第165話「まあ、聞いてから判断しよう」
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スキル石を返す前に、もう一度だけ使わせてほしいと頼んだ。
カイルは「わかった」とだけ言って、石を俺の手に置いた。何も聞かなかった。それが今のカイルのやり方だと、俺はもう知っている。
第七迷宮の入口から少し離れた場所に、岩が一つある。座るのにちょうどいい高さで、いつの間にか俺の定位置になっていた。ゴブがたまに並んで座る、あの岩だ。
今朝は一人で座った。
石を握ると、手のひらにわずかな温もりが広がった。スキルを失った今では、これが唯一の接続手段だ。目を閉じると、向こう側の気配が薄く滲んでくる。
「聞こえるか」
少しの間があった。
風が一度、葉を揺らした。
『……聞こえる』
声、というより、意味が直接届く感覚。外から来るものとの交信は、いつもそうだった。言葉の形をしているが、言葉ではない何かが先に来て、それが後から言葉に変換される。
「最後の挨拶をしに来た」
『最後』
一語だけ返ってきた。問いでも拒絶でもない。ただ確認するように。
「俺はここを離れる。次に来るときは、スキルも持たないただの旅人として来る。カイルがスキルを持っている。もう俺を通さなくてもいい」
沈黙が続いた。十秒か、三十秒か、測っていなかった。
外から来るものとの沈黙には、重さがある。ただ空白なのではなく、向こう側で何かが動いているのが伝わってくる。考えているのか、感じているのか、それとも別の何かをしているのか——俺には最後までわからなかった。
『……それでいい』
「そう言ってくれると助かる」
『お前は、戻ってくるか』
「まあ——聞いてから判断しよう」
その言葉が口から出た瞬間、向こう側の気配が少し変わった。
揺れた、という感じではない。凪いだ、という感じに近い。
そして少し間を置いてから、向こう側が返してきた。
『——まあ、聞いてから判断しよう』
同じ言葉だった。俺が最初に向こう側から聞いたとき——第140話でそれを聞いたとき——あの衝撃はまだ体に残っている。でも今日のそれは衝撃ではなく、もっと静かな何かだった。
答えとして使っている。
外から来るものが、この言葉を「答え」として使っていた。
俺はしばらく黙っていた。
「……そうだな」
それしか言えなかった。でもそれで十分だった気がする。
『次に来たとき』と向こう側が続けた。『名前を持っているかもしれない』
「楽しみにしている」
『名前というものは——重いか』
予想していない問いだった。
俺は少し考えた。膝の上に置いた左手を見た。節の目立つ、どこにでもある手だ。スキルが消えた今でも、変わりなくそこにある。
「重くはない。でも——持ち歩くものだとは思う」
『持ち歩く』
「そうだ。どこに行っても一緒に来る。捨てられない。それが名前だ」
また沈黙があった。
今度は短かった。
『それは——悪くない』
「そうだな」
岩から立ち上がった。
膝が少し固まっていた。朝の空気はまだ冷たくて、息が白くなった。荷物はもうまとめてある。今日出発する、と昨夜ゴブに告げた。ゴブは「わかりました」と言って、それ以上何も聞かなかった。
入口のほうに歩きながら、もう一度だけ石を握った。
「一つだけ聞いていいか」
『聞け』
「俺がいなくなって、困るか」
沈黙。
今度は長かった。
でも答えが来た。
『……困らない。困り方を、覚えていないだけかもしれないが』
俺は少し笑った。口の端が上がっただけだが、笑った。
「それはそれで、困ったな」
『そうだ』
「まあ——」
俺が言い終わる前に、向こう側が続けた。
『——聞いてから判断しよう』
「そうだな」
交信は、そこで自然に終わった。切った、という感覚ではない。向こう側がそっと手を離したような、そういう終わり方だった。
スキル石を手の中で転がした。表面が少し温かかった。これはカイルに返さなければならない。カイルの迷宮管理スキルと連動している石だ。俺が使い続けるものじゃない。
でも、もう少しだけ、握っていた。
「終わりましたか」
ゴブが入口の脇に立っていた。
いつからいたのか。気配に気づかなかったのは、俺のスキルがないからかもしれないし、ゴブが上手くなったからかもしれない。どちらでも構わなかった。
「終わった」
「向こうは——何か言いましたか」
「名前を決めると言っていた」
ゴブが少し考える顔をした。黄緑色の肌に、朝の光が当たっている。最初にこいつが俺の扉をノックしてきた夜から、もう何年が経つだろうと、ぼんやり思った。
「いい名前になるといいですね」
「そうだな」
「フォルの「待つ者」みたいに」
「ああ」
ゴブが入口の石柱に手を当てた。それは門番が迷宮の状態を確認するときの仕草だ。いつの間に覚えたのか——いや、俺がやっていたのを見ていたのだろう。
「第四層まで、静かです」
「そうか」
「今日は——いい日だと思います」
出発の日に、そう言ってくれた。
俺はカイル石をポケットにしまった。王都に向かうカイルに郵便で送り返すことになっている。昨日その話をしたとき、カイルは「直接持ってくればいい」と言いかけて、止まった。「……まあ、郵便でいい」と続けた。
それがカイルのやり方だと、俺は思った。
「行く」
「はい」
「また来る」
「待ってます」
それだけだった。
長い別れの言葉はいらなかった。ゴブはそれを知っていて、俺もそれを知っていた。
第七迷宮の入口から、道に出た。
振り返らなかった。
足の裏に石畳の感触があった。荷物は思ったより軽かった。スキルがなければ、体も軽い。守るものが減った分、軽くなったのかもしれないし、そうではないかもしれない。
「まあ、聞いてから判断しよう」
呟いたのは、癖だった。
返事をする人間は、今この道にいない。
でも、その言葉は俺の口から出て、朝の空気の中に溶けた。
遠くからゴブの声が聞こえた気がした——聞こえなかったかもしれない。でも、聞こえた、ということにした。
歩いた。
道は真っ直ぐで、先は見えていた。
その夜、宿の帳簿に名前を書いた。
「ご職業は」と宿の主人が聞いた。
「旅人です」
「どちらからお越しで」
「第七迷宮の近く、から」
主人が少し首を傾けた。「あそこに——なんか、ゴブリンの門番がいるって聞きましたが」
「います」
「会ったことがあるので」
「あります」
主人が「へえ」と言って、帳簿を閉めた。「いい門番らしいですね」
「そうです」
俺は答えた。
「いい門番です」
ポケットの中でスキル石が、もう温もりを持っていなかった。
明日、郵便に出す。
あとは——まあ、聞いてから判断しよう。
次の話が、どこかで待っているだろう。それでいい。
翌朝、宿を出る前に、窓から空を見た。
どこまでも続く青だった。
ふと思った。外から来るものは、名前を決めたら何と呼ばれるのだろう。「来た者」か、それとも別の何かか。
まあ——
「聞いてから判断しよう」
宿の主人が通りかかって、「何かおっしゃいましたか」と聞いた。
「いえ」
俺は荷物を肩にかけた。
「独り言です」
【フォルからの通信が、カイルのスキル石に届いていた。その内容をカイルがレンに転送するのは、三日後のことだった。】
「また来るか」




