第170話「俺のスキルは最初からこっちだったんだな」
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三日目の朝は、足の裏が痛かった。
「……なあ、アル」
「はい」
「お前、毎日この距離歩いてるのか」
「農家ですから」とアルが答えた。「畑は広いので」
俺はため息をついた。スキルがあった頃は【迷宮管理】が色々なものを肩代わりしてくれていたのかもしれない。疲労感の質が違う。迷宮の中では石床の上を何時間歩いても、今より楽だった気がする。
麦わら帽子のアルは十八歳で、農家の三男で、昨日の昼に出会った。「村を出ろ」と言われたわけではないが、「いてもいなくても同じだ」と父親に言われたらしい。その言葉の重さを、アルはまだ整理できていない様子だった。
昨日、俺が「まあ、聞いてから判断しよう」と言ったら、アルは「何を聞くんですか」と真剣に問い返してきた。
「行った先のことを、だ」と俺が答えると、アルはしばらく黙って、それから「……そうですね」と言って歩き出した。
それだけで、一緒に歩くことになった。
人との縁は、いつでもそういうものだ。
村が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街道沿いに十数軒が並ぶ小さな村だ。看板も何もない。エルガ山脈への中継地点として機能しているらしく、宿の軒先に干した洗濯物が風でなびいていた。
「寄っていきますか」とアルが聞く。
「腹が減った」と俺は言った。「寄ろう」
村の入口近くで、声が上がっていた。
男が二人、道の真ん中に立っている。一人は四十代くらいの農夫らしい男で、日焼けした顔に怒りをにじませていた。もう一人は行商人らしく、背中に大きな荷物を担いでいる。年齢は三十代半ばか。
「だから、俺の畑を踏み荒らしたのはそっちだろう」
「荷車が道を外れただけだ。わざとじゃない」
「わざとかどうかの問題じゃない。麦が踏まれた。それだけだ」
村人が数人、遠巻きに見ている。誰も間に入ろうとしない。
アルが俺の袖を引いた。
「……行きましょう。関係ないですし」
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう」
「少し、話を聞いていいか」
俺が声をかけると、農夫と行商人の両方が振り返った。
警戒の目だ。見知らぬ旅人が割り込んできた、という顔。
「あんた、誰だ」と農夫が言う。
「通りかかっただけです」
「なら関係ない」
「そうかもしれない」俺は一歩引いた。「でも、聞かせてもらえるなら聞きます。嫌なら行きます」
沈黙が落ちた。
農夫が鼻を鳴らした。「……どうせ行商人の肩を持つんだろう」
「まだ話を聞いていないので、どちらの肩も持っていません」
それが意外だったのか、農夫が少し黙った。
俺は行商人のほうを見た。「荷車が道を外れたのはなぜですか」
行商人が口を開く。「轍が深くて。雨上がりだったから、荷車が取られた。避けようとして、そっちへ」
「どのくらいの被害が出たか、見ましたか」
「……見ていない」行商人が言いにくそうに答えた。「すぐに謝ったが、向こうが怒鳴るから、俺も言い返してしまった」
俺は農夫のほうへ向き直った。「踏まれた麦は、どのくらいですか」
「十株か、十五株か」農夫の声が、少し落ちた。「全滅じゃない。でも——」
「でも?」
農夫が口をつぐんだ。俺は待った。
「今年は去年より少ない」と農夫はようやく言った。「雨も少なかったし、土も疲れてきた。だから——少しでも減ると、こたえる」
行商人が小さく息を吐いた。
「それは……知らなかった」
「知るわけがない」農夫が吐き捨てる。しかしその声に、さっきほどの鋭さはなかった。
俺は行商人に聞いた。「補償の話は、できますか」
「金は持ってる」行商人が荷物を下ろした。「最初からそう言えばよかった。怒鳴られて、意地になった」
「意地になったのは俺もだ」農夫が短く言った。
しばらく沈黙があった。
俺はその沈黙の中に、何かが解けていくような感覚を感じた。怒りが、疲弊が、お互いの事情を知ることで少しずつ形を変えていく。
交渉というほどでもない。ただ聞いただけだ。
スキルは一切使っていない。使えるスキルが、もう俺にはない。
それでも——
「麦の値段、教えてもらえますか」と俺は農夫に聞いた。「俺が間に立って計算しましょうか」
農夫が少し驚いた顔をして、それから「……頼む」と言った。
決着がついたのは、それから四半刻もしない頃だった。
行商人は相場より少し多めの銅貨を農夫に渡した。農夫は受け取りながら「わざとじゃないのはわかってた」と小さく言った。行商人は「来年も通る」と答えた。
二人が別れていくのを、俺は道端で見ていた。
アルが隣に来た。「……すごいですね」
「別にすごくない」俺は言った。「話を聞いただけだ」
「でも解決した」
「向こうが解決したんだ。俺は聞いただけだ」
ポケットの中の石が、指に当たった。ゴブが渡してくれた第二層の石だ。ただの石だが、なぜか手がそこへ向かう。
スキルがあった頃、俺は【迷宮管理】の交渉モードを信じていた。スキルが状況を読んでくれる、スキルが相手の言葉を整理してくれる——そう思っていた部分があった。
でも今日、スキルなしで話を聞いた。
怒っている人間に「話を聞いていいか」と声をかけた。答えを急がずに待った。向こうが言いにくそうにしているとき、続きを問いかけた。それだけだ。
「……俺のスキルは最初からこっちだったんだな」
独り言のように、口から出た。
アルが「え?」と聞いてきた。
「何でもない」と俺は言った。「腹が減った。飯にしよう」
「は、はい」
立ち上がった俺の背中に、声がかかった。
「あの——」
振り返ると、遠巻きに見ていた村人の一人だった。三十代くらいの女性が、少し遠慮がちに立っている。
「……あなた、調停者ですか」
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