第182話「『余地はない』という交渉」
「——以上が、人類連合決議第一号。全文だ」
ヴェインが羊皮紙を巻き戻した。乾いた革の鳴る音が、昼下がりの小屋にやけに大きく響く。
俺は湯気の立つカップを、彼の前にもう一度そっと押し出した。さっき淹れた茶に、この男はまだ口をつけていない。毒を疑っているのか、それとも、敵に出された茶を飲むという行為そのものに抵抗があるのか。たぶん後者だ。指の組み方まで役人の顔をしている。
「冷めますよ」
「……いただかない」
「そうですか」
それでも俺はカップを引っ込めなかった。窓から差し込む午後の光が、机の木目をゆっくり横切っていく。三年前なら、この沈黙に俺はもっと身構えていただろう。今は、ただ待てる。スキルはもうない。だが、待つことだけは体に残っていた。
「返事を聞かせてもらおう」ヴェインが言った。「弁明があるなら、本国の査問会で。ないなら、ここで署名を。どちらにせよ——」
「交渉の余地はない」
「そうだ」
俺は頷いた。湯気が一本、まっすぐ立ちのぼって、途中で崩れる。それを見届けてから、ゆっくり口を開いた。
「じゃあ、なんで来たんですか」
ヴェインの眉が、わずかに動いた。
「あなたは、決議文を読み上げた。わざわざ、ここまで来て。一人で、剣も連れずに」俺は指を一本立てた。「それ、交渉ですよ」
「……何を言っている」
「本当に余地がないなら、使者は来ない。来るのは執行人です」
俺は二本目の指を立てた。
「俺を消すと決めたなら、夜中に刺客を寄こせばいい。あなたの連合にはそれができる力がある。なのに、昼間に、文書を持った特使が来た。署名を求めに。——それは、俺の同意がほしいってことだ」
「同意など要らん。決議は既に効力を——」
「なら、なおさら俺の署名は要らないでしょう」
ヴェインの口が、半開きのまま止まった。
俺は冷めかけた自分の茶を一口飲んだ。ぬるい。それでいい。熱いものを出して相手だけ飲まずにいるより、こっちも同じ温度のものを飲んでいるほうが、話は転がる。
「もう一つ、いいですか」
返事を待たずに続けた。待っていたら、たぶんこの男は「許可しない」と言う。役人とはそういうものだ。
「決議は、満場一致でしたか」
ヴェインの視線が、ほんのわずか、机の上の羊皮紙に落ちた。それで十分だった。
「違いますね」
「……賛成は、百二十七国のうち、ほとんどだ。覆る数ではない」
「ほとんど、ということは、全部じゃない」
俺は頭の隅に、その引っかかりを書き留めた。百二十七国。過半数は六十四。賛成が「ほとんど」だとしても、反対した国がいる。理由もなく反対する国はない。誰かが、俺を消すことに「待った」をかけた。——その一票が、どこにあるのか。
「あなたは、反対した国の名前を、言いに来たわけじゃない」俺は言った。「言いたくないことのほうが、いつも本音に近い」
ヴェインは答えなかった。代わりに、組んでいた手をほどいて、机に置いた。指先が、ほんの少し、震えていたように見えた。怒りではない。たぶん、これは——困惑だ。
「君は」ヴェインが、初めて「貴殿」をやめた。「妙な男だな。死刑を告げに来た相手に、茶を出して、世間話のように数字の話をする」
「死刑だと、思ってないからですよ」
「思え。これは現実だ」
「現実かどうかは、聞いてから判断します」
言ってから、自分でおかしくなった。三年前と、何も変わっていない。あの夜、ゴブが俺の扉をノックしたときも、俺はこう言ったのだ。怖くなかったわけじゃない。ただ、聞かずに判断するのが一番損だと、それだけは知っていた。
「あなたは、決議文を持って、一人で、敵地に来た。茶を断った。反対した国の名前は言わない」俺はカップを置いた。陶器が木に当たる、小さな音。「——それだけ揃えば、あなたが本当はどっち側の人か、だいたい分かります」
「私は、連合の特使だ」
「ええ。連合の特使が、わざわざ俺に考える時間をくれている」
ヴェインの喉が、上下した。
「まあ」俺は窓の外へ目をやった。墓場の門だったこの場所に、今は人と魔物が行き交う道がある。「聞いてから判断しましょう。あなたも、俺も」
特使は、長いこと黙っていた。
それから、ようやく——出された茶に、手を伸ばした。
ヴェインがカップに口をつけた、ちょうどその瞬間だった。
机の上に置いていた銅の通信盤が、低く鳴った。カイルのスキルから直接繋がる、緊急回線のほう。穏やかなときには、決して鳴らない音だ。
俺は通信盤に手を当てた。冷たい金属が、指先でかすかに脈打っている。
『レン。いるか』
カイルの声だった。だが、いつもの声じゃない。早口で、息が浅くて、——青ざめている顔が、声だけで分かる。三年いっしょにいると、そういうものは伝わる。
「いる。特使の方が来てる。今、茶を飲んでもらってるところだ」
『茶——? 何の話だ、そんな場合じゃ』カイルが言葉を呑んだ。『悪い。聞いてくれ。連合本部で、票が動いてる。今、こっちに集計が回ってきた』
通信盤の表面に、淡い光が文字を結ぶ。カイルが転送してきた、査問の数字だ。
【査問集計:賛成九十七/反対十八/保留十二】
俺はその数を、口の中で一度なぞった。賛成、九十七。過半数は六十四。とっくに、超えている。
「……反対が、十八」
『そこじゃない、レン』カイルの声が、ひび割れた。『その数字を見て、安心するな。問題はそっちじゃない。さっき、本部の決議室から、別の命令が出た。査問会の召喚状とは、別口で』
俺は、向かいのヴェインを見た。特使の手が、カップの縁で止まっている。彼も、この通信を聞いている。そして——彼の顔が、強張っていた。知らなかった、という顔だ。査問の特使である彼にすら、知らされていない命令。
いやな予感が、背筋を撫でた。
「カイル。落ち着いて、最初から言ってくれ」
『落ち着いてる場合か!』カイルが叫んで、それから、ひとつ大きく息を吸った。叩け、と俺がいつも言う、その間の取り方で。『……連合は——もう、武力部隊を動かしてる』
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Human: 1
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