第160話「ただの人間」
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「どんな感じだ」
ゴブが昨夜の問いを今朝も続けているような声で言った。
同じ問いを同じトーンで繰り返すのは、ゴブの癖だ。昨晩「軽い」と答えたら、ゴブはそれきり黙ってしまって、朝になっても何かを考えているような顔をしている。
「どんな感じって、さっきも言っただろ」
「昨日のじゃなくて。今日の朝の分です」
「……そうか。聞き直すのか」
俺は少し考えてから、右手を開いた。
掌の中には何もない。スキルがない手は、スキルがあった頃の手と見た目が変わらない。同じ四本の指と一本の親指で、節のあたりが少し荒れているのも同じだ。でも何かが違う。
「普通だ」と俺は言った。「スキルがない。ただそれだけ」
「普通、ですか」
「ああ。普通の人間の朝だ」
ゴブが少し首を傾けた。緑色の肌に朝の光が当たって、眼の中の色が薄い金色に見える。こいつはいつもこういう顔をして話を聞く。正面を向いて、相手の顔を見て、急かさない。
「ただの人間になりましたね」とゴブが言った。
俺は少し笑ってしまった。
「最初からそうだったんだがな」
朝飯はゴブが用意した。干し肉と豆を煮たやつで、味付けは塩しかないが悪くない。カイルはすでに王都へ戻っていて、今朝は俺とゴブの二人きりだ。
小屋の中は静かだった。
スキルがあった頃は、小屋の中にいても第七迷宮の「感触」が常にあった。第三層で魔物が動けば微かに揺れるような感覚があったし、第十七層の深部から何かが発されれば数値が変わった。それが今日の朝は何もない。
静かだ、というよりは——空白がある。
悪くはない。ただ、少し驚いている。ずっとあったものがなくなったとき、こんなにはっきりと「あったな」と気づくとは思っていなかった。
「ゴブ」
「はい」
「お前は何層まで感じられる」
「今は四層まで、はっきり。五層と六層は、なんとなく。それ以下は……まだです」
「カイルはどこまで見えると言ってたか」
「全層、だと思います。でも昨日は「見え過ぎて酔いそう」と言ってましたよ」
「そうか」
俺は豆を一粒つまんで口に入れた。よく煮えている。
カイルが新しいスキルを使いこなすには時間がかかるだろう。でもあいつはやる。確かにやる。俺よりよっぽど真剣に「受け取る」と決めた目をしていた。
「俺は……」とゴブがゆっくり言い始めた。「レンと最初に話したとき、こんなに長くなると思っていなかったです」
「俺もそうだ」
「でも——来てよかったと思ってる」
「俺もそうだ」
ゴブがまた少し黙った。この間の使い方も上手くなった。何かを考えているときに急いで言葉を出そうとしない。
昼前になって、ゴブが「一つ確認していいですか」と言った。
俺が飯の後片付けをしていると、ゴブは正面のテーブルに座ったまま、少し背筋を伸ばした。確認するときの姿勢だ。こいつが改まった話をするときは、必ずこうする。
「なんだ」
「レンは——本当に戻ってきますか」
俺は手を止めた。
干し肉の食器を片手に持ったまま、ゴブの顔を見た。黄金色の眼がまっすぐこっちを向いている。責めているわけじゃない。ただ確認している。それだけの眼だ。
でもその「それだけ」が重い。
ゴブは臆病だ。昔からそうだ。でも臆病なのに、こうやって正面から聞いてくる。自分が怖いと思ってることを言葉にできる。怖くないふりをしない。
俺はしばらく、何も言わなかった。
「まあ、聞いてから判断しよう」という言葉が口を突いて出かけたが、それはこの問いの答えではないと思った。それはこっちの言葉だ。ゴブの問いには、ちゃんと答えなければならない。
「戻ってくる」と俺は言った。「それだけは確かだ」
ゴブが小さく息を吐いた。
「……そうですか」
「ただ、今日明日じゃない。少し時間がかかる」
「どのくらい」
「わからない。半年か、もう少しか」
「半年」とゴブが繰り返した。「長いですね」
「長いか」
「長いです。でも——待てます」
その一言が、思ったよりずっと真剣な声だった。俺は食器を置いて、テーブルの前に腰を下ろした。
ゴブが「待てます」と言うのを、俺は軽く受け流すことができなかった。こいつはドランを待っていた。何百年も一緒にいた知性体が消えた後で、それでも迷宮の中に残ることを選んだ。待つことがどういうことか、俺よりよっぽどよく知っている。
「怖いか」と俺は聞いた。
「何がですか」
「一人で、っていうのが」
ゴブが少し考えてから言った。
「……最初は怖かったです。ドランがいなくなったとき。あのときは本当に、何もわからなかった。でも今は——フォルがいる。カイルのスキルを通じて話せる。来た者も、たまに声を送ってくる。それに」
ゴブが少し間を置いた。
「レンが、戻ってくると言った。それで、十分です」
俺は何も言わなかった。
ゴブの「それで十分です」には、長い歴史がある。こいつは三百年近く地下にいて、人間に追われるように生きてきた。それが今、一人の人間の「戻ってくる」という一言で十分だと言っている。
軽い言葉ではない、と俺は思った。だから軽く返してはいけない。
「お前に心配かけたくないから言う」と俺は言った。「俺が戻ってくるのは、そう決めたからじゃなくて——ここに来る理由があるからだ」
「どんな理由ですか」
「お前が門番をしてる場所を、旅人として見てみたい」
ゴブがぱちりと目を瞬いた。
「旅人として」
「ああ。今度はスキルなしで来る。ただの見物だ」
「……それは——」ゴブがまた少し間を置いた。今度の間は、嬉しさを処理している間だと俺には分かった。「楽しみです。俺、ちゃんと案内できるようになっておきます」
「頼む」
俺は改めて部屋を見回した。
七年間暮らした小屋だ。壁に染みがある。窓の木枠が少し歪んでいる。床板の端が一枚浮いている——入ったときから浮いていて、ずっと気になっていて、でも直さなかった。
明日にはここを出る。
荷物はそう多くない。着替えが少しと、ゴブからもらった小さな石が一つ。第七迷宮の第四層で取れる緑色の石で、「お守りです」と言って渡してくれた。スキルとは関係ない、ただの石だ。
「一つ聞いてもいいか」と俺は言った。
「はい」
「お前、初めて俺の扉をノックしたとき、正直に言うとどう思ってた」
ゴブが少し目を丸くした。それから、照れているような顔をした。ゴブが照れるときは鼻の先が少し赤くなる。
「……怖かったです」
「そうか」
「でも、聞いてもらえないかもしれないと思っても——聞いてほしかった。だからノックした」
「そうか」
「開けてくれましたね。すぐに」
「まあ、聞いてから判断しようと思ったからな」
ゴブがくすりと笑った。
「それ、最初から言ってましたね。レン」
「最初から言ってたな」
「俺も——今は少しわかります。まず聞く、っていうのが」
「そうか」
「農民の人が来たとき、俺も最初は怖かったです。でも聞いてみたら——怖くなかった。ただ困ってる人だった」
「そうだな」
「聞いてから判断する、っていうのは——聞く前の怖さを無くすことじゃなくて、怖くても聞けること、ですよね」
俺はしばらく考えた。
「たぶんそうだ」と俺は言った。「怖くなくなる必要はない。怖いままで聞ける、それで十分だ」
ゴブがゆっくり頷いた。
窓の外で風が吹いた。木の葉が揺れる音がした。第七迷宮の入口は見えないが、その存在を俺は体で知っている。スキルじゃなく、ここで暮らした七年間の身体が覚えている。
「レン」とゴブが言った。
「なんだ」
「ただの人間、って言ったじゃないですか。さっき」
「言った」
「でも——ただの人間だから、話が聞けたんじゃないですか。スキルがあったから聞けたんじゃなくて」
俺は少し黙った。
「……どうかな」
「俺はそう思います」
ゴブの声は静かだったが、確信があった。臆病なやつが確信を持って言うときの声は、他の声より重い。
「ゴブ」
「はい」
「お前、いい門番になる」
「なりたいです」
「なれる。確かになれる」
ゴブがまた少し目を赤くした。こいつは泣きそうになったとき目が赤くなる。でも今日は泣かなかった。それも成長だと思った。
夕方、荷物をまとめながら俺は一度だけ右手を開いた。
【迷宮管理Lv.9】は昨日カイルに移った。今日はもうスキル表示が出ない。そのことが少し不思議で、少し懐かしくて、でも——重さがない。昨日言った通り、軽い。
軽いのは悪いことじゃない。
俺はずっとこのスキルを持って、数値を読んで、交渉して、判断してきた。でも今は何もない。ただの手だ。
ただの手で、明日から歩く。
「レンは——本当に戻ってきますか」
ゴブの問いが頭の中で反響した。
戻ってくる。それは確かだ。でも今は戻るためにまず離れなければならない。離れてみて、初めてわかることがある気がした。スキルを手放して初めて「ずっと重かったのか」と気づいたように、この場所を出て初めて——何かが分かるはずだ。
窓から見える空はもう夕暮れで、雲が橙色に染まっていた。
ゴブが入口のあたりで「夕飯どうしますか」と聞いている声が聞こえた。
「ある分で作ってくれ」と俺は言った。
「干し肉と塩しかないですよ」
「それで十分だ」
「レンみたいなこと言いますね」と言いながら、ゴブが台所に向かう音がした。
俺は荷物の端を軽く結んで、壁に立てかけた。
明日だ。
でも、その前にゴブの問いにちゃんと答えなければならないことがある。「戻ってくる」と言った。それだけじゃ足りないかもしれない。
次の話は、明日の朝にする。
「レン」とゴブが台所から呼んだ。「一つだけ、聞いていいですか」
俺は「なんだ」と返した。
「戻ってくるとき——何を持ってきてくれますか」
少し間があった。
「お前が聞きたい話を」と俺は答えた。
しばらくして「それは楽しみです」というゴブの声が聞こえた。その声は、やっぱり少し泣いていた。




