第180話「ようこそ、第七迷宮へ」
扉を開けたのは、翌朝だった。
夜明け前に目が覚めて、荷物をまとめた。昨夜ゴブに案内してもらった部屋は、かつて俺が詰め所として使っていた石の部屋だった。壁の染みも、床の傷も、変わっていなかった。それだけ時間が経ったのに、何も変わっていないのが不思議だった。
外に出ると、ゴブがいた。
扉のそばで腕を組んで、薄い闇の中で待っていた。
「……早い」
俺が言うと、
「レンが早いんですよ」
ゴブが言った。声が落ち着いていた。昔よりも、低くなっていた。
「起きていたのか」
「門番は、夜明け前から仕事です」
「そうか」
「そうです」
口の端が少しだけ動いていた。笑ってはいないが、笑いに近い何かだった。
東の空が、山の稜線をようやく浮かび上がらせる程度の明るさになっていた。エルガ山脈が遠くに黒い影として立っていた。何百回も見た風景だ。門番として、毎朝ここで夜明けを迎えた。今日は、違う側から見ている。
俺は石の扉に向き直った。
身長の三倍はある、重い扉だ。表面に年季の入った模様が刻まれていて、一部は欠けている。ゴブが修繕した跡が、新しい石材で継がれているのが分かった。
手をかけた。
扉は、思ったより軽かった。
押した瞬間に思ったのはそれだけで、あとは音もなく扉が内側へ動いた。
冷たい空気が流れてきた。
迷宮の空気だ。石と土と、燐光石のわずかな湿気のにおい。何年も嗅いできたにおいで、体に染みついていた。でも、扉を自分で開けてこちら側から嗅いだのは、初めてだった。
一歩、踏み出した。
足の裏に、石畳の感触があった。
硬かった。冷たかった。
足が、覚えていた。
第一層は、以前と少し違った。
壁面の光石が増えていた。通路が広くなっている部分があった。床の継ぎ目が新しい石材で整えられていた。昨日も歩いて知っていたが、改めて一人で歩くと、一つ一つが目に入ってきた。
ゴブがやったのだろう。
少しずつ、着実に。
朝の迷宮は静かだった。魔物の気配はあるが、活発ではない。かつて門番として外から数値を見ていた頃、迷宮の内側の時間というものをあまり考えたことがなかった。今は数値がない。警告も、交渉モードの起動も、何もない。足の音と、自分の呼吸と、遠くから聞こえる水が滴る音だけがあった。
視界に何も浮かばない。
それが、こんなにも静かだとは思わなかった。
第二層への下り階段を降りながら、蝶のような半透明の何かとすれ違った。俺の顔の高さをゆっくりと横切って、そのままどこかへ消えた。こちらを気にする様子もなかった。
俺も、気にしなかった。
ただ、少し目で追った。それだけだ。
第五層で、少し休んだ。
壁際にしゃがんで、持ってきた干し肉を食べた。硬くて、一口で飽きた。水で流し込んだ。水は冷たかった。迷宮の水は、どこでもいつも少し冷たい。ドランが管理していた頃からずっとそうだったのか、ゴブが意識して保っているのか、俺には分からない。
考えていたら、足元に小さなスライムが来た。
子どもの拳くらいの大きさで、半透明で、ゆるゆると動いていた。
「何か用か」
聞いてみた。
返事はなかった。
「そうか」
それだけ言って、俺はまた干し肉を食べた。スライムは隣で、特に何もしなかった。しばらくそこにいて、それからどこかへ消えた。
俺も、立ち上がった。
目的地は決めていなかった。歩けるところまで歩いてみようと思っていただけだ。門番のときは常に入口にいなければならなかった。今は違う。旅人は、好きに歩く。
第六層まで降りたところで、フォルの気配を感じた。
感じた、というより、思い出した、という方が正確かもしれない。スキルはないから感知はできない。でも、壁の質感が違う。光の揺れ方が違う。フォルがいた時代の名残が、石に染みついているような気がした。
壁に手を当ててみた。
冷たかった。固かった。何百年も前から、そこにあった石の感触だった。
「久しぶりだな」
声に出して言ってみた。
返事はなかった。当たり前だ。
「元気にしてるか」
それも返事はなかった。
でも、悪い気はしなかった。誰かに聞いてもらえなくても、声に出すことに意味がある場合がある、とゴブが言っていた。タルという若者に言っていた言葉だ。俺がかつてゴブに言った言葉だった。
俺は壁から手を離した。
入口に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
腹が減ったから分かった。朝の干し肉だけでは足りなかった。
扉の前に、ゴブがいた。別の旅人と話していた。若い男で、大きな荷物を背負っていた。ゴブが何か言って、旅人が頷いて、それから旅人は迷宮の中へ入って行った。
俺がそばへ来ると、ゴブが言った。
「定期的に来る旅人です。ゴブリンのコミュニティと物々交換を始めたいそうで、先月から話し合いを続けています」
「うまくいきそうか」
「まあ——」
ゴブが少し間を置いた。
「聞いてから判断します」
俺は黙った。
ゴブが俺の顔を見た。少し不思議そうな顔をした。
「何か変なことを言いましたか」
「いや」
「……レンが黙るのは珍しい」
「そうでもない」
ゴブは、自分が言った言葉の意味に気づいたらしかった。少し顔を赤くした。緑の肌でも、耳の付け根が色の変わるのが分かった。
「……俺も、そう言うようになっていたんですね」
「気づいてなかったのか」
「気づいていませんでした」
しばらく、二人で立っていた。秋の陽光が、石の扉の表面をぼんやりと温かく照らしていた。
「中、どうでしたか」
ゴブが聞いた。
「静かだった」
「第何層まで」
「第六層」
「……ずいぶん降りましたね」
「足が勝手に動いた」
「また来ますか」
俺は少し考えた。
「来る」
「明日も」
「明日は分からない。でも、また来る」
ゴブが頷いた。
それから、少し改まった顔をした。門番の顔だ。交渉の場に出るときのゴブの顔だった。
俺は覚えていた。最初にゴブが俺の扉をノックしたとき、こんな顔はしていなかった。あの頃のゴブは怯えていた。扉越しに、震えながら話していた。
今のゴブは、地面を踏んでいた。足の裏全体で、しっかりと。
「旅人さん」
ゴブが言った。
「なんだ」
「第七迷宮へのご来訪、ありがとうございます」
俺は黙っていた。
「また来てください。話を聞きます。何でも」
一拍、置いた。
「——ようこそ、第七迷宮へ」
ゴブの目が、真っ直ぐにこちらを向いていた。小さくて丸い目だ。何年も見てきた目だ。でも、今日の目は違った。
門番の目だった。
俺は少しの間、ゴブの顔を見ていた。
答えを探していたわけではない。何も言う必要がなかった。ただ、聞いていた。ゴブの声が空気の中に消えた後も、しばらくそこに残っている気がした。三百年前にドランが作った場所で、ゴブが言った言葉が、石の壁に少しずつ染みていく気がした。
俺は頭を下げた。
旅人が門番に対してするように、ただ、頭を下げた。
それから、石の扉の中へ歩いた。
後ろで、扉が静かに閉まった。
音はしなかった。
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