第174話「返事を書く」
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宿の机は狭かった。
木の節が一つ、ちょうど書こうとしていた場所のど真ん中にあった。羽根ペンの先が引っかかって、最初の一文字が少し歪んだ。
俺は一度ペンを置いて、指の腹でその節を撫でた。
別にどうということもない。歪んだ字でも、ゴブなら読む。あいつ自身の字だって歪んでいる。それでも俺は読んだ。
ペンを持ち直して、続きを書いた。
「先月、初めて人間の旅人が「見学に来たい」と来ました。話を聞きました。また来るそうです」
ゴブが書いてきた文章を、頭の中で一度読み直す。見える気がした。あいつが扉の前に立って、見知らぬ旅人の顔を見上げている場面が。びっくりして、少し後ろに下がって、でも逃げないで、ちゃんと聞いた姿が。
書いた。
「ゴブへ。手紙を受け取った。旅は続いている。色々あった。今のところ、死んでいない。そっちに向かっている。まあ——聞いてから判断しよう」
ペンを置いた。
後ろで音がした。振り返ると、宿の主人が盆を持って覗き込んでいた。四十がらみの女で、この宿の主人を十年やっているという話だった。
「それだけですか」
「それだけです」
「三行ですよ」
「ゴブは短い手紙のほうが好きだと思う」
「送る相手はゴブさんというんですか」
「そうです」
「知り合いですか」
「一緒に仕事をしていた」
主人はしばらく俺の手紙を見ていたが、やがて盆を机に置いた。湯気の立つスープと、黒パンが一枚。夕食には少し早い時刻だったが、昼を食べていない客がいることを主人は知っていた。
「三行で伝わるんですか」
「伝わると思います」
「……変わった旅人だ」
そう言って、主人は引き返していった。
俺はスープの椀を手に取って、熱さを確かめながら一口飲んだ。
塩の味がした。強くなく、弱くなく、ちょうどいい塩加減だった。
旅に出て、今日で五十三日目になる。
数えているわけではない。ゴブから届いた手紙の日付と、最初に一人になった朝を照らし合わせて、そうなると気づいただけだ。
五十三日で、どれだけの人間と話しただろうか。
アルのことは覚えている。分かれ道で半日立ち止まっていた農家の三男。「まず行って、聞いて、それから考える」と話した相手。あいつは今頃、どこにいるだろう。
農夫と行商人が口論していた村も覚えている。どちらの話も聞いたら、二人は自分で落としどころを見つけた。スキルは一つも使っていなかった。
宿の相部屋で荷物が邪魔だと言い合っていた旅人たちに声をかけたこともある。揉め事というほどのものでもなかったが、双方の話を聞いていたら片方が「そういうことならしょうがない」と笑って片付けた。
それだけのことだ。
大きな交渉ではない。世界が動くような決断でもない。ただ、聞いた。聞いたら、だいたいの場合、何かが動いた。
「俺のスキルは最初からこっちだったんだな」
と、三日目の夜に思った。
あのとき一人だったから声に出した言葉だが、今は確信になっている。
【迷宮管理Lv.9】は、もうない。カイルに渡した。今の俺の手元にあるのは、革靴の底が薄くなった感触と、ゴブが持たせてくれた第二層の石と、それから五十三日分の記憶だ。
数で言えば——正確には覚えていないが——三十人は話を聞いた。四十かもしれない。それだけの人間が何かを話した。話し終えて、少し顔が変わって、去っていった。
調停者でなくてもできた。
スキルがなくてもできた。
それが何かということは、もう少しかかって考えている。でも、できたということは確かだ。
手紙を折り畳んで、封をした。
蝋を溶かして押さえる型は持っていなかったから、代わりに宿の主人から糊を借りた。几帳面に塗って、しっかり閉じた。表に宛先を書く。
「第七迷宮・門番 ゴブ 様」
筆跡が少しおかしかった。「様」をつけることに慣れていなかった。
でも、それでいい。
ゴブは今、その場所を守っている。俺が長いこと立っていた場所に、あいつが立っている。扉の前に。来る者を待って、話を聞いて、「また来るそうです」と手紙に書く。
三百年、ドランが一人でやっていたことを、今はゴブがやっている。
人間が来ても逃げない門番が、そこにいる。
窓の外が少し明るかった。曇り空だったが、西の端が橙色になっていた。今日もいつの間にか夕方になっていた。
スープの椀が空になっていた。
黒パンを手に取って、かじった。固かった。昨日焼いたものだと思う。それでも噛めばちゃんと味がした。
翌朝、宿を出た。
荷物はそれほど多くない。第七迷宮を出たときから変わっていない。門番の仕事があったころは、スキルのウィンドウを開けば迷宮の状態が数値でわかった。今は何もわからない。今日の天気も、次の街までの距離も、この道の先に何があるかも、自分の足で歩いて確かめるしかない。
それで十分だ、と思っている。
わからないから聞く。聞くから、何かがわかる。
石畳が途切れて、砂利道になった。街道は細くなり、木々が両側から少し迫るようになった。夜露が葉に残っていて、通るたびに袖が湿った。
一刻ほど歩いたところで、道が緩やかな丘になった。
登り切ったとき、空が開けた。
雲の切れ間から、朝の光が帯のように差し込んでいた。
その向こうに——山が見えた。
遠い。まだずいぶん遠い。霞んでいて、山の頂がどこかもはっきりしない。だが、確かにあった。白い稜線が、空の青とぼんやり区別できる程度には、そこにあった。
エルガ山脈。
第七迷宮がある方角だ。
俺は立ち止まって、しばらくそれを見た。
靴の底から石の感触が伝わってきた。硬くて、少し冷たい。空気は湿っていて、草の匂いがした。何かが鳴いた——遠くの鳥か、虫か、判断できなかった。
帰っている、と思った。
どこかに向かっているのではなく、どこかに帰っている。
その感覚が初めてあった。
「まあ——聞いてから判断しよう」
声に出してから、気がついた。ゴブの返事に書いた言葉と同じだと。
同じ言葉を、また使っていた。
別に意識したわけではない。ただ、そう思った。だから言った。
遠くで山が待っていた。
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