第169話「ただの旅人です」
角を曲がったあと、振り返らなかった。
振り返らないと決めていたわけじゃない。ただ足が、そのまま前に進んだ。
第七迷宮が背後に遠ざかっていく。石段のところに小さなゴブの姿が立っているはずだった。「待ってます」と言った声が、まだ耳の奥にあった。
俺は、ただ歩いた。
荷物は軽かった。着替えが二着と、野宿用の薄い毛布、それと——ゴブが渡してくれた石。第二層で拾った、ただの石。丸くて、少し白くて、特に何の力もない石。
ポケットの中で指先に触れると、少し冷たかった。
朝の空気はまだ薄く、道の両側に草が伸びていた。エルガ山脈の方角は北東。地図は持っていない。でも大きな街道を外れなければ、三日もあれば次の町に着く。
スキルが消えた今、正確な距離も気温も分からない。
ただ歩く。それだけだった。
一刻ほど歩いたところで、足が少し重くなってきた。
昨夜はほとんど眠っていない。ゴブと石段に並んで、夜が明けるまで話していた。眠る前にゴブが「先に眠っていいですよ」と言ったが、なんとなく眠れなかった。
お互いに眠れなかったんだと思う。
腹が少し鳴った。朝飯を食べていない。ゴブが「持って行きますか」と包みを出してくれたが、断ってしまった。なんとなく、何も持たずに出たかった。
「馬鹿なことをしたな」と声に出した。
誰もいない道だった。応える者もいない。
奇妙な感覚だった。この一年以上、誰かの声が常にあった。ゴブの小さな声、カイルの遠慮のない言い方、カーラの静かな言葉、フォルの水底のような響き。迷宮管理スキルが示す数値も、ある意味では声だった。
今は何もない。
風が草を揺らす音と、自分の足音だけだった。
空腹のまま一刻を歩き切ったとき、街道沿いの小さな出店が見えた。焼き芋を売っている老人が一人、石積みの台の前に座っていた。
「一つもらえますか」
老人は黙ってうなずき、包んで渡してくれた。銅貨三枚。
受け取った芋は熱くて、両手で包まないと持てなかった。皮が少し焦げていて、甘い匂いがした。
一口かじると、ほくほくとした熱が口に広がった。
「うまい」
今度はもう少し大きな声で言った。老人がちらりとこちらを見て、少し口の端を動かした。
昼を過ぎた頃、街道が二又に分かれた。
右が本道。左が山裾に沿って伸びる細い道。地図がなくても右が正解だと分かった。石畳が残っているほうが本道だ。
右に足を向けかけたとき、左の細い道の脇に人影があった。
座り込んでいる。旅人らしかった。背負い袋を膝の前に置いて、分かれ道の石標をじっと見ている。
通り過ぎようとして、やめた。
「道に迷いましたか」
声をかけると、若い男が顔を上げた。十代の終わりくらいだろう。旅慣れていない格好だった。靴が街暮らしのもので、底がすり減っている。
「……いや、迷ってるわけじゃないんですが」
「どちらへ行くんですか」
男は少し黙った。
「わからないんです」
俺は二又の石標の脇に腰を下ろした。
「聞かせてもらえますか」
男の名前はアルといった。十八歳。小さな村の出で、農家の三男だった。
「兄二人が継ぐから、俺は出てこいって言われて。でも何をすればいいのか全然分からなくて」
石標の横に並んで座りながら、アルは話した。
「ダンジョンに潜ろうかと思ったんですが、強くないし。商人の荷運びをしようとしたんですが、口がうまくないし。どこへ行っても「お前には向いてない」って言われる気がして。それで——ここで止まってるんです。もう半日」
「半日」と俺は繰り返した。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「笑えない話ですよね。情けなくて」
アルは石標の文字を見ていた。読めているのかどうか分からない顔だった。
「情けなくはない」と俺は言った。
「え」
「止まって考えてる。それは悪いことじゃない」
「でも半日ですよ。旅人が街道の脇に半日」
「俺は一晩止まってたことがある」
アルが少し驚いた顔でこちらを見た。
「一晩?」
「扉の前で。中に入るかどうか」
「それで——入ったんですか」
「入った」
「よかったんですか」
俺は少し考えた。ゴブの声が頭の中で聞こえた気がした。「ちゃんと門番だった」という言葉。カーラの「あなたに会えてよかった」という声。カイルの不器用な「礼を言うのが遅れた」という言い方。
「よかった」と答えた。
アルはしばらく沈黙した。
街道を荷馬車が一台通り過ぎた。遠くで鳥が鳴いた。
「俺、どっちに行けばいいですかね」
「わからない」
「——わからないって言うんですか」
「右の本道に行けば次の町がある。左の山裾道に行っても、集落がある。どっちが正解かは、行ってみないと分からない」
「そんなの……」
「まあ、聞いてから判断しよう」
アルが首を傾けた。「それ、何ですか」
「口癖です」
「どういう意味ですか」
「先に決めなくていい。まず行って、聞いて、それから考える。行き先が分からなくても、一歩踏み出してから考えればいい」
アルは石標と右の道と左の道を見比べた。
「一緒に来てもらえますか。右の道」
俺は立ち上がった。
「いいですよ」
アルが立ち上がり、背負い袋を背負い直した。少しよたついたが、足はちゃんと道を向いた。
並んで歩き始めると、アルが少し緊張した様子で口を開いた。
「あなた、強そうですね。ダンジョン攻略者ですか」
「違います」
「じゃあ商人?」
「違います」
「冒険者?」
「違います」
アルが少し考えてから聞いた。
「——あなた、何者ですか」
石畳の道が続いていた。エルガ山脈の方角に、雲が一つゆっくり流れていた。
俺は答えた。
「ただの旅人です」
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