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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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第164話「待つ者」

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カイルのスキル石を借りるのは、朝のうちに済ませることにしていた。


「返さなくていい」とカイルは言っていた。「どうせ俺もいつでも繋げるんだから」


ぶっきらぼうな渡し方だったが、小さな石の中にカイルのスキルの残滓がある。フォルへの経路が開いたまま引き継がれている、と彼は説明してくれた。


「期限は?」


「ない。使いたいときに使え」


そうして今朝、俺は第七迷宮の壁際の石段に腰を下ろし、石を手のひらに乗せていた。


ゴブはすでに門の前に立っている。今日から旅に出る俺の出発に合わせて、珍しく早起きしてきたのだ。背中が小さく見える。でもあの背中が、今は確かに迷宮の入口を守っている。


俺は石を握り直した。



 



「フォル、聞こえるか」


応答まで少し間があった。


カイルのスキルを通じた接続は、俺が直接持っていたころとは少し感触が違う。声が届いている、という確信だけがあって、場所の感覚がない。どこかに飛んでいるのか、それとも迷宮全体に染み込んでいるのか、わからない。


『……レン』


低く、落ち着いた声だった。フォルの声は最初からそうだ。三百年間、第七迷宮の核として存在し続けた重さが、言葉の一つひとつに沈んでいる。


「久しぶりだな」


『カイルからも聞いた。今日、旅に出るのだと』


「ああ」


短い沈黙があった。


俺は続ける前に一度、空を見た。夜明けを少し過ぎたばかりで、空の端が白みかけている。遠くに鳥の声がした。


「俺の声が届くのは、今日が最後かもしれない。カイルを通じれば繋がれるかもしれないが——それは俺の声じゃなくなる」


『そうだな』


「だから今朝、話したかった」


フォルはすぐには答えなかった。代わりに、何かが動く気配が伝わってきた。石の中で、ではない。もっと深いところ、迷宮の基底部で何かが動いている。


俺はそれをただ感じていた。


かつては【迷宮管理Lv.9】が数値で示していたものが、今は何もない。感じているのか、気のせいなのか、区別がつかない。それでも何かがある、という確信だけはあった。


スキルがない。でも、聞こえている。


『……名前を決めた』


フォルが言った。


俺は石段の上で少し前のめりになった。


「名前?」


『お前が来てから、ずっと考えていた。俺たちには名前がなかった。ドランもそうだった。迷宮の核というのは、名前を必要としない——そう思っていた』


「ああ」


『だがお前と話して、名前があるというのがどういうことか、少しわかった気がした。呼ばれると、応じられる。それだけのことなのに——それだけのことが、三百年なかった』


俺は黙って聞いた。


先を促す必要はない。フォルは自分のペースで話す。それでいい。


『「待つ者」だ』


静かな声だった。


俺は石を握ったまま、しばらく動けなかった。


待つ者。


ゴブが門の前に立っている。カイルが各地の迷宮に出ていく。外から来るものが封印の向こうで存在している。そして俺は今日、ここを離れる。


「……いい名前だ」


正直にそう思った。飾り気がない。でもそれがフォルらしい。


「俺も——門番だったときは、待っていた」


言ってから、それが本当だと気づいた。


夜が来るのを待って、誰かがノックするのを待って、話が始まるのを待っていた。待つことが、俺の仕事のほとんどだった。


『知っている』


フォルが静かに言った。


『だから、その名前にした』


俺は石段から立ち上がれなかった。足の裏が冷えている。朝の石段というのはこんなに冷たかったか、と思いながら、それでも立ち上がれなかった。


待っていた、とフォルは言わなかった。でも「知っている」と言った。それが答えだった。


「……そうか」


俺はやっとそれだけ言えた。



 



「フォル、一つ聞いていいか」


『聞け』


「三百年間、ここにいて——よかったか」


これは前にゴブにも聞いたことだ。ドランにも、間接的に問うたことだった。でもフォルには直接聞いたことがなかった。


今日が最後かもしれない。だから聞く。


まあ、聞いてから判断しよう——この口癖は、聞かないことへの怠慢に対する自戒として生まれたのかもしれない、と俺は最近思っている。聞かないままにしておけることは、聞いておけばよかったになる。


だから聞く。


フォルは少し沈黙した。


『よかったかどうか——お前に聞かれるまで、考えたことがなかった』


「そうか」


『三百年、ここにいた。出ることもできなかった。ドランが消えて、残ったのは俺だけだった。それが苦しかったかどうかも——比べるものがなかったから、わからなかった』


「わからないまま、ここにいたのか」


『ああ。だがお前が来て——話を聞いてもらってから、少しわかった気がする』


フォルの声が、わずかに変わった。温度が違う、というより、距離が変わった。遠くから話していたものが、少しだけ近くなる感じ。


『よかったかどうかはまだわからない。だが——悪くはなかった』


「そうか」


『お前が来たことは——悪くなかった』


俺はしばらく黙っていた。


「俺も悪くなかった」


嘘じゃない。怖かった夜も、無視された朝も、うまくいかなかった交渉も全部ひっくるめて、悪くなかった。


石段に座ったまま、俺は空が白んでいくのを見ていた。


鳥の声がまた聞こえた。今度は複数だった。


「フォル、もう一つ」


『何だ』


「カイルを——頼む」


言ってから少し恥ずかしくなった。カイルはもう俺より上手く話せる。俺に頼まれるまでもない。でも言った。


フォルが小さく笑ったような気がした。声ではなく、接続の空気が少し緩んだ。


『お前に言われるまでもない。あいつはすでに聞いている』


「そうだな」


『だが——伝えておく』


「ありがとう」



 



少し間があって、フォルが言った。


『また来るか』


俺は立ち上がった。足の裏が石段の冷たさを感じた。荷物は小屋に置いてある。今日出発する荷物は少ない。着替えと、食料分と、それから書き物道具だけだ。


「来る」


迷わなかった。


「今度は旅人として来る。でも来る」


『……知っている』


またその言葉だった。


今度は俺も少し笑えた。


「フォル、いい名前だ。「待つ者」——似合ってる」


返事はなかった。


でも接続が静かに続いている。切れていない。フォルがまだそこにいる。


俺はしばらくそのまま立っていた。何も言わなかった。フォルも何も言わなかった。ただ、繋がっていた。


それで十分だった。



 



ゴブが振り返った。


「済みましたか」


「ああ」


「フォルは——何か言っていましたか」


俺は石を手のひらの中で転がした。カイルが使っているスキルのかけらが入った小さな石。返さなくていいと言われたが、今日旅に出たら、次にここに来るまで使わないかもしれない。


「名前を決めたそうだ」


ゴブの目が少し丸くなった。


「名前、ですか」


「「待つ者」だと言っていた」


ゴブは門の前で少し止まった。迷宮の方を向いたまま、その言葉を繰り返している。声には出していない。口の動きだけで。


「——いい名前です」


小さな声だった。


「ゴブも同じことを言うな」


「俺も同じことを思ったんです」


俺は笑った。


「フォルが——悪くなかったと言っていた」


「何が?」


「俺が来たことが、悪くなかったと」


ゴブが俺の方を向いた。


少しの間、何も言わなかった。朝の光がゴブの小さな顔に当たっている。三年前に夜の扉をノックしてきたあの夜から、あまり顔は変わっていない。でも目が変わった。臆病だが義理堅い、という印象は変わらないが、その奥に何かが増えた。


「……俺も、同じです」


ゴブが言った。


「何が?」


「レンが来たことが——悪くなかった。それだけじゃなくて、よかった。でも、同じことを言いたかったんです。フォルが言ったことと」


俺は何も言わなかった。


言えることがなかった。言う必要もなかった。


空がさらに明るくなっていた。今日は雲が少ない。旅には向いている。


「行きます」


「待ってます」


ゴブの声は、門番らしい声だった。



 



俺は歩き始めた。


荷物を拾い上げて、第七迷宮から離れる道に足を向けた。振り返らない——そう決めていたわけじゃない。ただ、振り返らなかった。


フォルの石が手のひらにある。


「待つ者」という名前が、頭の中に残っている。


三百年、ここで待っていた存在に、名前がついた。


俺も待っていた。もっとずっと短い時間だが、毎晩夜を待って、夜明けを待って、誰かが話しかけてくるのを待っていた。


待つことが仕事だった。


それが今日から変わる。


今度は俺が動く番だ。


石段の角を曲がる前に、風が来た。迷宮の方から吹いてきた風だった。


俺は足を止めなかった。でも少し、速度を落とした。


「——知っている」


フォルの声がまだ耳に残っている。


そうだろう、と俺は思いながら歩いた。


お前は三百年、全部知っていた。だから待てた。知っているから待てる。それが「待つ者」という名前の意味なんじゃないか。


まあ——今から考えても仕方ない。


「まあ、聞いてから判断しよう」


誰もいない朝の道で、俺は呟いた。


次にここに来たとき、フォルにその話を聞いてもらおう。答えを持ってこなくていい。聞いてもらうだけでいい。それで十分だ。


道の先には、まだ何があるかわからない。


カイルから石板が軽く振動した。接続ではなく、文字だ。


「——また来い」


たった三文字だった。


カイルらしい。


俺は少し笑って、石を上着の内側にしまった。


「旅人として来てみる」


返事を打ちながら、俺はまた歩き始めた。

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