第187話「連れて行かない理由」
「なぜダメなんだ」
ゴブはもう一度、同じことを言った。
声を荒らげたわけじゃない。三年前なら、こいつはもっと甲高い声で、もっと早口で詰め寄ってきた。今は違う。低く、ゆっくりと、門番の声で言う。だからこそ、本気だとわかる。
俺は囲炉裏の灰を火箸でならしながら、すぐには答えなかった。朝の冷気が小屋の隙間から忍び込んで、足の指先が冷たい。茶はもう冷めきっている。ガレスは部屋の隅で腕を組んだまま、こちらを見ないようにしていた。見ないふりが、いちばん聞いている男の姿勢だ。
「ゴブ」
俺は火箸を置いた。
「お前は今、第七迷宮の門番だ。王国公認の。書類にもそう書いてある」
「知ってる。だから何だ」
「人類連合は、その書類を欲しがってる」
ゴブの眉が、わずかに動いた。
俺は冷めた茶をひとくち飲んで、続けた。
「考えてみてくれ。俺が査問会に出る。隣に、魔物の門番を一匹連れて立つ。連合の議員たちはそれを見て何を思う?『脅威に指定された男が、議会に魔物を連れ込んだ』——そう書く。そう叫ぶ。そう記録に残す」
「俺は脅したりしない」
「お前が一言もしゃべらなくてもだ」
俺はゴブの目を見た。
「お前がそこに立っているだけで、絵が完成する。『人類最大の脅威が、魔物を従えて人類の議会に乗り込んだ』——連合がいちばん欲しがっている絵だ。俺が言葉でどれだけ平和を語っても、その一枚の絵が全部ひっくり返す」
ゴブは黙った。
囲炉裏の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「……俺は」
ゴブが、ぽつりと言った。
「俺は、レンを守りたかった。それだけだ」
俺はその言葉を、すぐには受け取らなかった。受け取ってしまったら、たぶん連れて行くと言ってしまう。こいつの「守りたい」は、三年前にドランがこいつに遺した「ゴブを頼む」と、同じ重さでできている。
「わかってる」
俺は言った。
「わかってる。だからこそ、置いていく」
「意味がわからない」
「お前が俺を守るいちばん確実な方法は、ここに残ることだ」
ゴブが顔を上げた。
「いいか。俺が査問会で何を言おうと、向こうは最後にこう問う。『その平和は本物か。証拠はあるか』ってな。そのとき、証拠はこの第七迷宮しかない。三年間、溢出ゼロ。魔物と人間が同じ門をくぐって、誰も死んでいない。それを守ってる門番が、ここにいる——その事実が、俺の言葉の後ろ盾になる」
俺は灰の上に、指で小さく丸を描いた。
「お前がここを空けたら、後ろ盾が消える。連合は『ほら、門番が逃げた。やっぱり魔物は信用できない』と言うだろう。お前は、俺の隣じゃなく、ここにいることで俺を守るんだ」
ゴブは、長いこと黙っていた。
火が顔を照らして、その目が赤く見えた。煙のせいか、別のせいか、俺にはわからない。聞かないでおいた。聞かなくていいことも、世の中にはある。
「……ずるいぞ、レン」
ゴブが、かすれた声で言った。
「残れって言うのに、それがいちばん大事な役目だって言い方をする。断れないじゃないか」
「断ってくれてもいい」
「断らない」
ゴブは袖で、ぐいと目元をこすった。門番の顔に戻ろうとして、半分しか戻れていない顔で、こう言った。
「……まあ、聞いてから、判断する。レンの言うことを、全部聞いてからだ」
俺は、少しだけ笑った。
こいつが俺の口癖を、こいつのやり方で言うようになって、もうずいぶん経つ。最初は真似だった。今は、ちゃんとこいつ自身の言葉になっている。「聞いてから判断する」と言うとき、ゴブはもう、ただ俺をなぞっているんじゃない。自分の頭で、聞いて、決めている。
それで、いい。
「ありがとう、ゴブ」
「礼を言うな。腹が立つ」
ゴブはそっぽを向いた。けれど門の方へは行かず、囲炉裏のそばに座り直した。まだ、もう少し、ここにいるつもりらしい。
「賢い判断だ」
部屋の隅で、ガレスが初めて口を開いた。
連合最強と謳われた重騎士が、ゴブリンの小屋の壁に背を預けて、低く言う。
「魔物を連れて議会に立てば、貴公は一言も発する前に終わっていた。連中は……そういう絵を、何百枚も用意して待っている」
「経験者の言葉ですか」
「私も、その絵を信じていた側だ」
ガレスは自嘲するように口の端を歪めた。十二人の名は、まだ俺に渡されていない。渡すには、こいつにはまだ時間がいる。俺は急がせない。急がせて聞き出す名前に、意味はない。
そのときだった。
部屋の空気が、ふっと震えた。
俺の中の——いや、もう俺の中にはない。三年前にカイルへ渡したスキルの、その向こう側から、声が届く。第七迷宮の核を通して、カイルの『迷宮管理』が俺に届く回線。普段は使わない。使うのは、急ぎのときだけだ。
『レン。聞こえるか』
カイルの声だった。
「聞こえてる」
『査問の数字を送る。今朝、更新された』
俺の視界の端に、見慣れない、けれど忘れたくても忘れられない表示が浮かんだ。カイルが転送してくる、連合査問会の集計。
【査問集計:賛成97/反対18/保留12】
【出頭期限まで:残り29日】
九十七。
三年間、誰も死ななかった平和の上で、九十七の国が、俺を消すべきだと言っている。過半数は六十四。とっくに超えている。数字だけ見れば、もう終わっている話だ。
「変わってないな」
俺は言った。
『変わってない。一票も動いてない』
カイルの声には、いつもの軽口がなかった。
『……レン。本部に問い合わせた。査問会への同行者の規定だ。被指定者は、王国公認の調停者を一名、補佐として帯同できる。これは連合自身が作った規則だ。連中も、消し忘れてた』
俺は、その意味を一拍遅れて理解した。
「カイル」
『ゴブは連れて行けない。お前の言う通りだ。魔物を連れたら絵が完成する。でも——人間の調停者なら、絵にならない。むしろ連中の規則の内側だ。文句の付けようがない』
「お前」
『俺が行く』
カイルは、言い切った。
『お前の補佐として、俺が査問会に立つ。スキルを持った二代目調停者が、初代の隣に立つ。連中の規則に従って、堂々とな』
「カイル、お前にもリスクが——」
『あるに決まってる』
声が、少しだけ笑った。
『でもな、レン。三年前のことを、ずっと考えてた。最初にゴブがお前の扉を叩いた夜のことだ。あのとき俺は、扉を叩かれる側ですらなかった。叩く勇気も、開ける勇気もなかった。ただ、お前を見てただけだ』
煙が一筋、天井へ昇っていく。ゴブが、息を詰めてこちらを見ていた。
『今度は、逆だ』
カイルは言った。
『今度は俺が行く。今度は——俺がお前の扉を叩く側だ』
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