第186話「召喚状」
「——三十日だ」
カイルの声が、囲炉裏の火の上で固く凍った。
俺の手の中で、茶はとっくに冷めている。湯気の消えた木の椀を、俺はただ握っていた。指先が、思っていたより冷えている。日が落ちると、第七迷宮のあたりは夏でも一気に肌寒くなる。三年住んでも、これだけは慣れない。
カイルの『迷宮管理』スキルが、薄青い文字を宙に描いていた。スキルを返してから三年。あの光を、俺はもう自分の手では呼べない。今は全部、こいつの中にある。
「読み上げる。いいか」
「ああ。聞こう」
カイルが、ひとつ息を吸った。
「『人類連合査問本部、決議付帯命令。被指定者レン・アシダは、本通達の到達より三十日以内に、連合首都ヴァリスの公開査問会へ出頭すべし。出頭せざる場合、弁明の意思なしと見なし、有罪を確定。指定処分を即時執行する』」
火の爆ぜる音がした。
それきり、小屋は静かになった。
ガレスが、囲炉裏の向こうで動かなくなっている。さっきまで、九年前のフォルガル渓谷で失った十二人の名を、一人ずつ口にしようとしていた男だ。「……ア」と、最初の一音だけを震わせたところで——カイルの通信が、それを断ち切った。
名前は、まだ宙に浮いたままだ。
「出頭しなければ、処分」ガレスが、低く繰り返した。「逃げれば、自分から有罪になる。出頭すれば、その場で吊るされる。……どちらに転んでも、死ぬようにできている」
「うまくできてる」俺は言った。「よく考えた人がいる」
「感心している場合か」
「感心はしてないよ。ただ、これを作った人間が、本気で俺を殺したいだけなら——こんな手間はかけない」
ガレスが、眉を寄せた。
「刺客を送れば済む。誰にも知られず、俺は森で野垂れ死ぬ。なのに、わざわざ三十日もくれて、首都まで呼びつけて、人前で裁こうとしてる」俺は冷めた茶をひと口飲んだ。苦い。「人に見せたいんだ。俺が裁かれるところを。……それは、見せないと不安だからだ」
「不安?」
「裁く側が、だよ」
ガレスは答えなかった。けれど、その沈黙は否定ではなかった。
「票は、動いたか」
俺が聞くと、カイルは少しの間、宙の文字を睨んでいた。連合の議事は、こいつのスキルにだけ薄く漏れてくる。なぜ漏れるのかは、誰も説明できない。ただ、迷宮の核と人の議会が、どこかで繋がってしまっているらしい。
「変わってない」
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
薄青い数字が、火明かりの中で浮いた。
賛成、九十七。俺を処分すべきだと言っている国が、九十七。
全百二十七票のうち、過半数は六十四。とっくに超えている。とっくに、決まっている。
「九十七」ガレスが、その数字を読み上げた。声に、奇妙な重さがあった。「私は、その一票を持つ国の、剣だった」
「過去形か」
「……わからん」彼は正直だった。それが、この男の唯一にして最大の武器だと、俺はもう知っている。「わからんから、ここにいる」
俺は笑いそうになって、やめた。笑う場面ではない。
「一つだけ言っておく」ガレスが立ち上がった。鎧が、低く鳴った。「私は今夜、迷宮を攻めない。隊を退く。それは決めた。だが、お前の味方になると言ったわけじゃない。……まだ、十二人の名前を、お前に渡してない」
「渡す気は、まだあるんだな」
ガレスの肩が、わずかに止まった。
「……今のは、聞き流せ」
「聞き流さないよ」俺は言った。「聞いたことは、覚えておく。それだけだ」
彼は何か言いかけて、結局、戸口で背を向けた。冷たい夜気が、開いた戸から流れ込んでくる。月のない夜だった。重騎士の影が、ゆっくりとそれに溶けていく。
戸が閉まる直前、ガレスは振り返らずに言った。
「三十日で、九十七を、ひっくり返せるのか」
「やってみないと、わからない」
「……正気じゃないな」
「よく言われる」
戸が閉まった。
囲炉裏に、俺とカイルだけが残された。
「レン」カイルが、火を見たまま言った。「行くんだな」
「行く」
「殺されに、か」
「弁明しに、だ」俺は冷めた椀を置いた。「三年前、ゴブが俺の小屋の扉を叩いた。あいつは殺されに来たわけじゃない。話を聞いてほしくて来た。……俺も、同じことをするだけだ。今度は、俺が叩く側ってだけで」
カイルが、ふっと息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、わからない息だった。
「最初に俺が言われた言葉、覚えてるか。お前がジョブ判定で『門番』を引いたとき。俺はお前に、『まあ、生きてはいけるんじゃないか』って言った」
「覚えてる」
「あのときの俺を、殴ってやりたい」
「殴らなくていい」俺は言った。「あのときのお前がいなかったら、今のお前はいない。順番に来たんだ。全部」
カイルは何も言わず、ただスキルの光を、すっと消した。九十七という数字が、闇に溶けた。けれど、消えても、それはそこにあり続ける。数字は、見ないことにしても、減りはしない。
——そのときだった。
戸の外で、土を踏む足音がした。小さい。けれど、迷いのない足音だ。
戸が、控えめにノックされた。三回。
三年前と、同じ叩き方で。
「レン」戸の向こうで、聞き慣れた声がした。「……入って、いいか」
「いいぞ、門番殿」
戸が開いて、ゴブが立っていた。緑の肌に、夜気の冷たさを乗せて。腰には、第七迷宮の門番を示す、王国公認の認可証が下がっている。三年前、人間の言葉をたどたどしく話していた小隊長は、今では迷宮の正式な門番だ。背筋が、あの頃より、ずっと伸びている。
「壁越しに、全部、聞いていた」ゴブは言った。「三十日。首都。出頭しなければ、処分」一語ずつ、確かめるように。「逃げる、という手は——」
「ない」俺は言い切った。
ゴブの、黄色い目が揺れた。
「なぜだ」
「俺がここから逃げたら」俺は囲炉裏の火を見た。「次に査問にかけられるのは、お前たちだ。『脅威を匿っていた魔物の群れ』として。逃げた俺の罪を、お前たちが代わりに着せられる。……連合は、それを待ってる。俺が逃げるのを」
ゴブは、しばらく黙っていた。火の音だけが、小屋を満たした。
それから、ぽつりと言った。
「……まあ、聞いてから、判断したい」
俺は顔を上げた。
ゴブの口から、その言葉が出たことに——三年経った今でも、俺は一瞬、息を止めてしまう。最初に言ったのは俺だ。けれど今は、こいつのものになっている。叩き方も、言葉も、ゆっくりと、こいつに移っていった。それが、なぜだか嬉しくて、少しだけ、寂しい。
「査問会の話を、俺も、直接聞く」ゴブは言った。「壁越しじゃなく。お前の隣で」
「ダメだ」
俺は、即座に言った。
自分でも驚くほど、強い声が出た。
ゴブの目が、大きく見開かれる。傷ついた、というより——わからない、という顔だった。三年前、外の人間に石を投げられて逃げ帰ってきた、あの夜の顔に、少しだけ似ていた。
「……なぜだ」ゴブは、もう一度言った。さっきと同じ言葉なのに、重さがまるで違う。「レン。今度は、なぜ、ダメなんだ」
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