第173話「ゴブからの手紙」
宿の朝飯は、麦粥と塩漬けの魚だった。
テーブルが汚い。椅子が歪んでいて、座るたびに右膝に妙な力がかかる。窓の外は曇りで、エルガ山脈はもう二日ほど姿を見せていない。
俺は黙って粥をすすった。
旅に出てから、ぼんやりと数えていた。今日で十九日目だ。靴底はすり減り、足の親指の付け根に豆ができた。昨日は右肩が痛かった。荷物はそれほど重くないはずなのに、どこか体の使い方が狂っているんだろう。
「お客さん、これ届いてますよ」
宿の女将が木皿の上に封筒を乗せて持ってきた。
見た瞬間に分かった。字が、歪んでいる。
人間語のつもりで書いているが、どこかぎこちない。角が丸すぎて、線が一本多い文字がある。書いた者がまだ慣れていないことが、そのまま紙に出ていた。
俺は粥を一口飲んでから、封を開けた。
手紙はこうだった。
「レン、元気ですか。ゴブです。
先月、一人の人間の旅人が来ました。第七迷宮を見学したいと言いました。見学、という言葉の意味が最初わかりませんでした。怖がっているのかと思いましたが、そうではなかったです。
ただ、見たかったのだと言いました。
俺は話を聞きました。旅人はいろんなことを話してくれました。仕事のこと、家族のこと、遠くの迷宮で怖い目にあったこと。俺はあまりうまく返せませんでしたが、聞きました。
旅人は帰り際に「また来る」と言いました。
俺は「待ってます」と言いました。
カイルさんから通信が来ました。王国の別の街でも、調停の話が広がっているそうです。ヴォルトが「落ち着いている」とフォルが言っていました。迷宮は静かです。
封印強度は今日も安定しています。
レンはどこにいますか。来る予定はありますか。」
以上だった。
俺はもう一度、最初から読んだ。
字が少し歪んでいるせいで、何度か読み直す必要があるところがあった。「見学」という字は、「見角」になっていた。でも意味は分かる。
ゴブが旅人の話を聞いた。
その旅人が「また来る」と言った。
俺は粥の残りを食べながら、窓の外の曇り空を見た。
昼過ぎに雨が降り始めた。
宿を出るに出られなくて、俺は共有室の椅子に座っていた。テーブルには俺の他に三人いた。旅の商人が二人と、もう一人——年齢は俺より十は上だろうか、眉間に深い皺を刻んだ男が、朝からずっと壁際の席に座っていた。
その男が、どうにも感じが悪かった。
宿の給仕の子に無言で皿を突き返した。水を頼むときに舌打ちをした。隣に座った商人が挨拶しても、目を合わせなかった。
俺は特に気にしなかった。人にはそれぞれ事情がある。
だが夕方になって、宿の女将が俺に「あの方、困っているみたいで——」と小声で言いに来た。「荷物を明日の馬車便で送りたいんですが、書類の書き方が分からないみたいで。でも聞きにくそうにしていて」
俺は立ち上がった。
「まあ、聞いてから判断しよう」
男のテーブルに近づいて、「荷物の送り状、分からないとこがあれば手伝えますが」と言った。
男は俺を見た。警戒の目だった。
「頼んでない」
「ええ。でも困ってそうだったので」
沈黙が十秒ほど続いた。
男は視線を外して、「……書き方が変わったのか」と呟くように言った。「去年まではこんな欄、なかった」
俺は椅子を引いて座った。
送り状を一緒に見た。確かに今年から様式が変わっていた。「送付元の認定番号」という欄が増えていて、個人の場合は「個人・不要」と書けばいい。それだけの話だった。
「ここに『個人・不要』と書けば通ります」
男は黙って書き込んだ。
俺は立ち上がろうとした。
「……妻が病気で」と男が言った。
俺は座ったまま待った。
「王都の医者に診てもらうために薬を送っている。高い薬で——書き間違えると届かないかもしれないと思って、緊張していた」
「それで」と俺は言った。「感じが悪く見えたんですね」
男が少し目を細めた。
「そんなに分かりやすかったか」
「いや。分かりませんでした。だから聞いた」
男はしばらく黙っていた。雨の音がしていた。
「……聞いてくれてありがとう」と男は言った。声が少し低くなっていた。「人に頭を下げるのが、苦手で。ずっと一人で抱えてた」
「送り状、ちゃんと届きますよ。書き方は合ってます」
俺はそれだけ言って、自分の席に戻った。
夜、俺はもう一度ゴブの手紙を出した。
ゴブが旅人の話を聞いた。旅人が「また来る」と言った。
ゴブが「待ってます」と言った。
それだけのことなのに、なぜだか胸の奥が少し重くなった。重い、というより——満ちている、と言うほうが近いかもしれない。
ゴブは俺がいなくてもできた。
当たり前だ。ゴブは俺の代わりじゃない。ゴブはゴブのやり方で、ゴブの門番をやっている。
俺はポケットの中の石を握った。第二層で拾ったやつだ。表面がすり減って、少し小さくなった気がする。
手紙の最後の一文をもう一度読んだ。
「レンはどこにいますか。来る予定はありますか。」
宿の蝋燭が揺れた。
俺はゴブの字を見た。「来」の字が「来」になっていなくて、横線が一本足りなかった。
——それでも意味は分かる。
俺は返事の紙を取り出して、一行だけ書いた。
「そっちに向かっている」
書いてから、もう一行足した。
「まあ——聞いてから判断しよう」
窓の外、雨はまだ降っていた。エルガ山脈はまだ見えない。でも俺の足は、明日になれば動く。
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