第157話「一代目は俺じゃない」
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「アシダ殿は——二代目の任命を受けますか」
カーラの声が廊下の石壁に吸い込まれていった。
冗談のつもりで言ったのだろう。口元が微かに緩んでいた。けれど俺は少しだけ考えてから、真顔で返した。
「一代目はゴブだ」
カーラが目を細めた。
「……ゴブが、ですか」
「俺は——ただの門番補佐だった」
廊下に人の気配はなかった。式典が終わって、議事堂の人間たちはもう散り始めていた。カーラだけが残って、俺の隣を歩いていた。靴底が石床を叩く音だけが続く。
「前任補佐、でしたか」とカーラが言った。「第一話にギルドの方がそれを聞いたら、何と言いますか」
「さあ」と俺は答えた。「まあ、聞いてから判断しよう」
カーラが小さく吹き出した。それで会話が終わった。
翌朝、第七迷宮に戻ると、ゴブが入口の前でせわしなく掃き掃除をしていた。
前夜に届いたカーラの書状に、昨日の式典の結果が簡潔に記されていた。俺はそれをゴブに見せた。
「正式に認定されたらしい。調停者制度の第一号として」
ゴブが箒を止めた。
「……俺が、ですか」
「そうだ」
「俺——名前もゴブのままなんですけど」
「通称で記録されてる。問題はない」
「問題はない、って言われても——」
ゴブが困り果てた顔で俺を見上げた。緑色の皮膚が、朝の光でやや青みがかって見える。黄色い目が忙しなく動いた。
「俺が一代目ですか!」
声が山側に響いた。鳥が一羽飛び立った。
俺は「そうだ」とだけ言って、小屋の扉を開けた。中に入りながら、背後でゴブがまだ何か言っているのが聞こえた。「なんで俺が」「レンの方が先じゃないですか」「いや待って記録って——」
俺はお湯を沸かすために火を起こした。
ゴブが後から入ってきた。「……本当に俺、なんですか」
「ゴブが最初に交渉した。俺より先だ」
「それは——でもあれはレンが指示してくれた」
「俺は聞いただけだ。決めたのはゴブだった」
ゴブが黙った。
俺は水を鍋に入れた。ゴブの視線が背中に刺さっているのを感じたが、振り返らなかった。振り返る必要がない気がした。
「……よかった」
小さな声だった。
俺は振り返らないまま、「そうか」と言った。
昼過ぎ、カイルが接続点の確認から戻ってきた。引き継いだスキルの調整らしい——昨日の移管以降、細かな設定がまだ馴染んでいないと言っていた。
「問題はないか」と俺は聞いた。
「数値が安定してない。【迷宮管理Lv.9:第七層——通常範囲内。ただし新規管理者適応期間中】って出てる」
「それは正常だ。一週間くらいは出る」
「……お前はもう見えないのか」
「見えない」
カイルが少しの間、何か言いたそうにしたが、言わなかった。代わりに「ゴブに会ったか」と話題を変えた。
「第一号に認定されたのを、どういう顔してた」
「困り顔だった」
「そうか」とカイルが言って、少しだけ笑った。「……俺は、あいつが一番向いてると思う。門番に」
「同意見だ」
「でも向いてる向いてないより、あいつは——聞こうとするんだな。最初から」
俺は湯呑みを渡しながら、カイルの言葉を反芻した。
向いてるとか向いてないじゃない、聞こうとする。カイルがそう言える人間になっていた。俺が何かを教えたわけじゃない。カイルが勝手に歩いていった結果だった。
ちょうどそのとき、接続点から振動が来た。
スキルが俺の手元にはない。でも空気が変わる感触は、一年以上の習慣でわかる。カイルが表示を見た。
「フォルから接続要求が来てる」
「フォルが?」
「一つ聞いていいか、と」
俺はカイルに「繋いでくれ」と言った。
カイルがスキルを操作して、接続が開いた。フォルの声は以前より少し安定していた。接続の揺れが減っている。
『——レン』
「聞いてる」
『カイルから聞いた。昨日、式があったと。調停者、という名前が正式についた、と』
「そうだ」
しばらく間があった。フォルの沈黙はいつも少し長い。何かを考えているのか、言葉を選んでいるのか、それとも単純に俺たちの時間感覚と違うのか——三百年を生きた知性体の「間」は、俺には計れない。
『一つ、聞いていいか』
「聞いてから判断する」
また間があった。今度は少し短かった。
『——「調停者」とは、お前たちの言葉では何を意味するか』
俺は湯呑みを置いた。
カイルが俺を見た。ゴブがいつの間にか入口のところに立っていた。箒を持ったままだった。
「調停者」。
俺は答えを探した。難しい言葉ではないはずだった。でも正確に言うには——少しだけ時間がかかった。
「仲裁する者、という意味が一般的だ」と俺は言った。「対立する二つの間に立って、落としどころを見つける。それが本来の意味だ」
『……俺たちの言葉に近いものがある。「橋をかける者」。だがそれとは、少し違うか』
「違うかもしれない。ゴブ、お前はどう思う」
突然話を振られたゴブが、箒を持ったまま少し考えた。
「俺は——話を聞く者、だと思ってます」
俺は「そうだ」と言った。「それが一番近い」
接続の向こうで、フォルがまた考えた。俺たちは待った。カイルが腕を組んだ。ゴブが箒を壁に立てかけた。
『……話を聞く者、か』
「そうだ」
『それは——俺たちにも、できるかもしれない。いつか』
カイルが小さく息を吸った。ゴブが目を細めた。
フォルがその言葉を言うまでに、どれだけ時間がかかっただろう。三百年の孤立を経て、封印の中で待ち続けて、レンと話して、カイルと話して、来た者と話して——それだけの時間をかけて、「いつか」という言葉を出した。
俺は「そうだな」とだけ言った。
余計なことは言わなかった。言う必要がなかった。
夕方、接続が閉じた後で、カイルが「フォルは変わったな」と言った。
「変わったか」
「最初に会ったとき——俺が第四迷宮で単独で話したとき。あのときのフォルは、言葉を疑ってた。俺が何か言うたびに、真意を確認してきた」
「今は?」
「今は——聞いてる。ちゃんと」
カイルが窓の外を見た。暗くなり始めた空が見えた。
「聞くって、教えられるもんじゃないんだな。なんとなくわかってきた」
「そうだな」
「じゃあお前は何を教えたんだ。俺に」
俺は少し考えた。
「扉を開けた」
カイルが「……それだけか」と言った。
「それだけだ」
ゴブが台所のほうから「夕飯は何にしますか」と声をかけてきた。会話が終わった。
カイルが「俺は明日、王都に戻る」と言った。「スキルの調整が落ち着いたら、また来る。第七の状態確認と、第四の報告を兼ねて」
「わかった」
「……レンは、いつまでここにいる」
「しばらくは」
「しばらく、か」
カイルが立ち上がった。出ていく前に一度だけ振り返った。
「——一つだけ聞いていいか」
「まあ、聞いてから判断しよう」
カイルが一瞬、なんとも言えない顔をした。それから「……今のは俺が聞く側だ」と言った。
俺は「そうだったな」と言った。
「フォルが——「調停者」の意味を聞いたのは、なぜだと思う」
俺はゴブを見た。ゴブが小首をかしげた。
「フォルが自分でも——そうなりたいと思ったんじゃないですか」と、ゴブが言った。「「話を聞く者」に」
カイルが頷いた。俺も同じ気がしていた。
三百年待った知性体が、今度は「聞く者」になろうとしている。
誰かに教わったわけでもなく、ただ——誰かに聞かれ続けた結果として。
「そうだな」と俺は言った。「それは確かにそうだ」
カイルが「それは確かにそうだ」と小さく繰り返した。自分の言葉を確かめるように。
扉が閉まった。
ゴブが「レン」と呼んだ。
「なんだ」
「一代目——俺、ちゃんとやります」
「わかってる」
「ちゃんとやります、って言いたかっただけです」
俺は「そうか」と言った。
夕食の匂いが小屋に広がり始めた。外の風が迷宮の石壁を渡っていく音がした。スキルの表示は、もう俺の目には出ない。でも今日だけは——何も見えなくても、十分な気がした。
ゴブが台所で鍋を叩く音がして、続けてフォルから短い接続要求が届いたとカイルのスキルが鳴った。カイルはもう出ていった後だった。
——フォルが「——「調停者」とは、お前たちの言葉では何を意味するか」と問う
次話への引き:接続要求の内容は何か。フォルが夕方に続けて繋いできた理由が、翌話で明かされる。




