第185話「怖い、を聞く」
「怖い」
ガレスがそう言ったきり、小屋の中は静かになった。
囲炉裏の薪が一本、小さく爆ぜる。茶の湯気はもう細い。俺は急須に手をかけたが、注ぎ足さなかった。今、音を立てるべきではない気がした。
歴戦の重騎士が、空になった木の椀を両手で包んだまま、視線を炉の火に落としている。その手は、剣を握りすぎて節くれだっていた。指の付け根に、革手袋の縫い目が一生分こすれた跡があった。
「怖い、ですか」
俺は繰り返した。否定も肯定もせず、ただ同じ言葉を、もう一度。
ガレスの肩がわずかに動いた。
「……笑うか」
「いいえ」
「連合最強と呼ばれた男が、ゴブリンの淹れた茶を飲んで、怖いと言っている」自嘲が、声の底に沈んでいた。「滑稽だろう」
俺は答えなかった。代わりに、彼が両手で包んだ椀を見た。冷めた茶を、まだ手放せずにいる男の手を。
「怖いって、いろんな種類があると思うんです」
俺は静かに言った。
「死ぬのが怖い。負けるのが怖い。間違えるのが怖い。……全部、形が違う。あなたのは、どれですか」
ガレスが顔を上げた。鋭い目だった。値踏みするような、長く戦場で生きてきた人間の目。けれどその奥に、別のものが揺れていた。
「……お前は」彼は低く言った。「俺を、殺しに来た標的のはずだぞ。なぜ、俺の怖さを聞く」
「聞かないと、損だからです」
俺は前世から、たぶんずっと、それしか持っていない。
「あなたが何を怖がっているか分からないまま、俺はあなたと向き合えない。剣を抜くか抜かないか決めるのは、その後でいい」俺は彼の目をまっすぐ見た。「まあ、聞いてから判断しよう。お互いに」
ガレスは長いこと、俺を見ていた。
それから、ゆっくりと、木の椀を膝の上に置いた。手放したのではない。置く場所を、やっと決めたという手つきだった。
「九年前だ」
ガレスが口を開いたとき、薪はまた一本、燃え尽きようとしていた。
「東方戦線。フォルガル渓谷の溢出だ。聞いたことは」
「名前だけ」
「なら、知らんも同然だな」彼は短く笑った。笑いのかたちをした、何か別のものだった。「あの日、迷宮の口から魔物が溢れた。事前の徴候は出ていた。出ていたんだ。だが本部は『規模は小さい』と判断した。俺の隊は、たった三十人で前線に置かれた」
炉の火が、彼の顔の半分を照らしていた。残り半分は、影の中にあった。
「溢れた数は、二千を超えていた」
俺は何も言わなかった。数字の重さは、口を挟めば軽くなる。
「俺は隊長だった。退却の判断は、俺がした。間に合わなかった。……しんがりに、十二人が残った。逃がすために、自分から残ったやつらだ。命令じゃない。あいつらが、自分で決めた」
ガレスの喉が、一度上下した。
「俺は、振り返らずに走った。十二人ぶんの背中を、聞きながら走った。声が、一つずつ消えていくのを、聞きながらだ」
薪が崩れ、火の粉が舞った。
「あの声は、今でも聞こえる。魔物の咆哮じゃない。味方の声だ。俺の名前を呼ぶ声が、後ろで、一つずつ……」彼は言葉を切った。「だから俺にとって、魔物は敵だった。九年間、ずっとだ。それでよかった。敵を斬るのに、理由はいらん。憎めばいい。それで、あの十二人に顔向けができると思っていた」
俺は、冷めた茶を一口飲んだ。喉の渇きではなく、自分の呼吸を整えるために。
「それが」俺は静かに言った。「急に、敵じゃなくなった」
ガレスの目が、俺を捉えた。
「……ああ」
「魔物と人間が和解した、ってニュースを、あなたはどこで聞きましたか」
「酒場の壁の、布告だ」彼は吐き捨てるように言った。「壁に、紙が一枚貼られていた。『迷宮の魔物との共存協定が成立した』と。役人がそれを読み上げて、立ち去った。それで終わりだ」
声が、低くなった。
「九年だぞ。俺が憎んで、斬って、仲間を埋めて、生き残った九年が——壁の紙、一枚だ。誰も俺に説明しなかった。なぜ和解できたのか。あの十二人の死は、何だったのか。誰も、何も」
「置いてけぼりだ」
ガレスが言った。
その一言が、小屋の空気を変えた。俺は、彼が本当に言いたかったことに、今やっと触れた気がした。
「世界が、勝手に前に進んだ。昨日まで敵だったものが、今日は隣人だと言う。和解だ、共存だと、皆が言う。けれど俺は、その『皆』の中にいない。俺の九年は、その新しい世界のどこにも、置き場所がない」
彼は両手を組んだ。組んだ指が、白くなるほど力が入っていた。
「俺は、間違っていたのか? 魔物を憎んだことが。仲間の仇を討とうとしたことが。新しい世界では、それは——時代遅れの、愚かな、恥ずべきことなのか?」
声が震えていた。重騎士の声ではなかった。置き去りにされた、一人の人間の声だった。
「だから、怖い。今のお前たちのこの光景が」彼は囲炉裏の向こう、台所に立つゴブのほうを、見ないように見た。「ここには、答えがある。魔物と人間が、笑って暮らしている。だが、その答えは、俺の九年を、なかったことにして成り立っているように見える。……それが、怖いんだ。斬るより、ずっと」
長い沈黙が落ちた。
俺は、すぐには答えなかった。
答えを急ぐのは、聞いていない証拠だ。前世で、何度もそう学んだ。人は、自分の痛みを全部吐き出すまで、相手の言葉を受け取れない。だから俺は、ガレスがすべて吐き出すのを、待った。火が爆ぜる音だけが、二人の間にあった。
それから俺は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたの九年は、なかったことになんて、なってません」
ガレスが、顔を上げた。
「和解は、あなたの憎しみを否定するために起きたんじゃない。あなたみたいに憎んで、戦って、仲間を失った人がもう出ないように、起きたんです」俺は、言葉を選びながら続けた。「順番が、逆なんです。あなたたちが流した血の上に、今の平和が立ってる。なかったことにするどころか——あなたの九年がなかったら、今のこれは、ない」
「……そんなものは」ガレスの声が掠れた。「後付けの、慰めだ」
「かもしれません」俺は否定しなかった。「でも、慰めかどうかを決める前に、一つだけ。あなた、誰かにこの話を、したことありますか。フォルガル渓谷の、十二人の話を」
ガレスが、止まった。
その沈黙が、答えだった。
「九年、誰にも言わなかった」俺は静かに言った。「壁の紙一枚で世界が変わったとき、誰もあなたに説明しなかった。同じように——あなたも、誰にも、その十二人のことを話さなかった。違いますか」
火の光の中で、ガレスの目が、揺れた。
「言って、どうなる」彼は絞り出した。「死んだ者は、戻らん」
「戻りません」俺は頷いた。「でも、聞く人間は、いる」
俺は、彼の目を見た。
「今から聞きます。十二人の名前を、一人ずつ。急がなくていい。一晩でも、二晩でも。あなたが、後ろで消えていったって言ったその声を、今度は俺が、前で聞きます」
ガレスが、息を呑んだ。
その大きな身体が、ほんの少し、揺れた。九年間、誰の前でも崩れなかったであろう男が、ゴブリンの小屋の囲炉裏端で、わずかに、前に傾いだ。
「……アルフ」
最初の名前は、ほとんど音にならなかった。
「先頭で、残ると言った。十九だった。……アルフ」
「アルフ」俺は、繰り返した。受け取ったしるしに。
「ベイリー。双子の、兄のほうだ。弟は……俺が逃がした。だから、ベイリーは、俺を恨んでいいんだ」
「ベイリー」
囲炉裏の火が、二人を照らしていた。台所のゴブが、いつのまにか手を止めて、静かにこちらを見ていた。給仕のゴブリンではなく、門番の顔で。
俺は名前を、一つずつ、受け取った。声が消えていった方向と、逆向きに。後ろから前へ。闇から、火のほうへ。
七つ目の名前を聞いたあたりで、戸の外が、ざわついた。
馬の蹄。それも、急いでいる。
俺が腰を浮かせるより早く、戸が開いた。冷たい夜気と一緒に、カイルが飛び込んできた。マントに夜露が光っている。二代目調停者になっても、こいつの飛び込み方は、昔のままだった。
「レン——」
その手には、見慣れた光があった。『迷宮管理』のスキルが、空中に淡い文字を描いている。俺の手から離れて三年、今はカイルの手の中で動くそれが、連合の集計を映していた。
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
数字は、動いていない。九十七のままだ。だが、カイルの顔は、それを見に来た顔ではなかった。
「悪い、取り込み中なのは分かってる」カイルの視線が、ガレスとその濡れた頬を一瞬で捉え、そして俺に戻った。声を落とす。「だが、待てない。連合本部から、来た」
スキルの文字が、切り替わった。
【迷宮管理Lv.1:通信受領——人類連合・第三査問局・正式召喚状】
「召喚状だ」カイルが言った。「正式な、査問会への出頭命令。お前個人宛だ、レン」
俺は、急須を置いた手を、止めた。
「期限は」
「三十日以内」カイルの喉が鳴った。「ヴァリス本国の査問会に、自ら出頭しろ、と。そして——」
こいつは、嫌な情報ほど、まっすぐ伝える。昔は世界を疑わなかった男が、今は世界の残酷さを、ごまかさずに運んでくる。
「出頭しなければ、弁明の機会は永久に失われる。その時点で有罪確定。即時、処分執行だ」
囲炉裏の火が、爆ぜた。
ガレスが、ゆっくりと立ち上がった。連合が最強の駒として送り込んだ男が、今は名前を七つ、半分だけ俺に預けて、立っていた。
「……即時処分、だと」彼の声は低かった。「査問が、賛成九十七。出頭しても、結論は出ている。出頭しなくても、殺される」彼は俺を見た。「どちらに転んでも、お前は——」
「ガレスさん」俺は遮った。
彼が、口をつぐんだ。
俺は、まだ膝の上に残っていた、ベイリーという名前の温度を、消さないように。それから、九十七という数字を、頭の隅に並べた。聞くべき相手が、九十七人いる、ということだ。
「残りの五人の名前は、戻ってきたら聞きます」俺は言った。「だから、覚えておいてください。アルフ。ベイリー。——途中で、やめにはしません」
ガレスの目が、見開かれた。
俺は立ち上がり、戸の外の暗がりを、見た。三十日。ヴァリスまで。そして、九十七の「怖い」が、待っている。
「行くんだな」カイルが言った。問いではなかった。
「ああ」俺は、夜のほうへ顔を向けたまま答えた。「ただし、出頭の仕方は、向こうの言う通りにするとは言ってない」
カイルが、眉を上げた。
「どういう意味だ」
俺は、囲炉裏の最後の薪が、白い灰に変わっていくのを見た。声が消えていくのではなく、火が、ちゃんと燃え尽きるまで、誰かが見ていた、という形に。
「まあ」
俺は、上着に手を伸ばした。
「聞いてから判断しよう。九十七人ぶん、一人ずつな」
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