第176話「第七迷宮が見える」
---
「あそこです」
タルが指さした。
街道が緩やかに傾いて、先に森が見えた。その向こう、木々の切れ目に、石造りの門柱が見えた。
俺は立ち止まった。
半年ぶりだった。
「知ってる」
声に出してから、少し変な気がした。知っているも何も、俺がここを出ていったのだ。でも口から出た言葉は確かにそうだった。知っている。帰ってきた。
「あなたが最初に勤めていた門番の場所ですよね」
タルが確認するように聞いた。
「そうだ」
「感慨深いですか」
「……どうだろうな」
俺は歩き始めた。
靴底が薄くなっていた。半年前に履き替えた靴は、もうそろそろ限界だった。右の踵の部分に小石が入り込んでいて、昨日から一歩踏むたびに微かに痛い。取り出そうとしたが、いつの間にかその痛みが歩くリズムの一部になっていた。
門が近づいてくる。
石畳の入口。両側の松の木。変わっていない。変わっていないはずなのに、少しだけ大きく見えた気がした。いや、違う。俺が見方を変えたのかもしれない。
門の前に、小さな影があった。
人影ではない。身長が低い。緑がかった肌。大きな耳。腰に鍵を下げて、門柱の横に立っている。
ゴブだった。
「来ましたね」
声が門まで届いた。
走って来るわけでも、手を振るわけでもない。ただ立っていた。俺が近づいていくのを待ちながら、当然のように。
「ああ」
俺は返した。
十歩、五歩、三歩。
間近で見ると、ゴブは少し背が伸びていた。気のせいかもしれないが、立ち方が違う気がした。前は内側に少し折れていた肩が、今は真っ直ぐだった。
「わかってたんですか。今日来るって」
タルが横から聞いた。
「わかってた」とゴブが言った。
「なんで」
「レンが「また来る」と言ったから。それだけ」
それだけ、と言いながらゴブが俺を見た。
何も言わなかった。でも言葉がなくても伝わるものがあった。俺はそれを半年前にここで学んだ。
「来た」
「来ましたね」
それだけだった。
俺たちはそれ以上、何も言わなかった。
「こちら、タルという。ゴブに話を聞いてもらいに来た」
「はい。話を聞きます」
ゴブがタルに向き直った。
タルは少し驚いた顔をした。もっと儀式めいた流れを想像していたのかもしれない。「話を聞きます」と一言言って待っている小柄な魔物。それがここの門番だった。
「あの、父親との話なんですが……」
「はい」
「聞いてくれますか、本当に」
「もちろんです」
ゴブが頷いた。迷いがなかった。俺が最初にゴブと話したときの、あの遠慮がちな確認の仕方とは違っていた。
タルが少しずつ話し始めた。父親が戦士として現役だった頃の話。自分がAランク候補になれなかった話。一度も「よくやった」と言われたことがない話。迷宮に来ようと思ったのは、強くなりたいからじゃなくて、ただどこかに向かいたかったからだという話。
ゴブはずっと聞いていた。
俺は少し離れた石段に座って、二人のやり取りを聞いていた。聞くというより、聞こえていた。
靴の中の小石を取り出した。
ただの小石だった。
半日分の痛みを生み出したものが、掌の上に乗るとひどく小さかった。
タルが話し終えた頃には、日が傾いていた。
「……すっきりした気がします」
「よかった」
「ゴブさん、解決したわけじゃないのに、なんで」
「話すと気づくことがありますよ。聞いてもらうと」
タルがそれを聞いて黙った。
少ししてから「また来てもいいですか」と言った。
「待ってます」とゴブが言った。
待ってます。
俺は自分が言われた言葉を、ゴブが別の誰かに言うのを初めて聞いた。
変な感じがした。変な、というか——正しい感じがした。こういうふうに言葉は増えていくのかもしれない。
タルは今夜の宿を取るために近くの村へ向かうと言って、礼を述べて去った。俺は見送った。
「何か変わったか」
俺は聞いた。
ゴブが门のそばに立ったまま、しばらく考えた。
「変わった、というか」
「というか」
「増えました」
「何が」
「来る人が」
ゴブが言った。
「先月で、人間の旅人が三十二人来ました。話を聞いたのが二十七人。五人は入口だけ見て帰りました」
「それはそれでいい」
「そうですね。俺もそう思うようになりました」
ゴブが少し笑った。
笑い方も変わっていた。以前は笑うとき、どこか確認するように俺を見た。これは笑っていいのかという確認。今は違う。ただ笑った。
「カイルさんから連絡が来てます」
「何だって」
「調停数の話です。先月、レンが第七迷宮にいた頃の記録を超えたと」
俺は少し間を置いた。
「そうか」
「悔しいですか」
「いや」
本当にそう思っていた。悔しくなかった。それより——なんか、よかった。
「フォルも待ってます。案内しますか」
「明日にしよう。今日は疲れた」
「わかりました」
ゴブが門柱の横に戻った。夕日が石畳を橙色に染めていた。
俺は石段から立ち上がって、伸びをした。背骨がぽきぽきと鳴った。半年歩き続けた背中は、もう少し休みが要るような気がした。
「泊まれるか」
「当然です。準備してあります」
「なんで」
「来るとわかってたから」
ゴブがまた言った。
さっきと同じ言葉。でも今度は少し得意げだった。
「……わかった」
俺は門をくぐった。
久しぶりに入った第七迷宮の入口は、前より少し明るかった。照明が増えていた。通路の脇に棚があって、簡単な案内の紙が置いてあった。訪問者向けらしかった。いつの間に用意したのか。
「読みましたか」
ゴブが後ろから聞いた。
「今読んでる」
「俺が書きました」
「字は上手くなったな」
「練習しました」
俺は棚の端に触れた。木の感触があった。
何かが変わっていた。でも何かが変わっていないとも思った。石の壁の重さ。ひんやりした空気。少し湿った匂い。
「ゴブ」
「はい」
「ドランが使ってた部屋、まだあるか」
ゴブが一瞬黙った。
「あります。誰も使っていません」
「そうか」
「……使いますか」
「今夜は、そこにしよう」
ゴブが何も言わなかった。代わりに前を歩き始めた。案内するように。
俺はついていった。
靴底の痛みはもうなかった。小石は外に捨てた。
廊下を歩きながら、ゴブが言った。
「何か変わりましたか。レンは」
「どうだろうな」
「変わってないと思います」
「なんで」
「聞いてから判断する感じが、変わってないから」
俺は少し考えた。
「そうかもしれない」
「それでよかったですか」
よかったかどうか。
半年歩いてきた。スキルはない。権限もない。ただ歩いて、話を聞いてきた。三十人か、四十人か。数えていなかった。全員の顔は覚えていないが、声は覚えていた。
「よかった」
俺は言った。
ゴブが前を向いたまま、「よかった」と繰り返した。
それは俺に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。
「何が一番よかったですか」
「……全部だ」
ゴブが足を止めた。
振り向いた。
目が光っているように見えた。照明のせいかもしれない。
「俺もです」
それだけ言って、ゴブはまた歩き始めた。
奥から、かすかに風の音がした。
第七迷宮の何かが、いつも通りに動いていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




