第191話
「……これ、誰だ」
思わず、声に出ていた。
城門の上、石壁いっぱいに垂れ下がった一枚の布。そこに描かれていたのは、額から二本の角を生やし、口の端から牙を覗かせ、両目だけを赤く塗られた何かだった。
《人類最大の脅威・第一号 レン・アシダ》
文字はそう読める。だが、絵のどこを探しても俺はいなかった。
角なんて生えていない。牙もない。目は——今朝、宿屋の曇った鏡で確かめたかぎり、ただの黒い目だ。背は並。肩幅も並。すれ違って三歩も歩けば忘れられる顔。それが俺の、たった一つの取り柄だった。
半年の旅で日に焼けた肌に、街道の埃がまだ残っている。足の裏は石畳の硬さで朝からじんじんしていた。喉が渇いていた。腹も、少し。
俺は人混みの隅で、しばらくその絵を見上げていた。
怒りは湧かなかった。代わりに、妙に静かな感心があった。
——よくもまあ、ここまで別人を描いたものだ。
角を描いたやつは、たぶん俺を見たことがない。牙を描いたやつも、赤い目を塗ったやつも、誰一人として俺と話したことがない。会ったこともない人間を、角と牙で塗り固めて、「これが脅威だ」と街じゅうに貼って回った。
それは悪意ですらないのかもしれない、と思った。
絵の前を、人が流れていく。荷を担いだ行商、子どもの手を引いた母親、革鎧の門衛。誰も足を止めない。止めないまま、ちらりと布を見上げて、ほんの少しだけ顔を強張らせて、また歩いていく。
その「ほんの少し」が、毎日、千回も積み重なる。
角と牙の俺は、もう街の空気の一部になっていた。実物の俺がその下を通り過ぎても、誰も気づかない。気づきようがない。みんなが知っているのは、布の上の怪物のほうなのだから。
「おい、そこ。立ち止まるな」
門衛が槍の石突きで地面を叩いた。俺は「すみません」と頭を下げて、人の流れに紛れ込む。
角のある俺を見上げながら、角のない俺が、その街へ入っていった。
首都ヴァリスは、想像していたより、ずっと普通の街だった。
石畳の大通りに、煮込みと焼きパンの匂い。果物売りの声が裏返りながら客を呼んでいる。井戸端で水を汲む女たちが笑っている。三年の平和は、ここにもちゃんと積もっていた。
脅威を裁こうとしている街が、こんなに普通でいいのか、と一瞬思った。
でも、たぶん、それでいい。普通だからこそ、人は「脅威」を布の上に閉じ込めておける。実物が隣を歩いているなんて、誰も考えない。
俺は市場の一角で足を止めた。
干し肉と香草を並べた小さな店。日に焼けた厚い手の店主が、椅子に座って退屈そうに蠅を払っている。客はいない。ちょうどいい。
「すみません、その干し肉、ひと房いくらですか」
「銅貨三枚だ。二つ買うなら五枚にしとく」
「じゃあ、二つ」
俺は銅貨を数えて渡した。指先が、まだ街道の埃でざらついている。店主は手を伸ばして肉を包みながら、ちらりと俺の格好を見た。
「旅の人かい。どこから」
「東のほうから。だいぶ歩きました」
「災難な時に来たな。今、この街は物騒だぞ」
店主は顎で、通りの向こうを示した。視線の先には、別の壁に貼られた、もう一枚の手配布があった。例の角と牙の絵だ。
「《人類最大の脅威》ってのが、もうじき裁かれる。査問会ってやつでな。なんでも、魔物を裏で操って、人間を皆殺しにしようとしてた化け物らしい」
「へえ」
俺は包みを受け取りながら、できるだけ間の抜けた声を出した。
「その化け物、見たことあるんですか」
「あるわけねえだろ。見たら食われちまう」
店主は笑った。それから、少し声を落とした。
「けどな、うちの女房の従兄弟が城の下働きをしててな。聞いた話じゃ、その脅威ってやつ、丸腰で、たった一人で、自分から裁かれに来るんだとよ」
「丸腰で、一人で」
「ああ。おかしな話だろ。人間を皆殺しにできる化け物が、護衛もつけずに、のこのこ裁判所に出向く。角の生えた化け物がだぜ?」
店主は自分で言って、自分で首をかしげた。
俺は干し肉をひと口かじった。塩が利いて、悪くない。半年も旅をしていると、こういう味のひとつひとつが、やけに体に染みる。
「変ですよね」と俺は言った。「皆殺しにできるなら、裁かれに来る必要なんてない」
「だよなあ。だから俺は、半分くらいは作り話だと思ってる。お偉いさんが、何かを大げさにしてるんだ。昔からそうさ。怖い顔を貼っとけば、こっちは大人しくしてるからな」
——この人は、ちゃんと自分の頭で考えている。
そう思って、俺は少しだけ嬉しくなった。布の上の角と牙を、丸ごと信じてはいない人間が、ここにちゃんといる。
「店主さんは」と俺は切り出した。「その脅威ってやつに、会ってみたいと思いますか」
「は? 会いたかねえよ。食われちまう」
「もし、角も牙もなかったら」
店主が、蠅を払う手を止めた。
「……どういう意味だ」
「いや」と俺は包みを懐にしまいながら言った。「絵ってのは、描いた人の都合で、どうにでもなるでしょう。角を足すのも、牙を足すのも、絵筆ひとつだ。本物を見たわけじゃない。だったら——会ってから決めても、遅くないですよ」
店主は、しばらく俺を見つめた。
通りの喧騒が、ふっと遠ざかったような気がした。果物売りの声も、井戸端の笑いも、一枚薄い膜の向こうにいった。
「会ってからって……裁かれるんだぞ、そいつは。もう決まってるんだ。会う前から」
「決まってるなら、なおさら、会ってからでもいいじゃないですか。どうせ結論が変わらないなら、急いで決める理由がない。一人くらい、『会ってから判断しよう』って言うやつがいても、罰は当たらないでしょう」
言ってから、自分の口癖が滑り出ていたことに気づいた。半年も一人で歩いていると、誰に聞かせるでもなく、この言葉が勝手に口から出る。門番だった頃から、ずっとそうだ。
まあ、聞いてから判断しよう。
俺がゴブに言った。ゴブがカイルに返した。カイルが、いつか誰かに渡す。そうやって旅をしてきた言葉が、今、首都ヴァリスの干し肉売りの前に、ぽとりと落ちた。
店主は、それを拾うように、口の中で小さく繰り返した。
「会ってから……判断、ねえ」
そして、ふいに笑った。困ったような、けれど嫌そうではない笑いだった。
「あんた、変なこと言うね」
その時だった。
耳の奥で、かすかな響きがした。
風の音とも、誰かのささやきともつかない、低く澄んだ音。第七迷宮の核を経由した、カイルの回線。距離があるとき、それは言葉ではなく、文字の形で、頭の奥に直接落ちてくる。
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
【公開査問会まで:あと2日/出頭期限:あと25日】
数字は、昨日と一つも変わっていなかった。
賛成、九十七。過半数は六十四。とうに、越えている。九十七人が、会ったこともない俺を、角と牙の怪物として、すでに裁く側に立っている。
俺は干し肉の塩を舌の上で転がしながら、その数字を見つめた。
でも、目の前にいる干し肉売りは、たった今、笑った。「会ってから判断、ねえ」と、繰り返した。
九十七のうちの一人ではない。投票権もない、ただの市民だ。けれど——査問会の票は、結局、こういう人たちの「怖い」が積み上がってできている。市場の隅で角と牙を半分しか信じていない人間が増えれば、その上に立つ票も、いつかは揺れる。
九十七を、一日一人ずつ。
壮大な話だ。馬鹿げているとも思う。けれど、ほかにやり方を知らない。俺の武器は、最初から、それひとつしかない。
「店主さん」と俺は言った。「もし、その脅威ってやつが、本当にこの街に来てたら——あんた、話くらいは、聞いてやってくれますか」
「はは、来るわけねえだろ。来たら教えてくれよ。一番に逃げるからよ」
店主はそう言って、また蠅を払った。
俺は「ええ、来たら」と笑って、店を離れた。
角と牙の俺の下を、角のない俺が歩いていく。あと二日で、その二つが、初めて同じ場所に立つ。布の上の怪物と、丸腰の旅人が。
査問会の門の前で。
「——会ってから決めても、遅くない。あんたにも、九十七人にも、それを言いに来たんですよ」
誰にも聞こえない声で、俺は布の上の自分に、そう言った。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




