第167話「よかった、という言葉」
「何が?」
ゴブの問いが夜気の中に浮いた。
石段の冷たさが、腰から伝わってくる。ずいぶん長く座っている。第七迷宮の入口に並んで腰を下ろしたのは日が落ちてすぐだったから、もう二時間は経つかもしれない。
俺は少し考えた。
答えは最初からわかっていた。ただ、言葉にするのに、少しだけ時間が要った。
「聞いてきたことが。全部」
ゴブが動かなかった。果実水の入った木椀を両手で持ったまま、俺の横顔を見ている気配がした。
「全部……」
「最初を思い返してみろ。ゴブ、お前が扉をノックしてきた夜。俺は扉を開けて、話を聞いた。あれが最初だった」
「覚えています」
「それから、第二十三層の話を聞いた。ヴォルトの事情を聞いた。セルディン議員が怖いと言った話を聞いた。カーラが部下を失ったと打ち明けた話を聞いた」
夜風が一度だけ吹いた。草と土の臭い。
「ドランの願いを——聞けた」
ゴブが小さく息を吸った。
「フォルが「悪くなかった」と言ったのも、聞いた。カイルが「扉を開ける側になる」と言ったのも。お前が「なります」と言ったのも」
そこで止めた。
「全部、聞いてきた。よかったかどうかは——聞く前にはわからなかった。でも聞いてから判断した。全部——よかった」
ゴブはしばらく黙っていた。
木椀を膝に置いて、両手を膝の上に合わせた。そういう仕草が、人間みたいになった。最初に扉をノックしてきたときのゴブは、もっとおどおどしていた。視線も定まらなかった。今のゴブは落ち着いている。自分の重さを知っている者の座り方をしていた。
「俺も——よかったです」
静かな声だった。
「来てくれてよかった。聞いてくれてよかった」
続きを言うかどうか迷っているような間があった。
「最初に扉をノックしたとき、聞いてもらえると思っていませんでした。試しに叩いてみただけだった。もしかしたら——槍で刺されるかもとも思っていた」
「そうだったのか」
「言えませんでした。言ったら信用を失うかと思って」
ゴブが短く笑った。低くて静かな笑い声だった。
「でも、レンは聞いてくれた。扉を開けてくれた。それから——全部変わった」
石段が足の裏から体温を奪っていく。
長く座っているせいで、膝の裏が痺れ始めていた。体を少し動かして、足を伸ばした。
空を見た。雲がなかった。こんなに星があったか、といつも思う。第七迷宮の近くは街明かりが少ない。だから星がよく見える。それが今夜は——やけに近く感じた。
「ゴブ」
「はい」
「ドランのことは、今も夢に見るか」
「……はい。時々」
「どんな夢だ」
ゴブが少し考えた。
「迷宮の奥で、ドランが石板に何か書いています。俺が「何を書いているんですか」と聞くと、振り返って「お前への手紙だ」と言う。でも字が読めない。目が覚める前に内容がわからない。そういう夢です」
「読めなくてよかったのかもしれない」
「なぜですか」
「読めたら、夢じゃなくなる。読めないから、また夢で会いに行ける」
ゴブが「……そうかもしれません」と呟いた。
「ドランが——何か言っていたことは、あるか」
俺は問いを続けた。
「俺がいないところで。お前だけに話したこと」
ゴブが少し時間をかけた。木椀の底を指でなぞる音がした。
「……ひとつだけ、あります」
「聞かせてくれ」
「ドランが言ったんです。ずいぶん前に。俺がまだ、この迷宮の意味をよくわかっていなかった頃に」
ゴブが息を吸った。
星を見ながら言った。
「『来てくれた者を、ちゃんと待っていること——それが門番だ』って」
俺はその言葉を、すぐには受け取れなかった。
胸のどこかに、ゆっくり落ちていく感じがした。沈んでいくのに、重くない。むしろ——軽くなっていくみたいだった。
何かが解けた。
三百年間、ドランは迷宮の深部で一人で待ち続けた。誰も来なかった時代が、ほとんどだった。それでも待った。
「来てくれた者を、ちゃんと待っていること」
声に出して繰り返した。
「そうです。ドランはそれを——ずっとやっていたんだと思います。俺が来たときも、待ってた。レンが来たときも、待ってた。三百年間、ずっと」
ゴブの声がわずかに揺れた。
「俺は、それが今夜——わかった気がします」
石段に、夜露が降り始めていた。
袖が少し湿った。冷える。でも立つ気になれなかった。
「俺も——今ならわかります」
ゴブが続けた。
「レンが来てくれた。聞いてくれた。そのことを、ちゃんと待てていたか——最初はわかっていなかった。ただ必死で助けを求めていた。でも今は」
「今は?」
「来てくれる人を、ちゃんと待てる気がします。今日来る人も、明日来る人も。一年後に来る人も。もしかしたら——ずっと来ない人も」
「ずっと来なくても待てるか」
ゴブが少し考えた。
「……ドランが待てたなら、俺も待てると思います」
「そうだな」
「はい」
風が止まった。
完全な静寂が来た。迷宮の周りは夜になるとこうなる。獣の声もしない。虫の音だけがある。
俺は空を見た。
名前を知らない星がたくさんある。名前を知らなくても、ずっとそこにある。見ていなくても、そこにある。
「まあ、聞いてから判断しよう」
気づいたら声に出ていた。
ゴブが「え?」と振り向いた。
「いや——口から出た」
「口癖ですね」
「そうだな」
「最初に聞いたとき、変な言葉だと思いました。「聞いてから」って——当たり前じゃないかと。聞く前に判断したらただの思い込みじゃないか、と」
「……それ、俺に言ったことあったか」
「言っていません」
「なぜ」
「言うほどのことでもないと思ったので」
俺は少し笑った。
「今は?」
「今は——いい言葉だと思います。ちゃんと」
「なぜ変わった」
ゴブが迷宮の門を見た。
「だって、本当にそうだから。聞いてから判断する。それだけで——こんなに変わりました。世界が、こんなに変わった。俺も——こんなに変わった」
「レン」
「なんだ」
「お前は、いい門番だったか」
問いの形が変わった。「よかったか」ではなく、「いい門番だったか」という問いだった。
俺は少し考えた。
「俺は——門番としては、普通だった。迷宮の扉を守るという意味では、たいしたことをしていない。一度も剣を抜かなかったし、魔物を倒したこともない」
「そうですね」
「でも——聞くことは、した。来る者に、扉を開けた。それはやった」
ゴブが「はい」と言った。
「それが——ドランの言う「ちゃんと待っていること」だったなら、俺は門番だったのかもしれない」
「そうです」
ゴブは即答した。
「レンは、門番でした。ちゃんと」
また沈黙が来た。
今度の沈黙は、もっと深かった。嫌な沈黙じゃない。しゃべり終わった後に残る静けさとも違う。もっと大事なことが胸の中で落ち着いていくのを待っている、そういう沈黙だった。
石段は冷たい。足の感覚がかなり鈍くなっていた。
それでも立つ気になれなかった。
星がある。
ゴブも動かない。
どちらも動かないまま、夜の中に二人だけがいた。
「——よかった」
どちらが先に言ったかわからなかった。
気づいたら、同じ言葉が夜に重なっていた。
しばらく経って、ゴブが小さく言った。
「レンは——明日、本当に行くんですね」




