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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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181/218

第181話「処分通告」

「レン、客が来てるぞ」


ゴブの声には、もう昔のような震えはなかった。


俺は井戸端にしゃがんで、洗った湯呑みを布で拭いていた手を止める。午後の陽が、迷宮の入口に積まれた石の上で白く跳ねていた。三年だ。あの夜、ゴブが俺の扉を叩いてから、もう三年が過ぎている。


「旅人か」


「それが——わからない」


ゴブが門のほうを振り返ったまま、首をかしげる。緑色の小柄な体に、王国が正式に支給した門番の外套を羽織っている。第七迷宮・正式門番ゴブ。今ではそういう肩書きが、ちゃんと書類の上に存在していた。


「荷物がない。剣も、杖もない。なのに——歩き方が、軍人だ」


俺は布を畳んで立ち上がった。膝が少しだけ鳴る。二十歳にもなると、しゃがみっぱなしの姿勢が地味にこたえるようになってきた。前世の記憶は相変わらず薄いが、こういう体のくたびれ方だけは、なぜか妙に懐かしい。


街道の向こうに、一つの影が見えた。


黒い、地味な旅装。けれど仕立てが良すぎる。腰に剣はなく、背に荷もない。両手は空っぽで、まっすぐにこちらへ向かって歩いてくる。武器を持たない人間が、武器を持たないことを見せつけるように歩いている。


「ゴブ」


「ん」


「茶を、二人分」


ゴブが俺を見上げた。緑の目が、少しだけ細くなる。


「戦いに来たやつじゃないのか」


「武器を置いてきた相手に、こっちが身構えるのも失礼だろう」俺は外套の男から目を離さずに言った。「それに——あの歩き方は、急いでない。急いでない人間は、たいてい話をしに来てる」


「……わかった。けど、変なことしたら、俺が前に出るからな」


ゴブが小屋のほうへ駆けていく。その背中を見送って、俺は門の前に立った。


風が、街道の砂を薄く巻き上げる。男が立ち止まったのは、ちょうど俺の三歩手前だった。近すぎず、遠すぎない。交渉に慣れた人間の距離の取り方だ。


「レン・アシダ殿で、間違いないか」


声は静かで、感情の起伏がなかった。役所の窓口で、何百回も同じ書類を読み上げてきた人間の声だ。


「俺で間違いない。あんたは?」


「人類連合・第三査問局特使、ヴェインと申す」


人類連合。


その単語を聞いて、俺は一瞬だけ、午後の光が遠のいた気がした。



 



小屋の中は、薄暗くて涼しかった。


ヴェインと名乗った特使は、勧めた椅子に背筋を伸ばして座った。木のささくれた古い椅子に、その姿勢はまるで似合わない。けれど男は文句一つ言わず、両手を膝の上に揃えて、部屋の中を視線だけで一周させた。


壁にかかった古い地図。ドランが残していった、もう二度と灯らない核石の欠片。棚に並んだ、人間用と魔物用の不揃いな食器。


その視線が、入口に置かれた茶盆で止まった。


ゴブが、湯気の立つ湯呑みを二つ、慎重に運んできたところだった。緑色の指が、割れないようにそっと盆を支えている。


特使の喉が、わずかに動いた。


「……魔物が、給仕を」


「ゴブだ。この迷宮の門番だよ」俺は湯呑みを一つ受け取って、ヴェインの前に置いた。「熱いから、気をつけて」


ヴェインは茶に手をつけなかった。代わりに、ゴブが部屋を出ていくまで、その背中をじっと目で追っていた。敵意ではない。もっと別の——なんと言えばいいのか、見てはいけないものを見てしまった人間の目だ。


「驚いたか」


「……いや」ヴェインは視線を茶の表面に落とした。「報告では、知っていた。第七迷宮は、人と魔物が同じ門をくぐる。子供が魔物に道を尋ね、魔物が人間に茶を出す。書類では、知っていた」


「でも、見るのは初めてだった」


「そうだ」


俺は自分の湯呑みを両手で包んだ。陶器の熱が、指先からじわりと伝わってくる。


ヴェインはしばらく黙っていた。沈黙が長い人間は嫌いじゃない。言葉を選んでいる証拠だからだ。やがて彼は、膝の上で一度だけ指を組み直して、口を開いた。


「アシダ殿。あなたがこの三年で成したことは、連合も理解している。魔王軍と呼ばれた中層の知性体群との和解。封印の維持。溢出の停止。——人類が三百年できなかったことを、あなたは言葉だけで成した」


「俺一人じゃない。ゴブも、カイルも、向こう側のやつらもいた」


「謙遜は結構」ヴェインの声が、ほんの少しだけ硬くなった。「私は、それを称えに来たのではない」


彼は懐に手を入れた。


俺は動かなかった。武器を置いてきた人間の懐から出てくるものは、たいてい紙だ。


果たして、ヴェインが取り出したのは一通の書状だった。深い紺色の封蝋。見たことのない紋章——百二十七の星が、一つの円を囲んでいる。人類連合に加盟する、百二十七カ国を表す紋だ。


封蝋は、すでに割られていた。


中身が、もう決まっているということだった。



 



ヴェインは書状を開き、立ち上がった。


座ったまま読むには、その内容が重すぎたのかもしれない。あるいは、立って読むことが、彼の職務上の作法だったのかもしれない。男はまっすぐに前を向き、俺の目を見て、それからその文面を読み上げた。


「人類連合決議、第一号」


第一号。


百二十七カ国が一つになって、最初に出した結論。三年間の平和の果てに、彼らが一番先に決めなければならなかったこと。


「——本決議をもって、レン・アシダを、《人類最大の脅威》に指定する」


部屋の空気が、すっと冷えた。


外で、ゴブが石を運ぶ音が止まったのがわかった。聞こえていたのだ。薄い壁越しに、全部。


俺は湯呑みを置いた。陶器が机に触れる、小さな音がやけに大きく響いた。


「……もう一回、言ってくれるか」


「レン・アシダ。あなたは本日をもって、人類にとっての第一級の危険因子として登録された」ヴェインの声は、最初から最後まで一定だった。「魔物との境界を消し、人類の防衛意志を内側から溶かす存在。剣を持たぬまま、人の心を魔物の側へ寝返らせる者。——連合はあなたを、いかなる軍勢よりも危険であると、満場に近い賛同をもって認定した」


満場に近い、という言葉が、妙に耳に残った。


満場ではない。けれど、近い。


ということは、誰かが反対したということだ。賛成しなかった国が、あの百二十七のうちに、何カ国かはある。ヴェインは数字を言わなかったが、彼が「満場に近い」と言い直した瞬間、その隙間が見えた気がした。


俺は、そのことを頭の隅に置いた。


「ゴブ」俺は壁のほうへ声をかけた。「入ってこなくていい。茶が冷めるから、お前のぶんは先に飲んどけ」


「……っ」


壁の向こうで、ゴブが何か言いかけて、呑み込むのがわかった。あいつは賢くなった。三年前なら、もう扉を蹴破って飛び込んできていた。今は——俺を信じて、待つことを覚えている。


ヴェインが、わずかに眉を寄せた。


「アシダ殿。あなたは今、自分が何を告げられたか、理解しているか」


「死刑宣告だろ」俺は言った。「《人類最大の脅威》ってのは、放っておく相手につける名前じゃない。指定したからには、処分する。そういう話だ」


「……理解は、早い」


「驚いてないと言えば嘘になる」


俺は窓の外を見た。午後の光は、まだそこにあった。さっきまでと、何も変わらない。迷宮の入口の石は白く、街道の砂は乾いて、ゴブが運びかけた荷物が地面に積まれている。


世界は、何も変わっていない。


ただ、紙の上で、俺の名前の意味だけが書き換わった。


平和を作った男が、平和を脅かす者になった。三年かけて積み上げたものの上に、百二十七の星の紋章が、一枚の判決を落としていった。


不思議と、腹は立たなかった。


怒りよりも先に、もっと古い、もっと身についた感覚が動いた。前世から染みついた、たった一つのやり方。剣も、魔法も、スキルもいらない、俺に残された最後の道具。


俺は、湯気の消えかけた茶をひと口飲んだ。


それから、ヴェインの目を見て言った。


「まあ、聞いてから判断しよう」


ヴェインの動きが、止まった。


たった一秒。けれど確かに、この冷たい官僚の呼吸が、一瞬だけ乱れた。死刑を告げられた人間が、告げた側に向かって「聞いてから判断する」と言った。彼の用意してきた台本に、その台詞は載っていなかったのだろう。


「……何を、聞くと言うのだ」ヴェインの声が、初めてかすれた。「これは査問でも、裁判でもない。すでに結審した、決定事項だ」


「決定事項を、わざわざ人が運んできた」俺は静かに言った。「百二十七カ国の総意なら、刺客を寄こせばよかった。でもあんたは、剣を置いて、一人で歩いてきた。茶を出されて、断りもしなかった。——なあ、特使さん。本当に聞く余地がないなら、あんたは、なぜここに座ってる?」


ヴェインの指が、書状の端を強く握った。


紺色の紙が、わずかに皺を作る。


男はしばらく、俺の顔を見つめていた。何かを言いかけては、呑み込む。その喉が二度、上下した。やがて彼は、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと首を振った。


そして、もう一度、最初の声に戻った。何の起伏もない、窓口の声に。


「——これは決定事項だ。交渉の余地は、ない」

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