第175話「山が見える」
朝、目が覚めたとき、窓の外に山があった。
起き上がり、宿の窓から外を見る。夜明け前の薄い光の中に、エルガ山脈の稜線がはっきりと浮かんでいる。昨日の夕暮れ時に見えたよりも近い。いや、近くなったのではなく、光の角度が変わったせいかもしれない。それでも、見える。
「帰っている」
声に出してみると、少し照れくさかった。
旅に出て五十三日。振り返れば、ただ歩いて、話を聞いて、また歩いた。スキルは一度も使っていない。当たり前だ。もうない。でも困ったかといえば、困っていない。
俺のスキルは最初からこっちにあったんだな、と思う。
荷物をまとめ、宿代を払い、外に出た。朝の空気が冷たい。六月の初めにしては涼しい。山が近い証拠だ。足の裏に昨日の疲れが残っている。靴の底がさらに薄くなった。そろそろ新しい靴が要る。第七迷宮まで、あと二日か三日。
俺は道を南東に取って、歩き始めた。
昼を過ぎたころ、街道の脇に腰を下ろしている若者を見つけた。
年は十六か十七といったところ。荷物が多い。剣を一本背負って、地図を広げて、何かを確認している。表情に焦りがある。立ち止まってから前に進まずにいる、という種類の焦りだ。
「迷ったか」
俺が声をかけると、若者は顔を上げた。
「……そうじゃないです。地図は読めます。ただ」
「ただ?」
若者は地図を畳みながら、少し口を開けた。何か言いかけて、止める。そのまま固まっている。
「行く前に聞いてもいいか」
俺が言うと、若者の表情が変わった。「え」という顔。
「急かさない。水はあるか」
「あります」
「じゃあ座って話そう」
若者は少し戸惑ったように俺を見てから、「はい」と言った。
若者の名前はタルといった。隣の街の鍛冶屋の息子で、ジョブは「戦士」のBランク候補。第七迷宮を目指しているのだという。
「なんで第七に」と俺が聞くと、タルはすこし考えてから言った。
「強くなりたいから、じゃないです。あそこに——ゴブリンの門番がいるって聞いたんです。魔物なのに話を聞いてくれるって。信じられないけど、なんか行ってみたくて」
「へえ」
「笑いますか」
「笑わない」
タルは少し安堵したような顔をした。ちょっと肩が下がった。
「強くなるために行くっていうのが普通じゃないですか。でも俺、別に最強になりたいわけじゃなくて。ただ、なんか話したいことがあって」
「話したいこと」
「……父親のことです」
俺は何も言わなかった。タルが続ける。
「鍛冶屋なんです、父が。俺もなれって言われてる。でも俺、剣を持つほうが好きで。そのことを言ったら、父がすごく怒って。でもなんか、怒り方が——怖かったんじゃなくて、悲しそうで」
「悲しそうに怒った」
「そうです。なんで悲しいのか、わからなかった。で、誰かに話したくて。でも街の人に言っても「親の言うことを聞け」で終わるから。なんか違くて」
俺はしばらく黙った。
タルの言葉の中にある輪郭を、ゆっくり確認する。「悲しそうな怒り」という言葉を、タルは三度繰り返した。自分でも何度も思い返してきたんだろう。
「その門番なら、聞いてくれる」
「……ほんとうですか」
「俺が保証する」
タルが俺を見た。「あなたは?」と目が聞いていた。
「ただの旅人だ。でも——あの門番と一緒に仕事をしていたことがある」
「仕事って、迷宮の?」
「そんなところだ」
タルは少し口をとがらせてから、「なんで今は旅人なんですか」と聞いた。
「まあ、聞いてから判断しよう、と思ったら旅になってた」
「……それ、どういう意味ですか」
「俺もよくわからん。でも悪くはなかった」
タルが小さく笑った。顔が幼い。でも目が真剣だ。
「俺の話をしていいか」
俺が言うと、タルが「え」という顔をした。
「聞いてくれるか」
「……はい」
「俺は昔、王都でジョブ判定を受けた。結果は「門番」だった。ランク外のジョブだ。周りには笑われた。自分でも、何もできないと思った。剣が使えるわけじゃない。魔法が得意なわけでもない。ただ扉の前に立って、来た者を待つだけの仕事だった」
タルが黙って聞いている。
「でも俺は、ある夜——迷宮の扉をノックされた。ゴブリンが来て、「話を聞いてほしい」と言った。怖かったし、意味もわからなかった。でも、聞いた。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけで、世界が少し変わった。全部じゃない。少しだけ。でも確かに変わった」
タルは地面を見ながら、ゆっくりうなずいた。石を一つ、指先で転がしている。
「お父さんの話を聞いてもらえ、という話じゃない。お父さんが「悲しそうに怒った」のが何なのか、自分で考えたいなら——まず誰かに話すといい。声に出すと、自分でも気づかなかったことが見えてくる」
「第七迷宮の門番が、聞いてくれる?」
「ゴブは、聞く。それが仕事だから。でも本当に仕事だから聞くんじゃなくて——好きだから聞くんだ、あいつは」
タルが顔を上げた。
「好きだから聞く」
「そうだ。だから話しやすい。俺も、最初にそれを教わった気がする」
タルはしばらく黙っていた。石を転がすのをやめて、山のほうを見た。
エルガ山脈の稜線が、昼の光の中に白く浮かんでいる。
「あなたも——その門番に、話を聞いてもらったことがあるんですか」
「ある。何度も」
「どんな話を」
「全部だ。世界が終わりそうになったときも、次に何をすべきかわからないときも。ゴブはいつも聞いてくれた」
タルがぽつりと言った。
「いい門番だ」
「そうだな」
しばらく二人で座って、水を飲んだ。
風が来て、山の匂いがする。草と石と、遠い雪の匂い。俺はそれを深く吸ってから、立ち上がった。足の裏が痛い。でも歩ける。
タルも立ち上がり、荷物を背負い直した。
「一緒に行きますか」と聞いてきた。
「同じ方向だ。少し寄り道はあるが」
「寄り道って」
「まあ、着いてみてからだ」
二人で道を歩き始めた。エルガ山脈が、一歩ごとに少しずつ大きくなってくる。俺はそれを見ながら、「帰っている」という感覚が今日も確かにある、と思った。これが何なのかは、うまく説明できない。ゴブには伝わるかもしれない。
「あの——」
しばらく歩いてから、タルが口を開いた。
「……その門番が、俺を聞いてくれるか」
俺は少し間を置いてから答えた。
「必ず聞いてくれる」
タルは「そうですか」と言って、少し照れたような顔をした。
山が近い。
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