第161話「旅人として、ですね」
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「戻ってくる。でも次は——門番としてではなく」
俺がそう言うと、ゴブはしばらく黙っていた。
朝の光が迷宮入口の石壁を白く染め始めていた。昨日の夕方からずっとそうだった。ゴブは何かを聞こうとして、聞かなかった。俺もそれに気づいていて、急かさなかった。
沈黙は長くなかった。
「旅人として、ですね」
ゴブがようやく言った。
短い言葉だったが、その中に何かが詰まっているような言い方だった。確認というより、咀嚼するみたいな口調。
「そうだ」
「旅人は——泊まれますか。第七迷宮に」
「聞いたことがないな」
「私が聞かれたこともないです」
ゴブが少し首を傾けた。考えている顔だった。耳の先が朝の風に揺れた。
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺が言うと、ゴブがくしゃっとした顔をした。
笑ったのだ。
こんな顔でゴブが笑うのを、俺は初めて見た気がした。涙でも怒りでも困惑でもなく、ただの笑い。それだけで十分だと言うような、軽くて確かな笑いだった。
「来たら、聞きます。旅人の話」
「頼んだ」
昼前に農民が来た。
三十代くらいの男で、帽子を胸に抱えて迷宮入口の前に立っていた。北の畑の者だろうと俺は思った。先週も似たような格好の農民が来ていた。
「あの——門番さんは」
「ゴブです」
ゴブが前に出た。いつの間にか俺の横に並んでいた。
男は一瞬、ゴブを見て固まった。身長は俺の胸くらいまでしかない。緑色の肌。黄色い目。それが真っ直ぐこちらを見上げていた。
「……また来ました。先週話した——畑の件で」
「聞いてます。トウモロコシの畑の端を、夜中に何かが踏んでいる」
「そうです」
農民の男が驚いた顔をした。先週の話を引き継いで応じたゴブに、一瞬何か言いかけて止まった。
「ちょうど今朝、中の者と話しました。第三層の草食の群れが夜間に出口方向へ移動している。それが原因です」
「……魔物が」
「はい。ただ、あの群れは第三層の南側に食料になる植物があれば、そちらに流れます。俺が今日中に確認します。来週——同じ曜日にまた来てもらえますか。話を聞きます」
農民の男はしばらく何も言わなかった。
帽子を握った手が少し緩んだ。
「……わかりました」
男が一礼して背を向けた。草を踏んで歩いていく音が遠くなる。俺はゴブの横に立ったまま、その背中を見ていた。
「一人でできたな」
「まだ解決してません」
「最後まで聞いたから解決できる。それで十分だ」
ゴブが少し考える顔をして、頷いた。
男が村道の角を曲がる手前で、立ち止まった。
振り向いた。
「あの——」
ゴブが「はい」と答えた。
男はもう一度、帽子を握り直した。
「……あのゴブリン——」
俺のほうを向いて言いかけて、また止まった。そしてゴブに向き直した。
「いい門番だ」
それだけ言って、男は歩き出した。
今度は振り返らなかった。
俺はゴブの顔を見た。ゴブは農民の消えた道の端を、しばらく見ていた。黄色い目が少し細くなっていた。
何か言おうとして、俺はやめた。
言う必要がない言葉というのがある。
夕方、俺は荷物を確認した。
革袋一つ。着替えが二枚。水筒。地図代わりの書きかけのメモ。それだけだった。
スキルが表示される手のひらを見た。
何も出てこない。
【迷宮管理Lv.9】も、その前の数値も、今は誰の眼にも見えない場所にある。カイルの手の中にある。俺の手は、ただの手だった。
軽い、と思った。昨日も思ったし、今日も思う。
それだけでよかった気がする。
ゴブが小屋の戸口から顔を出した。
「夕飯、食べますか」
「食べる」
「多めに作りました」
「昨日も多めだったが、少なかった」
「今日は本当に多めです」
ゴブの言う多めはいつも俺の想定より少なかったが、それを言わなかった。
小屋の中に入ると、鍋の匂いがした。豆と根菜を煮たやつだ。ゴブが作れるものはいくつかあったが、これが一番うまかった。
椅子に座って、飯を受け取った。
「カイルは明日、第五迷宮に行くと言ってました」
ゴブがテーブルの向かいに座りながら言った。
「そうか」
「スキルを持ってから初めての単独行です」
「聞いてから判断するだろ」
「……そうですね」
ゴブがひとくち食べた。少しして、また言った。
「俺——先週の農民の件、実は怖かったです」
「そうか」
「最初に顔を見たとき、向こうも怖そうだったし。こっちも怖かった。でも、聞いてみたら——最初と全然違いました」
「だいたいそうなる」
「レンも——最初は怖かったですか。俺と話すとき」
鍋から豆を掬いながら、俺は少し考えた。
「扉をノックされた夜のことか」
「はい」
「怖かった。夜中に迷宮の扉がノックされたんだから」
「それでも開けた」
「まあ、聞いてから判断しようと思って」
ゴブがまた笑った。さっきとは少し違う笑い方だった。しみじみとした、長いやつ。
「それを聞けてよかった」
「俺も聞けてよかったぞ」
鍋の中で豆がゆっくり沈んだ。外で風が鳴った。そんな夜だった。
翌朝、俺は出た。
夜が明けきる前に目が覚めた。もともとそのつもりだったわけでもないが、目が覚めたのでそのまま起きた。
革袋を肩に掛けた。昨日と中身は変わっていない。地図のメモは昨夜少し書き足した。
戸を開けると、ゴブがもう外に立っていた。
「起きてたのか」
「眠れませんでした。でも、眠れないのが嫌ではなかったです」
夜明け前の空は薄青かった。迷宮入口の石が白く見えた。
「来週、農民の件の返答をしないといけない」
「するだろ」
「一人でできるか不安です」
「まあ、聞いてから判断すれば大丈夫だ」
ゴブがまた細く笑った。今度は眠そうな目のまま笑った。それがなぜかよかった。
「またな」
「待ってます」
ゴブがそれだけ言った。
俺は歩き出した。振り返らなかった。
草の上を歩く音がした。朝の湿った空気が顔に当たった。足の裏から地面の冷たさが伝わってくる。スキルは何も言わない。ただ歩いている。それだけだった。
少し行ったところで、後ろから声が聞こえた。
「レン」
俺は止まらなかった。
でも耳は聞いた。
「——あのゴブリン、いい門番だ、って言ってもらいました」
風に乗って届いた言葉だった。
俺は歩いたまま、小さく言った。
「そうだな」
返事が届いたかどうかは、わからない。




