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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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184/223

第184話「討伐隊長の問い」

穂先が、地面に向いた。


若い兵が膝をついて泣いている。三年前、北の砦で死にかけた自分を運んだのが、今この門に立つゴブリンだと——そう言ったきり、彼はもう剣を握れなかった。


俺は、その光景をただ見ていた。


「隊長」


呼んだのは、討伐隊の誰かではない。俺だ。ガレスという名の、不退の重騎士。連合がわざわざ最強の駒を寄こしてきた、その理由を、俺はまだ聞いていない。


「茶でも飲んでいきませんか」


風が、迷宮の入口から吹き下ろしてきた。夕方が近い。鎧の隙間に冷たさが染みる時間だ。ガレスの兜の奥で、眉が動いたのがわかった。


「……茶、だと」


「ええ。立ち話で決める話じゃないでしょう。あなたが何を殺しに来たのか、俺はまだ聞いてない」


殺しに来た、と俺は言った。煽ったわけじゃない。事実を、事実のまま置いただけだ。ガレスの部下たちが息を呑む音がした。


ガレスは長いこと黙っていた。それから、手にした大剣を——抜いてはいなかった、鞘ごと——背の留め具に戻した。金属が擦れる、重い音。


「武器は、外に置いていく」


「どうぞ」


「だが、貴様が妙な真似をすれば」


「しませんよ。俺は戦えない。ジョブが門番なんでね」


ガレスの隣で、カイルが小さく笑った気配がした。二代目調停者になっても、こいつのその顔だけは変わらない。昔、俺を「生きてはいけるんじゃないか」と言った頃の顔だ。


「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう。あなたも、俺も」


口癖を、わざと声に出した。これから小屋に入る男に、まず置いておきたい言葉だった。判断は、まだしなくていい。今は、聞くだけでいい。


ガレスは答えなかった。ただ、兜の前面を片手で外した。中から出てきたのは、思っていたより年老いた顔だった。頬に古い傷。目の下に、眠れていない者の影。


「……案内しろ」



 



門番小屋は、相変わらず狭い。


机が一つ。椅子が二つ。壁には、ゴブたちが季節ごとに替えてくれる干し草と、迷宮の素材で編んだ飾り。煤けたランプ。それだけだ。三年経っても、俺の暮らしはここから広がらなかった。広げる必要が、なかった。


ガレスは入口で一度、屈まなければならなかった。重騎士の体には、この小屋は子供のままごとみたいに小さい。彼が椅子に座ると、木がぎし、と鳴った。


「カイル」


「呼ぶか?」


「呼んでくれ」


カイルが扉の外に向かって、口笛を短く吹いた。決まった合図だ。少しして、軽い足音が近づいてくる。三年前の、おどおどした足音じゃない。地面を踏む、自信のある足音。


扉が開いた。


「お呼びですか、レ——」


そこで、ゴブの声が止まった。


小屋の中に、見知らぬ人間がいる。鎧の。それも、ただの人間じゃない。匂いでわかったんだろう。血と、鉄と、戦場の匂い。ゴブの肩が、一瞬だけ強張った。


けれど、それだけだった。


ゴブは、すぐに姿勢を戻した。背筋を伸ばし、両手を前で揃える。門番の立ち方だ。誰に教わったわけでもない、こいつが三年かけて自分で作った立ち方。


「お客様ですね。お茶を、お持ちします」


ガレスは、動かなかった。


息も、止まっていたかもしれない。鎧の中の大きな体が、石になったように固まっている。目だけが、ゴブを追っていた。緑の肌の小さな魔物が、慣れた手つきで棚から器を二つ取り、ランプの火で温めた湯を注ぐ——その一連の動きを、彼は瞬きもせずに見ていた。


ゴブが、湯気の立つ器を、ガレスの前にそっと置く。


「熱いので、お気をつけて」


ことり、と音がした。


その音で、ガレスの肩が跳ねた。歴戦の重騎士が、茶器を置く音に。


俺は、それを見ていた。


これだ、と思った。剣を抜くより、攻め込むより、はるかに彼を揺さぶったのは、たぶんこの音だった。魔物が、人に茶を出す音。敵だったはずのものが、給仕をする、その日常の音。


ガレスの手が、器に伸びかけて——止まった。鋼の籠手に包まれた指が、空中で、わずかに震えていた。


「……飲めないなら、無理にとは言いませんよ」と俺は言った。


「いや」


ガレスは、籠手を外した。素手で、器を取った。一口、飲んだ。


喉が、ゆっくり動いた。


「……うまいな」


「ゴブの淹れる茶は、うまいんです。最近覚えたんですよ」


ゴブが、ほんの少しだけ、得意そうに耳を動かした。三年前のこいつなら、人間に褒められて隅で固まっていただろう。今は、そこにいる。堂々と、そこにいる。


ガレスは、その耳の動きを見ていた。それから、もう一口、茶を飲んだ。



 



「脅威に、見えますか」


俺は、机の向こうのガレスに聞いた。


「こいつが——ゴブが。今、あなたに茶を出したこいつが。連合が言う《人類最大の脅威》の、その手先に見えますか」


ガレスは答えなかった。器を両手で包んだまま、湯気の向こうのゴブを見ている。ゴブは、何も言わずに壁際に控えていた。聞かれるまで喋らない。それも、こいつが覚えたことだ。


沈黙が長かった。


その沈黙を破ったのは、カイルだった。こめかみに指を当てる。スキルを使う仕草だ。二代目調停者になったこいつには、俺が手放した『迷宮管理』の力が宿っている。今は、迷宮の内側よりも、人類連合の動きを拾うために使われることが多い。


「……レン。本部から、更新が来た」


「票か」


「ああ」


カイルが、空中に指で線を引く。光が、文字の形に結んだ。俺にはもう見えない数字を、こいつが読み上げる。


【査問集計:賛成97/反対18/保留12】


「全百二十七票。過半数は六十四。賛成は——九十七のまま、動いてない」


九十七。


俺を「殺すべきだ」と言っている国の数だ。顔も知らない、声も聞いたことのない、九十七人。たぶん、ここにいるゴブの淹れた茶を一度も飲んだことのない人たちだ。


「九十七」とガレスが、その数字を口の中で繰り返した。「私の隊も、その数の一部だった。命令書には、こう書いてあった。——『人類の防衛意志を内側から溶かす者を、速やかに排除せよ』」


「溶かす、ね」


「実際、溶けている」ガレスは、茶器を見つめたまま言った。「私の部下が、さっき泣いた。魔物に命を救われたと言って。剣を、握れなくなった。これを連合は『溶けた』と呼ぶんだろう」


「あなたは、そう呼びますか」


ガレスは、答えなかった。


代わりに、彼は顔を上げた。まっすぐ、俺を見た。古い傷のある顔。眠れていない目。その目の奥に、怒りでも憎しみでもないものがあった。


俺は、それを知っている。三年前、ゴブが俺の扉を叩いた夜、たぶん俺の目にも同じものがあった。


「アシダ、と言ったな」


「レンで構いません」


「レン」ガレスは、一度言葉を切った。「正直に、答える。私は——お前を殺しに来た。命令だからじゃない。お前が、本当に脅威かもしれんと、思ったからだ。三年で世界が変わりすぎた。昨日まで敵だったものが、隣で笑っている。村人が魔物と畑を分け合っている。砦の兵が魔物に救われて泣く。——それが、私には」


「怖い」


俺が、先に言った。


ガレスの肩が、また小さく動いた。



 



「……ああ」


ガレスは、低く認めた。歴戦の重騎士が、門番小屋の小さな机を挟んで、俺にそう言った。


「怖い。お前のことが、ではない。この茶のことが。この魔物のことが。——わからん。こいつが本当に味方なのか、いつか牙を剥くのか、私には、まったくわからん。脅威に見えるかと聞かれたが、それが正直なところだ。脅威にも見えん。味方にも見えん。わからん」


そこで、彼は一度、目を閉じた。


「それが、怖い」


小屋の中が、静かだった。


ランプの芯が、じり、と小さく鳴った。窓の外は、もうほとんど夜だ。迷宮の入口から漏れる薄青い光が、ガレスの兜の縁を撫でている。彼の手の中の茶は、もうほとんど湯気を立てていなかった。


俺は、急がなかった。


「わからない」というのは、悪い言葉じゃない。むしろ、いい言葉だ。「わかっている」と言い切る人間ほど、聞く耳を閉じている。わからない、と言える人間は、まだ扉が開いている。だから俺は、その扉の前で、少し待つことにした。


ゴブが、壁際から動いた。


新しい湯を、ガレスの器に足した。何も言わずに。ただ、冷めた茶を、また温かくするためだけに。


ガレスは、その手元を見ていた。緑の指が、自分の器に湯を注ぐのを。剣を抜けば一瞬で斬り捨てられる距離で、その魔物が、自分のために茶を温めているのを。


「……なぜ、逃げない」とガレスが、ゴブに聞いた。「私は、お前たちを殺しに来た男だぞ」


ゴブは、湯を注ぎ終えてから、答えた。


「レンが、お客様だと言ったので」


「それだけか」


「それだけです」


ガレスは、しばらくゴブを見ていた。それから、ふっと、笑ったような息を漏らした。笑顔ではなかった。けれど、敵を見る目でもなかった。


「レン」と彼は、また俺を見た。「お前に、一つだけ聞かせてくれ。これは、査問のためでも、命令のためでもない。私が、ただ知りたいことだ」


「どうぞ」


ガレスは、冷めかけた茶を、最後まで飲み干した。器を、机にそっと置いた。今度は、音を立てなかった。


そして、低く、絞り出すように言った。


「わからんものを——人は、どうすると思う」


俺は、答えなかった。


ガレスが、自分で続けた。その声は、戦場で何百回も命令を下してきた声とは、まるで違っていた。震えているわけでもない。ただ、ひどく疲れた、正直な声だった。


「殺すんだ。わからんものを、人は——殺すんだ」

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