第163話「扉を開ける側になる」
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カイルが来たのは、翌朝の早い時間だった。
霧がまだ残っている時間帯だ。第七迷宮の門の前、俺は荷物をまとめた小さな袋を足元に置いて、いつものように木の柵に背を預けていた。
足音でわかった。
カイルの歩き方は、昔から少し重い。
「……よう」
「ああ」
それだけで、しばらく二人とも黙った。
霧の向こうで、第七迷宮の扉がぼんやりと見えている。昨日まで、ここはずっと俺の持ち場だった。今はもう、そうじゃない。
カイルが柵に並んで寄りかかった。
「荷物、少ないな」
「必要なものしか持たない主義だ」
「昔からそうだったか?」
「昔から、何も持ってなかったからな」
カイルがそれを聞いて、少し口元を動かした。笑ったのかもしれない。よくわからない顔をする男だ、こいつは。
俺は何も言わずに待った。
こういうとき、急かさないほうがいい。カイルはいつも、自分の言葉を見つけるのに時間がかかる。それを知ったのはずいぶん最近のことだが、知ってしまったら待てるようになった。
「……礼を言うのが遅れた」
ぽつりと出た言葉に、俺は「何に対して」と返した。
「最初に——扉を、開けてくれたことに対して」
俺は少し考えた。
「扉?」
「お前が、話しかけてきたときのことだ。ゴブたちを連れてきた頃。俺はお前に言ったな、「生きてはいけるんじゃないか」って」
「覚えてる」
「あれは……悪かった」
「当時はそう思わなかったぞ」
「思わなかったのか」
「悔しかったけどな」
カイルが苦い顔をした。俺はそれを流すつもりで続けた。
「でも、お前は来ただろ。助けを求めにきた。あのとき俺に話しかけてくれなかったら、俺はお前のことを知らないままだった」
「……そうか」
「話しかけてくれてよかったと思ってる。まあ、聞いてから判断しようと思って聞いたら、そういう話だったってだけだ」
カイルがしばらく黙った。
霧が少し晴れてきて、第七迷宮の扉の縁がはっきり見えるようになった。ゴブが中にいる。今朝は迷宮の四層まで状態を確認してから戻ってくると言っていた。
「俺は、扉を開けなかった」
カイルがもう一度口を開いた。
「どういう意味だ」
「最初に——ゴブが扉をノックしたとき。俺なら開けなかった。お前は開けた。それが、全然違う」
俺は少し黙った。
正直に言うなら、あの夜のことはよく覚えている。
深夜に扉をノックされて、びくびくしながら開けたら緑色の生き物がいた。怖かった。意味がわからなかった。話を聞くなんて余裕はなかった。
それでも開けたのは、たぶん——怖いまま開けても損はないと思ったからだ。
「俺も怖かったぞ」
「でも開けた」
「まあ、損しなかったから結果的によかったな」
カイルがそれを聞いて、今度ははっきりわかるくらい笑った。
「お前はいつもそれだな」
「何が」
「「まあ、聞いてから判断しよう」とか「損しなかったからよかった」とか。感動的な話にならない」
「感動的にしようとしたことないしな」
「わかってる。それが——お前のやり方なんだと思う」
カイルがそう言ってから、霧の残るほうに目を向けた。
「俺は、扉を開ける側になる」
静かな宣言だった。
押しつけがましくも、気負いすぎでもなかった。ただ、そういう話をするときのカイルは、ずいぶん変わった。
第四迷宮に一人で行く前と、今では、同じ顔でも全然違う。
「聞いてたら、そうなるもんだな」
俺が言うと、カイルが少し眉を上げた。
「何が」
「扉を開けたくなる」
「……まあ、そうかもしれない」
ゴブが迷宮から戻ってきたのは、それから少しした後だった。
「あ、カイルさん」
「よう」
「……二人で何を話してたんですか」
「大した話じゃない」
「大した話でした」
俺とカイルが同時に言って、どちらかが正しいのか一瞬わからなくなった。ゴブがそれを見て「どっちですか」と困った顔をした。
「両方正しい」とカイルが言った。
ゴブがまた「どっちですか」と繰り返した。
「聞いてから判断しろ」と俺が言ったら、カイルがぷ、と何かを堪える顔をした。
「お前がそれを言うか」
「一番言う資格があると思うが」
「……まあ、そうだな」
ゴブが「あの——今日、レンは出発するんですよね」と確認するように言った。
「そうだ」
「カイルさんも今日?」
「俺は昼すぎに発つ。王都まで戻る」
「そうですか」
ゴブが何か言いたそうにして、やめた。言葉を選んでいる。
こいつも、最初に比べてずいぶん言葉の使い方が変わった。最初はただ必死で話していた。今は——選んでいる。
「……二人がいなくなるのは、慣れません。でも慣れなくていいと思ってます」
「なんでだ」
「慣れたら、戻ってきたときに嬉しくないじゃないですか」
カイルが「そういう考え方もあるか」と言った。
俺は何も言わなかった。
そういう考え方をするやつが、ここの門番になったんだなと思っていたから。
「一つだけ聞いていいか」
荷物を肩にかけたとき、カイルが言った。
「何だ」
「お前は——この先、何をするつもりだ」
「旅をする」
「そのあとは」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが片手で目元を押さえた。呆れているのか笑っているのか、判断がつかない。
「その答えで、お前は今日まで来たわけか」
「そうなるな」
「……なんか、腹立つな。でも、そうやって生きてきた結果がこれなんだろ」
「そうなのか?」
「自覚ないのか」
「特にない」
「最悪だ」
でも、声が柔らかかった。
カイルが俺のほうを向いた。
「また来い」
「旅人として来てみる」
「待ってる。次は——ちゃんと扉を開ける」
俺はそれを聞いて、小さく頷いた。
これ以上何か言ったら、たぶん蛇足になる。カイルもそれがわかっているらしく、それ以上は何も言わなかった。
ゴブが「私も待ってます」と付け加えた。
「わかってる」
「旅人として来てくれるなら——入場料をとるかもしれませんよ」
「取るのか」
「迷宮の見学ツアーを考えています。カーラさんに相談したら面白いと言ってくれました」
俺は「そうか」と言った。
カイルが「俺も払うのか」と聞いた。
「管理者は免除です」
「じゃあレンは」
「前・門番ということで——まあ、聞いてから判断しましょう」
俺とカイルが同時に止まった。
ゴブが「どうしましたか」という顔をしていた。
「今、それを言ったか」
「言いました」
「意識して言ったか」
ゴブが少し考えた。
「……いつから言うようになったのか、自分でもよくわからないんです。でも気づいたら言ってました。おかしいですか」
「おかしくない」
俺が言うと、ゴブが「じゃあよかったです」と素直に言った。
第七迷宮の前から離れるとき、俺は一度だけ振り返った。
ゴブが扉の前に立っている。まっすぐこちらを見ていた。
小さな体で、でもしっかりした目をしていた。
最初にあの扉をノックしてきた夜から、ずいぶん遠くに来た。
カイルは少し離れた場所でこちらを見ている。手を挙げた。俺も同じように手を挙げて、それから歩き始めた。
足元の土が、朝の湿気でわずかに柔らかい。
スキルはない。今の俺には何の数値も見えない。迷宮の状態も、知性体の動きも、封印強度も、何もわからない。
ただの人間が歩いている。
それでいいと、今は思っている。
道の先で何があるかは知らない。誰かが話しかけてくるかもしれないし、揉め事に巻き込まれるかもしれない。困っている誰かがいるかもしれない。
そのときは、聞くだろう。
何があっても、まずは——
背後で、ゴブの声が届いた。
「レン」
振り返らなかった。でも聞こえた。
「——また来てください。扉、開けて待ってます」
俺は歩きながら、右手だけ軽く上げた。
それだけで答えになると思った。
道は霧の向こうに続いていた。足の裏から地面の感触が伝わってくる。普通の、なんでもない感触だ。
「まあ——聞いてから判断しよう」
声に出したつもりはなかったが、口が動いていた。
次は、何を聞くことになるのか。
それだけが、少し楽しみだった。




