第171話「ただの旅人です」
「……あなた、調停者ですか」
村の女性が問いかけてきたのは、俺とアルが畑のわきの細道に差しかかったときだった。
五十がらみの、日焼けした顔の女だった。さっきまで農夫と行商人のやりとりを遠巻きに見ていた人物だ。目に、何かを確かめるような光があった。
俺は立ち止まった。
「いいや。ただの旅人です」
女は少し黙った。
「でも、あなたは聞いてくれた」
「そうですね」
「調停者って——王都にいる人たちが言ってましたよ。話を聞く専門の人が制度になった、って。あなた、そういう人じゃないんですか」
俺はしばらく考えた。
制度になった、という言葉が頭の中で一度転がった。カイルが動いたのだろう。あるいはカーラが。ここまで話が届いているとは思っていなかった。
「俺はただの旅人です。通りかかっただけ」
「でも——」
「話を聞いたのは、俺がそうしたかったからです。制度でも何でもない。それだけです」
女はまだ何か言いたそうだったが、俺は軽く頭を下げて歩き出した。
アルがついてくる足音が後ろから聞こえた。
坂を少し上ったところで、彼が小走りに並んできた。
「……さっきの人、まだ見てましたよ」
「そうか」
「なんか、すごく安心したみたいな顔してました」
俺はそれには何も言わなかった。
山間の道は細く、木の根が地面から浮き出ていた。昨日の雨でぬかるんでいるところもあって、足を取られそうになる。靴の底が少し薄くなっているのを感じた。そろそろ替え時かもしれない。
「レンさんって」とアルが言った。「調停者の制度、知ってたんですか」
「少しは」
「なんで関係ないみたいな顔してたんですか」
俺は少し考えた。
「関係ないから」
「でもさっき——」
「俺は制度に入ってない。今はただの旅人だ。二つは別の話だ」
アルが「うーん」と唸った。
十八歳の考える顔は、まだうまく整理できていないときに額にしわが寄る。それを横目で見ながら、俺は足元を確認しながら歩いた。
空腹だった。朝から食べていない。昼を過ぎているのに、次の村まであと一時間はかかりそうだった。
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう」
「何を?」
「昼飯のことを」
アルがぽかんとして、それから笑った。
次の村に着いたのは昼過ぎだった。
街道沿いの小さな宿場町で、馬を繋ぐための柱が何本か立っていた。旅人が数人、外の縁台に座って話している。俺とアルは宿の食堂に入って、麦粥と干し肉を頼んだ。
温かいものが体に入ると、足の疲れが少し軽くなった気がした。
アルが麦粥をかきこみながら、向かいのテーブルに目をやった。
「あの人たち、なんか聞いてますよ。王都の話っぽい」
声が届いてくる。
「——それで、カイル・ベルグって名前の調停者がいるらしいんだが」
男の声だった。旅姿の、三十代くらいの男だ。
「知ってる知ってる。俺、先月王都に行ったとき話を聞いたよ。制度化されたんだって。調停者が正式に王国に認定された。もう好き勝手できない迷宮がいくつか出てきたってことだ」
「へえ。で、その調停者ってのは何をするんだ」
「話を聞く専門だよ。魔物とか迷宮の知性体とか、そういうのと交渉する。剣を抜かずに解決する仕事」
「剣を抜かずに?」
「そう。もともと一人の門番がやってたことが始まりらしい。ランク外のジョブで——でも、誰も解決できなかったことを全部話し合いで片付けたんだって」
俺は麦粥をすくいながら、その話を聞いていた。
アルが俺の顔を見た。
俺は何も言わなかった。
「すごいですね」と、しばらくしてアルが小声で言った。
「そうかもな」
「制度になってるって、本当にすごいことじゃないですか」
「カイルがやったんだ」
「……知ってる人ですか」
「うん」
アルはそれ以上聞かなかった。賢い子だと思った。
俺は干し肉を一口かんで、窓の外を見た。街道に馬が一頭止まっていた。御者が荷物を下ろしている。普通の昼の景色だった。
カイルが制度を作った。
カーラが支えた。
ゴブが迷宮の門の前で誰かを待っている。
それぞれが、それぞれの場所で動いている。俺がいなくても動いている。
それは不思議な感覚だった。寂しいとも、誇らしいとも少し違う。何か——風みたいな感じだった。自分が生んだわけじゃないが、同じ方向に吹いている風。
スキルはない。
でも世界のどこかで「まあ、聞いてから判断しよう」と言える人間が増えていくなら、それでいいと思った。
「俺たちも出ますか」と俺は言った。
「もう少し休みたいです」とアルが言った。
「まあ、聞いてから判断しよう」
「さっきも言いましたよそれ」
「口癖だ」
アルがため息をついた。が、麦粥の最後の一口をすくいながら、小さく笑っていた。
宿を出て、しばらく歩いたところで、アルが「次の街ってどのくらいですか」と聞いた。
「二日くらい」
「でかい街ですか」
「そこそこ」
「調停者の話、その街でも聞けますかね」
俺は少し考えた。
「聞けるんじゃないか。噂は人より早く歩く」
「……レンさんの噂も歩いてますか」
「さあ」
本当にわからなかった。俺の名前が残っているのかもしれないし、残っていないかもしれない。どちらでもよかった。
ただ、次の街でカイルの名前を聞いたとき、俺はどんな顔をするだろう、と少し思った。
制度の名前を聞く。話の中身を聞く。それをただの旅人として聞く。
それで十分だと、今の俺は思っていた。
ポケットの中の石が、歩くたびにわずかに揺れた。
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