第179話「聞いてから判断した結果」
朝の空気は、まだ少し冷えていた。
靴底に伝わる砂利の感触が、半年前と変わらない。石壁の苔も、道の端に生えた雑草も、門の前に転がっている石ころも。ただ一つだけ——門の前に立つ存在が、以前と違った。
ゴブが立っていた。
昨日と同じ場所に、昨日と同じように。しかし今朝のゴブは、俺を見ても動かなかった。旅人を迎える門番として、ただそこに立っていた。背筋が伸びていた。半年前には絶対にしていなかった立ち方で。
「……おはよう」
俺が言うと、ゴブはわずかに顎を引いた。
「おはようございます。旅のお方」
形式的な挨拶だった。しかしその声に、笑いをこらえている気配があった。
俺は荷物を背負い直した。昨夜はドランが使っていた旧部屋を借りた。接続点での「来た者」との時間が思ったより長引き、戻ったのは深夜になった。体はまだ少し重かったが、足の裏はちゃんと地面を踏んでいた。石畳の冷たさが靴越しに伝わってきた。
ゴブが口を開いた。
「入るか」
門番としての、正式な問いかけだった。
俺はしばらく扉を見た。厚い木と鉄で作られた、見慣れた扉。何度もその前に立ったが、いつも「管理する側」として立っていた。今日は違う。今日俺は、ただの旅人だった。
「まあ——聞いてから判断しよう」
言ってから、自分でも少し笑いそうになった。
ゴブが「……変わってないですね」と言った。
「変わってないな」
そのまま頷いた。変わっていない。変える必要もなかった。
ゴブが扉を開けた。
軋む音がした。油を差した方がいいかもしれない——そう思ってから、それは今の俺の仕事ではないと気づいた。ゴブが管理している。ゴブが判断する。
「入っていいですよ」
「ありがとう」
一歩踏み込んだ。石畳の感触。湿った空気。松明の明かりが両側の壁を照らしている。長い影が床に伸びていた。何度もくぐったはずの場所なのに、景色が少し違って見えた。管理する者の目ではなく、来訪する者の目で見ているせいだろうか。
「……よかった」
ゴブが後ろで呟いた。
俺は足を止めた。振り返ると、ゴブが扉の内側に立って、こちらを見ていた。表情を読むのが難しい顔立ちだったが、目が少し細くなっていた。笑っているときの顔だった。
「何が?」
「レンが——変わってないことが」
ゴブは少し考えてから、続けた。
「旅に出てから半年経って、戻ってきたとき、俺は心配してました。変わっていたら、どうしようって」
「何が変わると思ってたんだ」
「わからないです。でも、変わることがある気がして」
ゴブは視線を落とした。
「ドランも——長い間に変わっていきました。最初は違ったと、フォルが言っていました。三百年は長いので、しかたがない。でもレンは——」
「俺は三百年も旅してない」
「そうですけど」
ゴブが顔を上げた。
「それでもよかった。変わってなくて。「まあ、聞いてから判断しよう」って言えてよかった。俺が聞いた中で、一番好きな言葉です。レンが最初に言ってから——俺も言うようになって、カイルさんも言うようになって、フォルも、来た者も言ってます。あの言葉は、俺たちみんなのものになった気がします」
俺は答えなかった。
何か言うより、ゴブの言葉をそのままにしておく方がいい気がした。
しばらくして、ゴブが「行きましょうか」と言った。「案内します。旅のお方」
「頼む」
そうして俺たちは歩き始めた。
昨日、ゴブが見せてくれた「共存エリア」を、今日は別の目で見た。
人間の旅人が二人、第一層の広場を歩いていた。その横を、小型の魔物が通り過ぎた。お互いに視線を交わしたが、誰も立ち止まらなかった。ただ通り過ぎた。半年前には、あり得なかった光景だった。
「最初に来た旅人が慣れると、次の旅人が来やすくなるんです」とゴブが言った。「人間は、先に来た人間を見て判断する。「あの人が平気ならいい」って」
「それは誰かから聞いたのか」
「タルが教えてくれました。昨日、少し話して」
タルは今朝早く出発したと聞いていた。父親への手紙を書いてから、帰ると言っていた。
「また来るかな」
「来ます」とゴブは即答した。「あの子は、話すことで楽になる人間です。また話したくなる」
確信のある言い方だった。半年前より、ずっと確信が強くなっていた。
俺には今、スキルがない。第七迷宮の状態も、層ごとの異常値も、何も見えない。数値は見えない。知性体との交渉モードも、起動しない。ただ歩いているだけだ。
それなのに、迷宮の中が——昨日より少し明るく感じた。
ゴブと第四層まで下りて、休憩所として整備された小部屋で水を飲んでいたとき、通信が入った。
ゴブのスキル越しだった。カイルから、だった。
『レン、聞いてるか』
「聞いてる」
『……今日の調停数、俺がお前を超えた』
俺はしばらく考えた。調停数——俺が第七迷宮で担当していたときの、通算記録のことだろう。
「先生の記録か?」
『そうだ』
短い返答だった。声に、何かを隠している気配があった。
「で、なんで俺に報告するんだ」
『……報告じゃない。宣言だ』
俺はゴブを見た。ゴブが小さく肩をすくめた。
『お前の記録を超えた。次は——ゴブを超える』
「ゴブは今月だけで三十二人聞いたぞ」
一瞬、通信の向こうで沈黙があった。
『……なんで旅人がそんな数字を知ってるんだ』
「ゴブから聞いた」
『……』
また沈黙。今度は長かった。
そして。
「……打ち破ってみせる」
低い声だった。負けを認めた上で言う言葉の、あの硬さがあった。負け惜しみではなく、本気の宣言だった。ゴブを超えようとしているカイルは、一年前のカイルとは別の人間だった。
通信が切れた。
ゴブが「カイルさんは——大丈夫ですか」と聞いた。
「大丈夫だ」
「悔しそうでした」
「そうだな。でも悔しがれるのは、前に進んでる証拠だ」
ゴブが「……そうですね」と言った。少し考えてから、「レンに悔しがってほしかったのかもしれないです」と付け加えた。
俺は水を一口飲んだ。
悔しくないかと言われたら——ゼロではない。でも、俺がここを離れてカイルが数を積んでいるということは、俺が望んでいたことそのものだった。記録が打ち破られることを、どこかで待っていた気がした。
夕方になった。
ゴブが「上まで送ります」と言った。
石段を上りながら、俺は言った。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「ゴブは——今、好きか。この仕事が」
ゴブは少し黙った。
「好きです」と言った。「向いているかどうかは、まだわからないけど」
「向いてるよ」
「どうしてわかるんですか。スキルもないのに」
「スキルがあるときも、そんなことはわからなかった」
ゴブが声を出して笑った。遠慮のない笑い方だった。久しぶりに聞く気がした。いや、前からこんな笑い方をしていただろうか。記憶の中のゴブは、もう少し控えめに笑っていた気がする。
変わっているとしたら、ゴブの方だった。よい方向に。
入口まで戻ると、扉が見えた。夕日が差し込んで、石畳の上に長い影を作っていた。朝に来たときと同じ扉だったが、光の色が変わると全然違って見えた。
俺は扉に近づいた。
一歩、また一歩。
「また明日も来ますか」とゴブが聞いた。
「まあ——」
答えかけて、止まった。
扉に手を置いた。
冷たい鉄の感触が、手のひらに伝わった。管理者として何百回も触れたはずの感触が、今日は少し——違った重さがあった。
「レン?」
ゴブが呼んだ。
俺は扉から手を離さないまま、答えた。
「明日も来る。旅人として」
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