第178話「来た者」
接続点に立ったとき、空気が変わった。
「来ています」
ゴブが隣で静かに言った。俺にもわかった。スキルはもうない。でも——何かが近づいてくる感覚だけは、残っていた。
いや、残っているのではないのかもしれない。最初から、スキルとは別のところにあったのかもしれない。
【迷宮管理Lv.9:外部接触——検知。管理権限:カイル・ベルグ。閲覧権限:レン・アシダ(旧管理者・限定)】
カイルのスキルが示す表示を、ゴブ経由で確認した。俺のものではない。旧管理者としての閲覧権限だけが、今でも細い糸のように繋がっている。
「読めるか」とゴブが聞いた。
「読める」
「よかった。レンに見てほしかったから、設定に残してもらいました」
返事ができなかった。胸の奥が、少し締まった。
接触が来たのは夜明け前だった。
接続点の石床は冷たく、足の裏からじわりと冷えが上がってきた。半年ぶりに戻ってきた迷宮の深部は、変わっていないように見えて、変わっていた。以前はここに立つと、奥から圧のようなものが来ていた。封印の外から流れてくる何かの気配が。
今はそれがない。静かだった。静かで、でも空虚ではなかった。
「……来た」
声が届いた。低い声だった。音というより、意識に直接触れてくるような届き方。三年近く聞いてきたから、慣れていると思っていた。でも今日は——少し違う感じがした。落ち着いていた。以前あった切迫感のようなものが、消えていた。
「久しぶりだ」と俺は言った。
「——久しぶり」
少し間があった。
「その言葉、覚えたのか」
「おまえが言っていた。以前。だから覚えた」
「来た者」は言葉を持ち帰っていく。俺が使ったものを、向こうへ運んでいく。そうして少しずつ、言葉が増えていく。ゴブが俺の袖をそっと引いた。「話があると言っています」
「聞こえてる」
「ああ。でも——声に出して確認するのが、ゴブ流です」
笑ってしまった。
「名前を決めた」
それだけ言って、向こうは黙った。
重要な話をするとき、この存在はいつも一度止まる。言葉の重さを確かめているのか。それとも——受け取る側が準備するのを待っているのかもしれない。
「聞かせてくれ」
「「来た者」だ」
俺は一度、その名前を頭の中で繰り返した。
来た者。
「俺たちは——来たことにした」
来たことに、した。
「封印の外から来た。それが俺たちの事実だ。逃げてきた、とも言える。でも——逃げた先で、聞いてもらえた。だから「来た」ことにした」
ゴブが息をのんだ。
俺には何も言えなかった。
来たことにした。
自分たちに起きたことを、どう名付けるか。それはその存在だけが決められることで、誰も口を出せない。でも「来た」という名前を選んだということは——来た先で何かを受け取ったということだ。ただ流れてきただけではなく、辿り着いた、という意味を自分たちで与えたということだ。どこかに「来た」と言える場所ができたということだ。
足の裏が冷たかった。半年の旅の疲れが膝ににじんでいた。それでも立っていた。
「いい名前だ」
それだけ言った。それしか言えなかった。
「——「待つ者」に、伝えていいか」
しばらくして、「来た者」が言った。
「伝えてほしい」とゴブが答えた。「フォルは——待っています。ずっと」
「知っている」
短い返事だった。短い中に、長い時間が入っていた。
フォル。第七迷宮の核にいた知性体。「待つ者」という名前を持つようになった存在。「来た者」の向こう側で、今も封印の維持に関わり続けている。
待つ者と、来た者。
二つの名前が、揃った。
俺はずっと、その間に立っていた気がした。どちらの側でもなく、でも両方と話をする場所に。それが「門番」だったのかもしれない、と今になって思う。門とは、境界線の上に立つということだ。
「一つ、聞いていいか」と「来た者」が言った。
「聞いてくれ」
「おまえは——また来るか」
「来る」
「……なぜ即答できる」
「まあ、聞いてから判断しようと思ったら、また来るしかないだろ」
少し間があった。
それから「来た者」が言った。
「——まあ、聞いてから判断しよう」
ゴブが俺の顔を見た。俺はゴブを見た。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
ep140で初めて使ったあの言葉を、「来た者」は今日また言った。でも今日は違った。あのときは試すように言っていた。恐る恐る拾い上げるように。今日は——自分のものとして、言っていた。すでに持っている言葉として。
「そうだな」と俺は言った。「それが正しい」
接触が切れた後、ゴブとふたりで石の通路に腰を下ろした。
迷宮の深部は静かだった。カイルのスキルが遠くで封印の維持を記録し続けている。俺には数値は見えないが、ゴブが時々確認してくれる。
「名前がある、というのは——どういう感じだろうな」
ゴブが呟いた。
「わからない」と俺は言った。
「俺も——よくわからないんです。名前をもらう前と後で、俺は変わったのかなって。でも「ゴブ」って呼ばれるたびに、それが俺だって思います。呼ばれるたびに、俺がいる場所がわかる感じがします」
「それが答えじゃないか」
「そうですかね」
ゴブが少し考えた。
「「来た者」も——自分で決めた名前ですよね」
「そうだ」
「じゃあ、強い名前です。誰かにもらったんじゃなくて、自分たちで選んだ。「来たことにした」って——俺、すごいと思います」
俺も、そう思った。逃げることも来ることも、同じ移動だ。でも「来た」と名付けるとき、それは到着になる。辿り着いた場所ができるということになる。
部屋へ戻る途中、カイルへ短い通信を送った。
「「来た者」が名前を決めた。封印は今日も維持されている」
少しして返事が来た。
「知ってる。スキルが記録した。——「来た者」が口癖を自分のものとして使ったのも」
「全部見えてたのか」
「Lv.9は記録範囲が広い。お前が「調停の記録は残せ」って言ったせいだ」
「俺のせいか」
「そうだ」
「まあ、いい記録だろ」
しばらく間があって、カイルが言った。
「——あの言葉、初めて「来た者」が自分のものとして使った気がした。違うか」
「違わない」
「そうか」とカイルが言った。少し間があって。「お前、明日もそこにいるのか」
「しばらくいる。旅人として」
「旅人が迷宮に長居するな」
「ゴブが引き止めてる」
短い笑いが聞こえた気がした。声だからわからない。でもわかった。
通信を切った後、ゴブがすぐそこにいた。
「聞こえてましたよ」
「盗み聞きか」
「迷宮の中では全部聞こえます。仕様です」
「そういうことにしておく」
ゴブが立ち上がって、通路の松明を確認した。少し揺れていたが、消えなかった。
「今夜も——ドランの部屋に泊まりますか」
「そうする」
ゴブがうなずいた。しばらく歩いてから、ぽつりと言った。
「……ドランも、名前がありました」
「あった」
「よかったと思います。名前があって。ドランが消える前に、俺はドランを「ドラン」と呼べた」
俺は何も言わなかった。
ドランは三百年、一人でいた。最後に話せて、よかったと言った。
「——名前がある、というのは——どういう感じだ」
ゴブが、もう一度だけ聞いた。さっきと同じ言葉を。
俺は少し考えた。
「今、考えてる」
「俺も——考えていいですか」
「答えが出たら聞かせてくれ」
「はい」とゴブは言った。少し間があって。
「——まあ、聞いてから判断しよう、ですね」




