第190話「ただの旅人です」
兵の問いが、夜明け前の冷えた空気にぽつんと残った。
「あんた……名前は?」
俺は手を止めなかった。差し出された通行記録の紙に、握りの甘い羽根ペンで「行商の供」と書きながら、顔を上げずに答える。
「ただの旅人です」
嘘ではない。半年前まで、本当にそうだった。スキルを返して、門番でもなくなって、ただ歩いていただけの人間だ。名前を名乗るより前に、それが俺という人間の一番正しい説明だった。
「旅人、ね」
若い兵は、俺の手元の文字をのぞき込んだ。疑っているというより、確かめたがっている顔だった。さっき自分が漏らした本音——戦争が戻ってほしくない、という言葉の置き場所を、まだ探している。
「字、汚いな」
「すみません。学がないもので」
「……いや、いい」
兵は紙を引き取って、年かさの兵のほうへ戻していった。俺は息を整える。心臓は、自分でも意外なほど静かだった。怖くないわけじゃない。ただ、ここで急いだら負ける、というのは身体が覚えている。急ぐと、人は嘘くさくなる。
年かさの兵が、記録台の蝋燭を引き寄せて紙を読んだ。皺の寄った目が、一度だけ俺の顔を見上げる。手配書の角の生えた怪物と、目の前の、どこにでもいる三十前後の男を、見比べているのがわかった。
「ヴァリスまで何をしに行く」
「日銭です。査問会だかなんだかで、人が集まってるって聞いて。人が集まれば、荷運びの仕事がある」
俺は肩をすくめてみせた。
「処分される怪物の見物だって、皆さん言ってますよ。俺は怪物より、その日の宿代のほうが気になりますがね」
年かさの兵が、ふっと鼻で笑った。緊張の糸が、ほんの少しだけゆるんだ音だった。
「……まあ、それが正直なところだろうな」
彼は判子を持ち上げ、一拍ためらってから、記録の隅に押した。
「通れ。怪物に近づきすぎるなよ。あれは、人の心を操るって話だ」
「操る怪物が、わざわざ歩いて自分を裁きに来ますかね」
俺がそう言うと、年かさの兵は判子を持ったまま固まった。何かを言いかけて、結局、何も言わずに横を向いた。それでよかった。納得させる必要はない。引っかかりが一つ残れば、それでいい。引っかかりは、いつか問いに変わる。
まあ、聞いてから判断しよう——胸の内でだけ、そう呟いた。
検問所の遮断棒が、軋みながら上がった。
検問所を抜けて街道を半里ほど行くと、枯れた灌木の陰から、丸太のような腕が伸びて俺の肩をつかんだ。
「生きてるな」
ガレスだった。歴戦の重騎士が、フードの奥で、初めて見るような顔をしていた。安堵、というには険しすぎる。
「通れました。字が汚いのが効いたみたいです」
「字が……?」
「学のない旅人に、角は生えてませんから」
ガレスは数秒、俺の言葉を咀嚼してから、低く唸った。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。この男が、九年ぶりくらいに笑ったような、そんな不器用な音だった。
「お前は、本当に剣を抜かんな」
「抜けないんですよ。持ってないので」
俺たちは並んで歩き出した。足の裏が、もう三日も同じ皮の靴に締めつけられて、感覚が鈍くなっている。指の付け根に、潰れた肉刺の硬い痛みがあった。空腹は、もう感じない段階を通り越して、頭の芯が軽くなる種類のものに変わっていた。それでも歩けるのは、ガレスが俺の歩幅に合わせて、わざと遅く進んでくれているからだった。
東の空が、灰から薄い金へと滲んでいく。その光を背に受けながら、ふいに頭の奥で、低く澄んだ声が響いた。
『……レン。聞こえるか』
カイルだ。第七迷宮の核——フォルの回線を経由して、遠く離れた俺の意識へ、言葉だけが届く。距離があると、声は水の底から浮いてくるように、輪郭が揺れる。
「聞こえてる。集計か」
『査問集計、変わらず。賛成九十七、反対十八、保留十二』
数字は、夜が明けても一つも動いていなかった。九十七。過半数の六十四を、とうに三十以上も超えている。俺がまだ一言も弁明していないうちに、人類は俺を殺すと決めている。
『出頭期限——あと二十六日』
「二十六か」
俺は足元の小石を、靴先で軽く転がした。
「ガレスさん。二十六日で、九十七を六十三まで削れると思いますか」
「思わん」
ガレスは即答した。気を遣わない男だ。だからこそ信用できる。
「だが、お前は思っているんだろう。一人ずつなら、と」
「一日一人でも、二十六人。九十七からは引けます。全部は無理でも、揺らせれば、揺れた票は次の票を揺らす」
ガレスは黙って、しばらく俺の横顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「九年だ」
「え」
「俺が、十二人の名を抱えていた年数だ。お前は、それをたった一晩で『前で聞く』と言った。——人を揺らすってのは、そういうことか」
俺は答えなかった。答えるより、聞いているほうがいい場面だというのは、これも身体が覚えている。
昼を過ぎて、街道の先に、人類連合首都ヴァリスの城壁が見え始めた。
遠目には、ただの灰色の壁だった。だが近づくにつれて、その壁が、地平を端から端まで塞ぐ巨大な石の波であることがわかってくる。第七迷宮の門とは、何もかも違う。あれは「閉じるための門」だった。ここは、「拒むための壁」だ。
城門へ続く道は、人で溢れていた。荷車、行商、巡礼、それから——査問会を見物に来た、ただの野次馬たち。皆、同じ方向へ流れていく。その流れに紛れてしまえば、俺ほど目立たない人間はいない。特徴がないことが、唯一の特徴。十七のあの日、ギルド長に「ランク外」と言われた俺の取り柄は、こんなところで役に立っている。
ガレスは、城門の手前で足を止めた。
「俺はここまでだ。顔が知られすぎている。中で会えば、お前を売ることになる」
「ここまで来てもらって、助かりました」
「礼はいい」
ガレスはフードを深く下ろし、それから、少しだけ躊躇って言った。
「……十二人の名は、忘れるなよ」
「忘れません。前で、聞きます」
ガレスは頷いた。何も言わず、踵を返し、人混みの逆を歩いていく。大きな背中が、すぐに群衆に呑まれて見えなくなった。
俺は一人になって、城門の流れに身を任せた。
門をくぐる直前、人の波がふいに、ある一点で渦を巻くようによどんだ。皆が、足を止めて、上を見上げている。指を差している者もいる。子どもが母親の袖を引いて、何か怖いものを見たように顔をしかめていた。
「あれが、例の」
「ああ、《人類最大の脅威》だとよ」
「魔物を従えてる、ってな。あんな顔した奴が……」
ざわめきの先を、俺もつられて見上げた。
城門の上——人の背丈の十倍はあろうかという、巨大な掲示布が、風をはらんで垂れていた。深紅の縁取り。中央に、墨と朱で大きく描かれた、一人の男の似顔絵。
その額からは、二本の角が、ねじれて天を突いていた。落ちくぼんだ眼窩の奥で、瞳が獣のように裂けている。口の端は耳まで吊り上がり、剝き出しの牙の間から、舌が蛇のように覗いていた。背後には、影のように群がる無数の魔物。その全てを従えるように、男が片手を掲げている。
布の下には、太い文字でこう書かれていた。
『人類最大の脅威・第一号 レン・アシダ』
俺は、しばらくその絵を見上げていた。空腹で軽くなった頭が、その絵と、自分という人間との間に、どうしても線を引けなかった。
角。牙。裂けた瞳。従える魔物。——どれ一つ、心当たりがない。俺は魔物を従えたことなんてない。ゴブにはいつも、判断を待ってもらっていただけだ。
群衆が、その絵を見て怯えている。母親が子どもの目を覆う。男が唾を吐く。皆、本気で、これを「俺」だと思って、恐れている。
俺は、誰にともなく、小さく呟いた。
「……これ、誰だ」
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