第172話「噂」
宿場町に入ったのは、日が傾きかけたころだった。
靴の底が薄くなってきている。そろそろ直してもらうか、買い換えるかを考えながら、俺は石畳の通りを歩いた。エルガ山脈のふもとまであと二日という距離感。空気が少しずつ変わってきている。平地の乾いた匂いではなく、岩と針葉樹の混じった冷たさが鼻の奥に入ってくる。
昨日からの歩きで、足の裏がじんじんしていた。
宿を探すより先に、腹に何か入れたかった。看板を確認しながら歩くと、通りの端に煮込みの匂いが漏れている店があった。扉を押すと、夕方前にもかかわらず座席の半分ほどが埋まっている。旅人の多い街らしかった。
「一人です」
「奥の席へどうぞ」
隅の席に荷物を下ろし、スープと黒パンを頼んだ。待つあいだ、周囲の会話が耳に入ってくる。荷馬車の値段。北の峠の天気。王都で何かあったらしいという噂。
そのなかの一言が、俺の手を止めた。
「第七迷宮に、ゴブリンの門番がいるって本当か?」
声の主は、三十代くらいの男だった。旅商人風の格好で、向かいに座った同行者らしき若者に話しかけている。
「本当らしいですよ。俺、南から来た人に聞きました。「話を聞いてほしい」って言えば、聞いてくれるって」
「ゴブリンが、人語で?」
「それだけじゃなくて。王国公認の門番なんだって。ちゃんと制度になってるって話ですよ」
俺はスープを一口飲んだ。
熱かった。
口の中をすこし火傷しながら、二人の会話を聞き続けた。黒パンをちぎる手が、自然に止まっている。
「信じられないな。魔物が門番って」
「でも調停者制度が王国に認められたのは本当の話らしいし。第七迷宮にいるゴブリンが最初の調停者だって、どこかの記録に残ってるって聞きました」
「なんで魔物が……」
「さあ。でも、話を聞いてくれる人なら、人間でも魔物でも関係ないって考え方が広まってきてるみたいです」
隣のテーブルから、また別の声が混じった。四十代くらいの女性の旅人だった。
「その話、私も聞いたことあります。第七迷宮のゴブリン門番に話を聞いてもらったら、ずっと悩んでたことが整理できたって、宿場で聞きました」
「会ったことあるんですか?」
「私じゃなくて、その人が。でも一度会ってみたいとは思ってます」
俺は手元のスープに目を落とした。
湯気が揺れている。
気がついたら、俺は声をかけていた。
「その話——知ってますよ」
三人の視線が俺に向いた。
旅商人の男が少し眉を上げた。「知ってる、って。行ったことがあるのか」
「会ったことが、あります」
「ゴブリンの門番に?」
「ええ」
男が前のめりになった。「どんな奴なんですか」
俺は少し考えた。どんな奴、という問いに、どう答えればいいか。
「小柄です。最初は怖がりで、よく人の後ろに隠れていた。でも今は、自分で扉を開けて待ってます」
「人の後ろに隠れてた門番が?」
「そういうことになります」
女性旅人が首を傾けた。「あなた、もしかして第七迷宮に関係のある方ですか」
「前は少し。今は——ただの旅人です」
それだけ言って、俺はスープの続きを飲んだ。
男たちはしばらく話を続けていた。聞くつもりはなかったのに、断片が耳に入ってくる。王都近くで直接会いに行ったという人間の話。エルガ山脈を越える前に第七迷宮に寄ろうかという話。調停者制度が広まって、他の迷宮でも似たような話が出始めているという話。
世界が少しずつ変わっている、と思った。
俺が動かしたわけではない。ゴブが扉を開けて待っていることで、人が来る。来た人が誰かに話す。その話が旅人の口から口へ渡って、またどこかの誰かに届く。
そういう風が、今吹いている。
食事を終えて立ち上がろうとしたとき、さっきの女性旅人が声をかけてきた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは——あのゴブリン門番と、どういう関係なんですか。さっきの話し方、他人みたいじゃなかった」
俺はしばらく考えた。
どう答えるのが正しいか、ではなく、何が一番近いかを考えた。
「一緒に仕事をしていた、とだけ言っておきます」
「それだけですか」
「それだけです」
女性旅人は少しだけ笑った。「なんとなく、わかる気がします。大事な人のことって、うまく言葉にできないものですから」
俺は何も返さなかった。
返せなかった、が正確かもしれない。
荷物を持って店を出ると、夕暮れの空気が頬に当たった。山の方角が茜色に染まっている。ゴブが今ごろ何をしているかを考えた。夕方の第七迷宮の門の前で、誰かの話を聞いているかもしれない。もしくは、今日は来なかった旅人を待ちながら、石段に座っているかもしれない。
宿を探しながら歩いていると、後ろから男の声が聞こえた。
さっきの旅商人だった。連れの若者と一緒に出てきたらしく、まだ話を続けている。
「俺はあの門番に——話を聞いてもらったことがあるって、知り合いが言ってたんだよ」
「どういうことを話したんですか」
「聞いてみたら、くだらないことだったって笑ってたけど。でも、その時は真剣だったんだと思うよ。一番くだらなく聞こえることが、実は一番重要だったりするから——って、その門番が言ったらしい」
俺は足を止めなかった。
石畳の上を、靴底が薄くなりかけた靴で踏み続けた。
その言葉に聞き覚えがあった。ゴブが前にそんなことを言っていた。いつだったかは思い出せない。でも確かに聞いた。
ゴブの声が、この街の夕暮れの中に混じっている気がした。
宿の看板を見つけて足を向けながら、俺はポケットの中の石を握った。第七迷宮の第二層で拾ったという、ただの石。
重さは変わっていない。
「俺はあの門番に——話を聞いてもらったことがある」という声が、まだ耳の中に残っていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




