第189話「手配書の前で」
「あれだ」
ガレスが顎をしゃくった。街道の先、低い丘の切れ目に、木の柵と小さな詰所が見える。柵の横木には布が一枚、糊で貼りつけてあった。風に端がめくれている。
俺は目を細めた。距離があってもわかる。あれは手配書だ。
「俺の顔が描いてあるのかな」
「描いてあるんだろう。連合は本気だ」
ガレスの声は低い。歴戦の重騎士が、いま街道の脇の岩陰に身を伏せている。鎧を外し、革の外套で身体を隠していても、この男は隠れきれない。背が高すぎるし、立ち姿に軍隊が染みついている。
「あんたは、ここまでだな」
俺が言うと、ガレスは渋い顔をした。
「護衛を引き受けた。檻の入口で帰る護衛がどこにいる」
「あんたの顔は、俺の十倍知られてる。『不退のガレス』が脅威と一緒に検問を抜けようとした——それこそ連合の欲しい絵だ」
ガレスが黙った。九年戦った男だ。理屈は通じる。通じるからこそ悔しいという顔をしている。
「俺の顔は、誰も知らない」
俺は外套の埃を払った。三日歩いた埃だ。膝も腰も砂を噛んだみたいに重い。喉の奥が乾いて、唾を飲むと小さく音が鳴った。
「特徴がない。それが俺の唯一の特徴でね。十七のときからずっとそうだった」
岩陰に座ったガレスが、ふっと息を吐く。笑ったらしい。
「妙な武器だ」
「武器なんて、たいてい妙なもんだろ」
俺は柵のほうへ歩き出した。背中でガレスの声がした。
「アシダ」
振り返る。
「無理はするな。詰所には六人いる。柵を上げる滑車の前に二人、奥に四人。逃げ場は——」
「逃げないよ」
俺は首を振った。
「逃げたら、向こうは『やっぱり怪しい奴だった』と思う。怪しくない奴は、堂々と検問を受ける。ただそれだけだ」
ガレスは何か言いかけて、やめた。代わりに低く唸るように言った。
「……気をつけろ」
「まあ、聞いてから判断しよう」
口癖がするりと出た。言ってから、自分でも少しおかしくなる。これから自分を殺そうとしている連中の詰所に、丸腰で話を聞きに行く。聞いてから判断する余地なんて、向こうにはないつもりだろうに。
それでも、俺の側にはある。
俺は柵に向かって、ただの旅人の足取りで歩いていった。
近づくと、手配書の絵がよく見えた。
吊り上がった目。裂けた口。額に角のような影。獣じみた何かが、人の輪郭をかぶって睨んでいる。その下に大きな黒い字で、《人類最大の脅威・第一号 レン・アシダ》とあった。
俺は思わず足を止めて、まじまじと見た。
似ても似つかない。
鏡なんてここ何年もろくに覗いていないが、それでも自分が角の生えた獣でないことくらいは知っている。誰かが俺を、わざわざ怪物に描き直したのだ。本物の俺が来ても誰も気づかないように。あるいは——本物の俺を見たとき、誰も信じられないように。
「おい、そこ」
詰所から声がかかった。若い兵だ。槍を持っているが、構えてはいない。だるそうに肩にもたせかけている。
「通行か」
「ええ。ヴァリスまで」
俺は手配書を指さした。
「これ、すごい顔ですね。こんなのが本当にいるんですか」
兵が手配書を一瞥して、鼻で笑った。
「いるらしいぜ。連合の偉いさんが言うには、人の心を操って魔物を従える化け物だとさ」
「へえ。会ったら怖いな」
「会えるかよ。だいたい、こんな絵で誰がわかるってんだ」
兵はそう言って、自分の言葉に少し笑った。俺も笑った。柵の滑車のところで、もう一人の兵がこっちを見ている。年かさのほうだ。そっちは笑っていない。
「通行札は」
年かさの兵が言った。
「持ってません。隣村まで日雇いに行った帰りで」
「どこの村だ」
「カレン村です。麦の刈り入れで人手が足りないってんで」
これは嘘じゃない。来る途中で本当にそういう村があった。話は、嘘より本当のほうが崩れない。本当のことの隅っこに立っていれば、たいていの問いには答えられる。
年かさの兵が、俺の顔をじっと見た。手配書を見て、また俺を見た。
俺は動かなかった。心臓は少し速かったが、顔は動かさない。
「……ふん」
兵は鼻を鳴らして、視線を外した。手配書の怪物と、目の前の特徴のない男。その二つが頭の中で結びつかなかったのだろう。
「待ってろ。札なしは記録を取る」
兵が詰所の奥へ引っ込んだ。残った若い兵が、槍を肩に乗せたまま、退屈そうに地面を蹴った。
「兄ちゃん、運がいいぜ。あいつ、機嫌悪い日は半日待たせるからな」
「機嫌、悪いんですか」
「最近ずっとだよ」
若い兵は声をひそめた。
「人手が増えたんだ。検問所に六人だぜ? 前は二人だった。なのにやることは旅人の札を見るだけ。誰も来やしない。暇で給金だけ出てる。上の連中は、それが気に入らねえらしい」
「暇なのは、いいことなんじゃ」
俺がそう言うと、若い兵はきょとんとした。
「いいこと、か」
兵はもう一度それを呟いて、槍の石突きで地面に丸を描いた。
「俺の親父は、北の砦で死んだ。魔物の溢出ってやつでさ。俺がガキの頃だ」
俺は黙って聞いた。
「だから軍に入った。仇を取るとか、そういうんじゃねえよ。食えたからだ。軍は食えた。魔物が出るたびに人が要る。人が要るから、俺みたいなのにも仕事がある」
兵は丸の中に、ぐしゃぐしゃと線を引いた。
「でもよ。ここ三年、魔物が出ねえ。一匹もだ。砦は半分に減らされて、こんな街道の検問所に回されて——次は何だと思う?」
「……次は」
「いらねえ、って言われるんだよ。俺たちが」
兵の声に、笑いはもうなかった。
「親父を殺した魔物と、誰かが仲直りしたんだとさ。それで世界は平和になった。めでたい話だ。本当にめでたい。けど、平和になったぶん、俺の居場所が消えてく。誰も悪くねえのに、消えてく。それが——なんか、こええんだ」
怖い。
ガレスと同じ言葉だった。重騎士も、この若い兵も、消えていく自分が怖いと言う。槍を持っている側が、誰よりも置いていかれることに怯えている。
俺は手配書を、もう一度見上げた。角の生えた怪物が、こっちを睨んでいる。連合はこの絵で、こいつらの怖さに名前と顔を与えたのだ。「お前たちの居場所を奪ったのは、こいつだ」と。
頭の奥で、小さく音が鳴った。
迷宮の核を通した、カイルの回線だ。距離があると言葉は霧みたいに途切れる。それでも、数字だけはいつも届く。
『……レン。今日の集計だ』
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
『出頭期限——あと二十七日。柵の向こう、無理するな』
二十七日。九十七人が、俺を消すべきだと言っている。そのうちの何人が、この兵と同じ顔をしているんだろう。怖いから、消したい。消えてほしいのは魔物でも俺でもなく、自分が要らなくなる未来のほうなのに。
俺は若い兵に向き直った。
「正直に聞いていいですか」
「あ?」
「あなたは、戦争が戻ってきてほしいですか」
兵は、虚を突かれた顔をした。槍の石突きが、地面の丸の上で止まる。
長い間があった。風が手配書の端をめくって、また戻した。
「……戻ってほしかねえよ」
兵は、絞り出すように言った。
「親父みたいなのは、もう、ごめんだ。居場所はなくなる。けど——正直、平和なほうがいい。そりゃそうだろ。当たり前だろ」
当たり前だ、と兵は二度言った。自分に言い聞かせるみたいに。たぶんこの三年、誰にも言えなかった当たり前を、初めて声に出したのだ。検問所の柵の前で、名前も知らない旅人相手に。
「当たり前ですよ」
俺は静かに言った。
「居場所がなくなるのと、平和がいやなのは、別の話だ。あなたは平和がいやなんじゃない。要らなくなるのが怖いだけだ。それなら——居場所のほうを、なんとかすればいい」
「……そんなの、できんのかよ」
「さあ。でも、できないと決まったわけでもない」
俺は肩をすくめた。
「まあ、聞いてから判断しましょう。誰かに、ちゃんと。あなたの怖さを、当たり前だって言ってくれる誰かに」
兵が、俺を見た。今度はまっすぐに。手配書の怪物ではなく、目の前のただの男を見ている。
その目の中で、何かがゆっくり動いた。警戒でも、退屈でもない。もっと素朴な、子供みたいな問いだ。
「あんた」
兵は、槍を地面から少し離した。
「変なこと言うな。検問なんかで、そんな話、誰もしねえ」
「聞かれなかっただけじゃないですか」
「……かもな」
兵は、少しだけ笑った。さっきの愛想笑いとは違う笑い方だった。
そして、ふと、思いついたように言った。
「あんた、名前は——」
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