表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
185/224

第185話「怖い、を聞く」

「怖い」


ガレスがそう言ったきり、小屋の中は静かになった。


囲炉裏の薪が一本、小さく爆ぜる。茶の湯気はもう細い。俺は急須に手をかけたが、注ぎ足さなかった。今、音を立てるべきではない気がした。


歴戦の重騎士が、空になった木の椀を両手で包んだまま、視線を炉の火に落としている。その手は、剣を握りすぎて節くれだっていた。指の付け根に、革手袋の縫い目が一生分こすれた跡があった。


「怖い、ですか」


俺は繰り返した。否定も肯定もせず、ただ同じ言葉を、もう一度。


ガレスの肩がわずかに動いた。


「……笑うか」


「いいえ」


「連合最強と呼ばれた男が、ゴブリンの淹れた茶を飲んで、怖いと言っている」自嘲が、声の底に沈んでいた。「滑稽だろう」


俺は答えなかった。代わりに、彼が両手で包んだ椀を見た。冷めた茶を、まだ手放せずにいる男の手を。


「怖いって、いろんな種類があると思うんです」


俺は静かに言った。


「死ぬのが怖い。負けるのが怖い。間違えるのが怖い。……全部、形が違う。あなたのは、どれですか」


ガレスが顔を上げた。鋭い目だった。値踏みするような、長く戦場で生きてきた人間の目。けれどその奥に、別のものが揺れていた。


「……お前は」彼は低く言った。「俺を、殺しに来た標的のはずだぞ。なぜ、俺の怖さを聞く」


「聞かないと、損だからです」


俺は前世から、たぶんずっと、それしか持っていない。


「あなたが何を怖がっているか分からないまま、俺はあなたと向き合えない。剣を抜くか抜かないか決めるのは、その後でいい」俺は彼の目をまっすぐ見た。「まあ、聞いてから判断しよう。お互いに」


ガレスは長いこと、俺を見ていた。


それから、ゆっくりと、木の椀を膝の上に置いた。手放したのではない。置く場所を、やっと決めたという手つきだった。



 



「九年前だ」


ガレスが口を開いたとき、薪はまた一本、燃え尽きようとしていた。


「東方戦線。フォルガル渓谷の溢出だ。聞いたことは」


「名前だけ」


「なら、知らんも同然だな」彼は短く笑った。笑いのかたちをした、何か別のものだった。「あの日、迷宮の口から魔物が溢れた。事前の徴候は出ていた。出ていたんだ。だが本部は『規模は小さい』と判断した。俺の隊は、たった三十人で前線に置かれた」


炉の火が、彼の顔の半分を照らしていた。残り半分は、影の中にあった。


「溢れた数は、二千を超えていた」


俺は何も言わなかった。数字の重さは、口を挟めば軽くなる。


「俺は隊長だった。退却の判断は、俺がした。間に合わなかった。……しんがりに、十二人が残った。逃がすために、自分から残ったやつらだ。命令じゃない。あいつらが、自分で決めた」


ガレスの喉が、一度上下した。


「俺は、振り返らずに走った。十二人ぶんの背中を、聞きながら走った。声が、一つずつ消えていくのを、聞きながらだ」


薪が崩れ、火の粉が舞った。


「あの声は、今でも聞こえる。魔物の咆哮じゃない。味方の声だ。俺の名前を呼ぶ声が、後ろで、一つずつ……」彼は言葉を切った。「だから俺にとって、魔物は敵だった。九年間、ずっとだ。それでよかった。敵を斬るのに、理由はいらん。憎めばいい。それで、あの十二人に顔向けができると思っていた」


俺は、冷めた茶を一口飲んだ。喉の渇きではなく、自分の呼吸を整えるために。


「それが」俺は静かに言った。「急に、敵じゃなくなった」


ガレスの目が、俺を捉えた。


「……ああ」


「魔物と人間が和解した、ってニュースを、あなたはどこで聞きましたか」


「酒場の壁の、布告だ」彼は吐き捨てるように言った。「壁に、紙が一枚貼られていた。『迷宮の魔物との共存協定が成立した』と。役人がそれを読み上げて、立ち去った。それで終わりだ」


声が、低くなった。


「九年だぞ。俺が憎んで、斬って、仲間を埋めて、生き残った九年が——壁の紙、一枚だ。誰も俺に説明しなかった。なぜ和解できたのか。あの十二人の死は、何だったのか。誰も、何も」



 



「置いてけぼりだ」


ガレスが言った。


その一言が、小屋の空気を変えた。俺は、彼が本当に言いたかったことに、今やっと触れた気がした。


「世界が、勝手に前に進んだ。昨日まで敵だったものが、今日は隣人だと言う。和解だ、共存だと、皆が言う。けれど俺は、その『皆』の中にいない。俺の九年は、その新しい世界のどこにも、置き場所がない」


彼は両手を組んだ。組んだ指が、白くなるほど力が入っていた。


「俺は、間違っていたのか? 魔物を憎んだことが。仲間の仇を討とうとしたことが。新しい世界では、それは——時代遅れの、愚かな、恥ずべきことなのか?」


声が震えていた。重騎士の声ではなかった。置き去りにされた、一人の人間の声だった。


「だから、怖い。今のお前たちのこの光景が」彼は囲炉裏の向こう、台所に立つゴブのほうを、見ないように見た。「ここには、答えがある。魔物と人間が、笑って暮らしている。だが、その答えは、俺の九年を、なかったことにして成り立っているように見える。……それが、怖いんだ。斬るより、ずっと」


長い沈黙が落ちた。


俺は、すぐには答えなかった。


答えを急ぐのは、聞いていない証拠だ。前世で、何度もそう学んだ。人は、自分の痛みを全部吐き出すまで、相手の言葉を受け取れない。だから俺は、ガレスがすべて吐き出すのを、待った。火が爆ぜる音だけが、二人の間にあった。


それから俺は、ゆっくりと口を開いた。


「あなたの九年は、なかったことになんて、なってません」


ガレスが、顔を上げた。


「和解は、あなたの憎しみを否定するために起きたんじゃない。あなたみたいに憎んで、戦って、仲間を失った人がもう出ないように、起きたんです」俺は、言葉を選びながら続けた。「順番が、逆なんです。あなたたちが流した血の上に、今の平和が立ってる。なかったことにするどころか——あなたの九年がなかったら、今のこれは、ない」


「……そんなものは」ガレスの声が掠れた。「後付けの、慰めだ」


「かもしれません」俺は否定しなかった。「でも、慰めかどうかを決める前に、一つだけ。あなた、誰かにこの話を、したことありますか。フォルガル渓谷の、十二人の話を」


ガレスが、止まった。


その沈黙が、答えだった。


「九年、誰にも言わなかった」俺は静かに言った。「壁の紙一枚で世界が変わったとき、誰もあなたに説明しなかった。同じように——あなたも、誰にも、その十二人のことを話さなかった。違いますか」


火の光の中で、ガレスの目が、揺れた。


「言って、どうなる」彼は絞り出した。「死んだ者は、戻らん」


「戻りません」俺は頷いた。「でも、聞く人間は、いる」


俺は、彼の目を見た。


「今から聞きます。十二人の名前を、一人ずつ。急がなくていい。一晩でも、二晩でも。あなたが、後ろで消えていったって言ったその声を、今度は俺が、前で聞きます」


ガレスが、息を呑んだ。


その大きな身体が、ほんの少し、揺れた。九年間、誰の前でも崩れなかったであろう男が、ゴブリンの小屋の囲炉裏端で、わずかに、前に傾いだ。


「……アルフ」


最初の名前は、ほとんど音にならなかった。


「先頭で、残ると言った。十九だった。……アルフ」


「アルフ」俺は、繰り返した。受け取ったしるしに。


「ベイリー。双子の、兄のほうだ。弟は……俺が逃がした。だから、ベイリーは、俺を恨んでいいんだ」


「ベイリー」


囲炉裏の火が、二人を照らしていた。台所のゴブが、いつのまにか手を止めて、静かにこちらを見ていた。給仕のゴブリンではなく、門番の顔で。


俺は名前を、一つずつ、受け取った。声が消えていった方向と、逆向きに。後ろから前へ。闇から、火のほうへ。



 



七つ目の名前を聞いたあたりで、戸の外が、ざわついた。


馬の蹄。それも、急いでいる。


俺が腰を浮かせるより早く、戸が開いた。冷たい夜気と一緒に、カイルが飛び込んできた。マントに夜露が光っている。二代目調停者になっても、こいつの飛び込み方は、昔のままだった。


「レン——」


その手には、見慣れた光があった。『迷宮管理』のスキルが、空中に淡い文字を描いている。俺の手から離れて三年、今はカイルの手の中で動くそれが、連合の集計を映していた。


【査問集計:賛成97/反対18/保留12】


数字は、動いていない。九十七のままだ。だが、カイルの顔は、それを見に来た顔ではなかった。


「悪い、取り込み中なのは分かってる」カイルの視線が、ガレスとその濡れた頬を一瞬で捉え、そして俺に戻った。声を落とす。「だが、待てない。連合本部から、来た」


スキルの文字が、切り替わった。


【迷宮管理Lv.1:通信受領——人類連合・第三査問局・正式召喚状】


「召喚状だ」カイルが言った。「正式な、査問会への出頭命令。お前個人宛だ、レン」


俺は、急須を置いた手を、止めた。


「期限は」


「三十日以内」カイルの喉が鳴った。「ヴァリス本国の査問会に、自ら出頭しろ、と。そして——」


こいつは、嫌な情報ほど、まっすぐ伝える。昔は世界を疑わなかった男が、今は世界の残酷さを、ごまかさずに運んでくる。


「出頭しなければ、弁明の機会は永久に失われる。その時点で有罪確定。即時、処分執行だ」


囲炉裏の火が、爆ぜた。


ガレスが、ゆっくりと立ち上がった。連合が最強の駒として送り込んだ男が、今は名前を七つ、半分だけ俺に預けて、立っていた。


「……即時処分、だと」彼の声は低かった。「査問が、賛成九十七。出頭しても、結論は出ている。出頭しなくても、殺される」彼は俺を見た。「どちらに転んでも、お前は——」


「ガレスさん」俺は遮った。


彼が、口をつぐんだ。


俺は、まだ膝の上に残っていた、ベイリーという名前の温度を、消さないように。それから、九十七という数字を、頭の隅に並べた。聞くべき相手が、九十七人いる、ということだ。


「残りの五人の名前は、戻ってきたら聞きます」俺は言った。「だから、覚えておいてください。アルフ。ベイリー。——途中で、やめにはしません」


ガレスの目が、見開かれた。


俺は立ち上がり、戸の外の暗がりを、見た。三十日。ヴァリスまで。そして、九十七の「怖い」が、待っている。


「行くんだな」カイルが言った。問いではなかった。


「ああ」俺は、夜のほうへ顔を向けたまま答えた。「ただし、出頭の仕方は、向こうの言う通りにするとは言ってない」


カイルが、眉を上げた。


「どういう意味だ」


俺は、囲炉裏の最後の薪が、白い灰に変わっていくのを見た。声が消えていくのではなく、火が、ちゃんと燃え尽きるまで、誰かが見ていた、という形に。


「まあ」


俺は、上着に手を伸ばした。


「聞いてから判断しよう。九十七人ぶん、一人ずつな」

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。


もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。

なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ