第159話「——軽い。ずっとこんなに重かったのか、と思った」
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朝だった。
霧が出ていた。第七迷宮の入口付近にしては珍しい、白く低い霧で、地面と空気の境界がぼやけて見えた。
俺は小屋の前に立って、その霧をしばらく眺めていた。
特に何かを考えていたわけじゃない。ただ、今日が来たという実感が、静かに体の中に積もっていくのを感じていた。
腹が空いていた。昨夜はゴブが「特別な夜だから」と言って、迷宮産のキノコを使った汁物を作ってくれたのだが、量が足りなかった。ゴブは料理に一生懸命なのだが、どうも分量の勘が掴めていない。
それでも残さず食べた。
「起きてたんですか」
背後から声がした。振り返ると、ゴブが毛布を半分被ったまま小屋の入口に立っていた。目が赤い。寝不足か、それとも昨夜ひとりで泣いたのか、どちらかだろうと思ったが、聞かなかった。
「ああ」
「カイルは」
「まだ中だ」
ゴブが頷いて、俺の隣に来た。霧を見た。毛布が地面を引きずっていた。
「今日、ですね」
「そうだな」
短い沈黙。霧の中で、どこか遠くの鳥が鳴いた。
スキルの表示が視界の端に出ていた。
【迷宮管理Lv.9:引き継ぎ条件——全段階クリア確認済み。移管準備:完了】
数字じゃなかった。ただ「完了」という二文字が、静かにそこにあった。
俺がこのスキルを持って何年になるか、数えれば出るはずだが、今は数えたくない気分だった。
カイルが出てきたのは、霧が薄れはじめた頃だった。
短く刈った髪に寝癖がついていて、外套を肩にかけたまま欠伸をしていた。いつものカイルだった。何か特別な顔をしているわけじゃない。それが逆に、こちらの気持ちを落ち着かせた。
「飯は」
「ない」とゴブが答えた。「昨夜で使い切りました」
「……移管の日に飯なしか」
「すみません」
「お前が謝ることじゃない」
カイルはそう言いながら、俺の隣に立った。三人で並んで霧を見ていた。誰も何も言わなかった。
しばらくして、カイルが口を開いた。
「いつやる」
「今からでもいい」と俺は言った。「準備はないんだろ、お前も」
「ない。そもそも何をすればいい」
「俺が手を出す。お前がそれに触れる。スキルが判断する」
カイルが少し眉を動かした。「それだけか」
「それだけだ」
「拍子抜けだな」
「儀式みたいなものは、スキルが勝手にやる。俺たちは待てばいい」
カイルが「そうか」と言って、正面を向いた。外套の肩紐を直した。準備というか、癖のような動作だった。
俺は右手を持ち上げた。
空気が変わった。
変わった、というより、収束した、という感じに近い。霧の中の光が少し違う角度で集まるような。説明しにくいが、スキルが動いている気配がある。
カイルが俺の手を見た。触れるかどうか迷っているようだった。
「まあ、聞いてから判断しよう」と俺は言った。
「何をだ」
「スキルから来るものを。受け取ってから考えればいい」
カイルが一瞬だけ目を細めて、それから手を伸ばした。
指が触れた瞬間、
視界が——白くなった。
白、というより、何もない状態、に近い。音もない。ゴブの気配も、霧も、朝の空気も、全部が一度止まった。
そして、
【迷宮管理:引き継ぎ完了——旧管理者:レン・アシダ、新管理者:カイル・ベルグ】
文字だけが、静かに流れた。
流れた、という表現が正確かどうかわからない。でも俺には、流れていくように見えた。文字が、光が、それから——重さが。
スキルが持っていた何かが、ゆっくりと俺の手から離れていくのを感じた。
離れていく、
離れていく、
そして、
何もなくなった。
沈黙があった。
カイルが手を下ろして、自分の掌を見ていた。何かが見えているのか、それとも確認しているのか。俺には分からない。もうスキルの表示が俺の視界には出ない。
ゴブが小さく息を呑んだ。
静かだった。
霧の中の鳥が、もう一度鳴いた。
カイルがゆっくりと顔を上げた。目に何か光るものがある。泣いているわけじゃない。ただ——何か見えているんだろうと思った。スキルが見せているものが。
「……見える」とカイルが言った。
「何が」
「迷宮の、全部が」
俺は何も言わなかった。代わりに少し頷いた。
ゴブが「どんな感じですか」と小さく聞いた。カイルに向けた言葉だったが、カイルがすぐには答えなかったので、ゴブが俺の方を向いた。
「レンは——どんな感じですか」
俺はしばらく考えた。
体の中を探るように。今まであったはずのものを確かめるように。
スキルの表示は出ない。迷宮の状態を示す数値も出ない。知性体との接続もない。ゴブの位置情報も、封印層の状態も、何もない。
ただ、俺がいる。
朝の霧の中に、俺だけがいる。
「——軽い」と俺は言った。
ゴブが少し首を傾げた。
「ずっとこんなに重かったのか、と思った」
声に出してから、それが正確だと気づいた。重さに慣れすぎていて、重さだと思っていなかった。それが急になくなって、初めてわかった。ずっと、ずいぶん重いものを持っていたんだな、と。
ゴブが何か言いかけて、止まった。
カイルが掌を閉じた。
「引き継いだ」と静かに言った。断言する口調だった。「俺が持つ」
「ああ」
「使いこなせるかは、わからん」
「最初はそんなもんだ」
「お前はどうだった」
「最初は何が見えているのかも分からなかった」
カイルが「そうか」と言って、少しだけ笑った。力が抜けたような、珍しい笑い方だった。
三人でしばらく、迷宮の入口の前に立っていた。
霧はほとんど晴れていた。代わりに、薄い朝の光が石造りの門を照らしていた。古い門だ。俺が最初に来た日も、こんな門だった。もっと荒れていて、蔦が絡まっていて、誰にも整備されていない印象だったが。今は少し違う。ゴブが手入れをしている。細かい部分に、ゴブの几帳面さが出ている。
「腹が空きました」とゴブが言った。
「俺もだ」とカイルが言った。
「街まで行けば何かある」と俺は言った。
「移管の直後に街まで歩くのか」
「足の裏が痛くなるかもしれないな」
「……笑えない」
でも三人とも、少し笑った。
カイルが「今日、王都に戻る前に一つ確認がある」と言った。スキルの表示を読んでいるような目をしていた。新しい管理者として、迷宮の状態を確認しているんだろう。
「ゴブ、第三層の入口付近、何かいるか」
ゴブが少し驚いた顔をした。「……います。先週から居ついている小型の群れです。悪さはしていないので様子を見ていましたが」
「そっちが先に動く前に、話しておいた方がいいかもしれない」
ゴブが「——はい」と真面目な顔で言った。「後で行ってみます」
カイルが俺を見た。
「どう思う」
「俺に聞くな」と俺は言った。「もう俺の管轄じゃない」
カイルが一瞬固まって、それから「そうか」と呟いた。自分で判断する立場になった、ということを確認したような声だった。
「じゃあ自分で判断する」
「そうしろ」
「まあ——聞いてから判断しよう」
カイルが自分でそう言って、少し照れたような、でも本気でそう思っているような顔をした。ゴブが「カイルさんも言うようになりましたね」と感心した声で言った。
俺は何も言わなかった。ただ、少しだけ嬉しかった。
スキルのない体で、朝の光の中に立っていた。重さがない。数値も出ない。ただの人間として、ここにいる。
悪くない、と思った。
門が、朝の光を反射していた。
「レン」
カイルが呼んだ。振り向くと、カイルが真面目な顔で俺を見ていた。
「ありがとうな」
「何に対して」
「スキルだけじゃない」
俺は少し考えた。カイルの言いたいことは分かる気がする。でも言葉にするのが面倒だったので、ただ頷いた。
「俺もだ」
短い沈黙。
ゴブが「街に行きましょう」と言った。「腹が空いては何もできません」
「それはそうだな」とカイルが言った。
「それはそうだな」と俺も言った。
三人で歩き始めた。霧の晴れた、静かな朝の道を。スキルの表示は出なかった。ただ足音が、三つ分、続いていった。




