第168話「旅立ちの朝」
「寒いですね」
ゴブが小さく言った。
夜明け前の空は、まだ暗い。東の端がほんのわずかに白んできたかどうか——そのくらいの時間だった。
星が、少し減った。
俺は石段の上でひざを抱えたまま、それを眺めていた。隣でゴブも同じ姿勢でいる。昨夜からずっとそうだった。語り合ったこと、黙って並んでいたこと、それが区別なく続いていた。
「そうだな」
息が白くなった。
六月の夜明けでも、山の近くは冷える。迷宮の入口から漏れ出してくる空気は特に底冷えがして、指の先がじんじんとしていた。でも立つ気にはなれなかった。
ゴブが両手で果実水の入った木杯を持っていたが、もうとっくに中身はなかった。それでも手放さずに持っている。なんとなく、それが手持ち無沙汰でない証拠のように見えた。
「星が減りました」
「ああ」
「夜明けが来ると、星は減りますね。なくなるわけじゃないのに、見えなくなる」
ゴブが独り言のように言った。
俺は何も返さなかった。
ゴブがその先を言わなかったのは、その先を言いたくないからじゃないと思った。言う必要がないから言わなかっただけだ。俺もそういうことを、この一年で少しずつ覚えた。
東の空が、少しずつ明るくなっていく。
ドランの話を、昨夜ゴブから聞いた。
「来てくれた者をちゃんと待っていること——それが門番だ」と、ドランは言い残したらしかった。三百年間、それを信じて、あの第十七層で一人でいたのだという。
それを聞いたとき、俺は何も言えなかった。
何か気の利いたことを言う必要もなかった。ただ受け取った。ドランが三百年かけて辿り着いた言葉を、ゴブが俺に渡してくれた。それだけで、十分だった。
俺は立ち上がった。
荷物は、壁際に置いた小さな袋一つだった。
着替えが二着。硬貨が少し。それから、カーラが渡してくれた地図と——ゴブが昨日の夕方に持ってきた、小さな石。
「迷宮の石です」とゴブは言っていた。「特別な石じゃないです。ただの第二層の石。でも、俺が拾ったやつ」
特別じゃない石を、大事そうに渡す。
受け取って、袋の底に入れた。
袋を背負うと、思ったより軽かった。スキルを持っていたころは、常に何かを抱えているような感覚があった。数値が、状態が、気になることが、常に頭の片隅にあった。今はそれがない。ただの布袋が、ただの重さで背中にある。
軽い。
ずっと、こんなに重かったのか——とは思わなかった。重かったのは知っていた。でもそれが当たり前になっていたから、軽くなって初めてわかることもある。
袋の紐を握り直した。
ゴブが外の石段から「準備、できましたか」と声をかけてきた。
「できた」
扉を開けると、夜明け前の冷たい空気が一気に入ってきた。
ゴブが迷宮の扉の前に立っていた。
俺が近づくと、ゴブは少し横にずれた。扉の前を空けてくれたのでなく、並ぼうとしたのだと気づいた。二人で並んで、夜明けの空を見た。
地平線の向こうに、エルガ山脈の稜線がうっすらと見えてきた。あそこを越えたところに、次の街がある。何があるかは知らない。誰に会うかも知らない。
「また来るか」
ゴブが聞いた。
「来る」
「本当に?」
「本当に」
少し間があった。
「でも次は——普通の旅人として」
俺がそう言うと、ゴブは下を向いた。少しだけ。自分の足の先あたりを見て——それから顔を上げた。
「待ってます」
「わかった」
「……待つのは、得意になりました」
ゴブが静かに言った。
得意になりました、という言い方が、少し引っかかった。
最初にゴブが俺の扉をノックしてきたとき、ゴブは怖かったはずだ。仲間たちのために助けを求めに来るほど追い詰められていた。あの頃のゴブに「いつか、待つのが得意になる」と言っても、信じなかったと思う。
でも今、ゴブは本当にそう言っている。
「ドランが教えてくれたんですよ」と、昨夜ゴブは言っていた。「ドランは三百年、待ってた。でも苦しかった言ってた。それが……来てくれた人がいたから、よかったって。俺はそれを聞いて、思ったんです。待つことって、諦めることじゃないんだって」
「そうだな」と俺は答えた。
「来てくれる人を信じながら待てるなら、ひとりじゃないかもしれないって」
あのとき、ゴブはそう言った。
今それを思い出しながら、俺はゴブの横顔を見た。夜明けの光が少しずつ強くなってきて、迷宮の石壁が橙色に染まっていく。ゴブの緑がかった肌が、その色に照らされて、少し違う色に見えた。
「ゴブ」
「はい」
「ドランのこと、ちゃんと覚えておいてやれ」
「……はい」
「フォルのことも」
「はい」
「お前のことを覚えている人間が、外にもいる」
ゴブはしばらく黙っていた。
「知ってます」
そう言ったゴブの声は、少し低かった。震えてはいなかった。
「泣かないんですか」と、ゴブが聞いた。
「……そういうやつじゃない」
「俺もそう思ってました」
ゴブがわずかに笑った気がした。確認する前に正面を向いた。
「でも——ちょっとだけ、惜しいですよね」
「そうだな」
「それでいいと思います」
俺は袋の肩紐を握り直した。
「行く」
「はい」
「元気でやれ」
「レンも」
それだけだった。
余分な言葉は、要らなかった。
一歩、踏み出した。
振り返らないと決めていたわけじゃない。ただ、振り返る必要がなかった。
背中の先にゴブがいることは、わかっていた。あそこに立って、見送っているのはわかっていた。エルガ山脈の方角に向かって歩き始めながら、俺は足元の土を踏みしめた。
朝の土は、まだ少し湿っていた。
靴底から伝わる感触が、確かに地面だった。スキルの数値じゃない。ただの土の感触。
旅人として、歩く。
何も特別なことじゃない。
でも今日からは、これが俺の仕事だ。
道の先に、次の街がある。見知らぬ人間がいる。聞いたことのない話がある。スキルがなくても——聞くことはできる。最初からできた。ゴブが扉をノックした夜から、ずっとそうだった。スキルは使い方を教えてくれたが、聞くこと自体は、俺がやっていた。
道が曲がっていた。
その角を曲がれば、第七迷宮は見えなくなる。
俺は歩く速度を変えなかった。角まで来た。そこで——自然に、足が止まった。
止まるつもりじゃなかった。
ただ止まった。
次にどこへ行くのか。どんな話を聞くのか。どんな人間に出会うのか。何も決まっていない。地図はある。でも地図に書いてあることが全てじゃない。地図に書いていない場所に、大事なものがあることを、俺は知っている。
冷たい朝の風が、通り過ぎた。
「——まあ、聞いてから判断しよう」
誰に言うわけでもなく、呟いた。
もう一度、足を踏み出した。




