第166話「ゴブとの最後の夜」
夜が深くなってから、ゴブが言った。
「今夜は——外で飲みませんか」
差し出してきたのは、木の椀二つ。中身は迷宮産の木の実から作った薄い果実水で、アルコールはない。酒でも何でもない。それでもゴブは両手でしっかり持っていた。
「いいな」
俺は椀を受け取って、第七迷宮の入口の石段に腰を下ろした。ゴブが隣に並ぶ。小さな体だった。最初に会ったとき、俺はゴブの身長がこんなに低いとは思わなかった。暗闇の中で、声だけが大きかったから。
空には星が出ていた。
雲もなく、風も止んでいた。
夜の冷気が足元から上がってきた。石段は昼間の熱を完全に失っていて、座っていると尻が冷たかった。それでも立つ気にはならなかった。
しばらく、何も言わなかった。
ゴブが椀を両手で包んで、空を見ていた。俺も同じように空を見ていた。遠くで虫の音がしていた。迷宮の内側からは何も聞こえなかった。静かな夜だった。
「レン」
「ん」
「ドランも——いつかいなくなりましたよね」
ゴブの声は、静かだった。問い詰める調子でもなく、ただ確かめるように言った。
「そうだな」
「俺——最初は、怖かったんです。ドランがいなくなったとき。迷宮がなくなるのが怖いんじゃなくて、ドランがいなくなることが怖かった。あの声が聞こえなくなることが」
「わかる」
「でもドランは——「よかった」と言いましたよね。最後に」
「言ったな」
俺は椀の縁に指をかけて、果実水を少し飲んだ。薄い甘さが舌に広がって、すぐに消えた。
ゴブが迷宮の入口を見た。重い扉が、月明かりの中に黒く立っていた。
「ドランが「よかった」と言ったとき、俺——信じていいのかわからなかったんです。苦しかったんじゃないかって。長くて、孤独で、ずっと一人で待っていたのに」
「でも」
「でも——」ゴブが言葉を止めた。「最後に話せた、って言ってました。三百年で初めて、って。だからたぶん、本当のことを言ったんだと思います」
「そうだな」
「よかった、というのは——本当のことだったんだと思います」
ゴブが空を見上げた。星を数えるように、しばらく黙っていた。
「俺たちも——いつか、そう言えますかね」
風がなかった。
虫の音だけが続いていた。
「どういう意味だ」
「俺と、レン。どちらかがいなくなるとき」ゴブが言った。「「よかった」って、言えるかなって」
俺は答えなかった。
正確には——すぐには答えられなかった。
ゴブの言葉が、思ったより深いところに届いた。ドランの声を思い出した。あの静かな低さ。三百年間、誰にも聞かれなかった声。レンが来たことは悪くなかった、とフォルが言っていた。「待つ者」という名前を選んだフォルの声。カーラが「あなたに会えてよかった」と言ったときの目。カイルが「扉を開ける側になる」と言ったときの顔。
全部が、一晩の中にあった。
「レン」
「ん」
「レンも——よかったですか」
ゴブは俺の顔を見なかった。空を見たまま聞いた。答えを急かさない聞き方だった。それがゴブのやり方だった。いつの間に覚えたのか、ゴブは待てるようになっていた。
俺は椀を石段に置いた。
石の冷たさが手のひらに残った。
体の奥の方から、何かが言葉になろうとしていた。うまく言えるかわからなかった。でも言わなければならないような気がした。この夜に、このゴブに、言わなければならないものがあった。
「——よかった」
俺は言った。
ゴブが動いた。俺の方を向いた。
星明かりの中で、ゴブの目が光っていた。
「何が?」
夜風がなかった。
迷宮の扉が黒く立っていた。
空には星があった。




