上がっていく。その響きの中で、セルウィンは静かに、しかしはっきりと、こう続けた。
「——数字は、動かない」
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