第155話「まあ、聞いてから判断した」
---
翌朝、カイルは夜明け前に出た。
俺は送り出さないと言った。言った通りにした。
小屋の窓から空が白くなるのを見ながら、俺はただ待った。特に何かをするわけでもなく、湯を沸かして飲んで、杯を洗って、また湯を沸かした。
ゴブが来たのは昼を少し過ぎた頃だった。
「カイルさん、まだですか」
「まだだ」
「……緊張しますね」
「するな」
俺は椅子を引いてゴブに座らせた。向かいに自分も座る。手持ち無沙汰なゴブは指を組んで膝の上に置いた。
「カイルさん、本当に受けると思いますか」
「さあ」
「さあ、て」
「わからない。だから待ってる」
ゴブは小さくため息をついた。俺も同じ気持ちだった。ただ、口には出さなかった。
接続点は迷宮の第九層にある。往復するだけなら二時間もかからない。もう三時間近く経っている。
ということは、話しているのだ。
それだけはわかった。
ゴブが「おやつを持ってくる」と言って小屋を出た隙に、俺はスキルを確認した。
【迷宮管理Lv.9:スキル移管条件——「後継者の独立確認」進行中。完了まで:待機状態】
「待機状態」という表示を見るのは初めてだった。
カイルが動いている間、スキルも待っているらしい。
俺は杯を両手で包んで、湯の温かさを確かめた。指先に熱が伝わってくる。今朝から足の裏がじんじんしている。昨日ゴブと迷宮の外周を歩き回ったせいだ。普通の疲れが、普通に残っている。
スキルがなくなったら、こういう感覚だけが残るのだと思う。
悪くない、と思った。
ゴブが木の実を二つ手に持って戻ってきた。一つを俺に差し出す。受け取って齧ると、少し酸っぱかった。
「レン、これ美味しいですか」
「酸い」
「そうですか。俺は好きです」
「そうか」
しばらく二人で黙って食べた。
外で鳥が鳴いた。雲が少し厚くなってきた。雨になるかもしれない。
俺がそう思い始めた頃、遠くから足音が聞こえた。
規則的で、迷いのない足音だ。
ゴブが立ち上がった。
カイルが小屋の入口に立った。
息は乱れていない。表情も読みにくい。ただ、目の色が少し違った。疲れているわけではない。何か、薄い皮を一枚剥いだような顔だった。
「おかえり」
俺は言った。他に言うことが思い浮かばなかったので、それだけ言った。
カイルは椅子を引かずに立ったまま、口を開いた。
「……話した」
「うん」
「長かった」
「見てた。三時間以上だ」
カイルが小さく眉を動かした。
「そうか。そんなに経ってたか」
「来た者は何を言ってた」
カイルはしばらく黙った。答えを選んでいるのではなく、言葉を探しているように見えた。
「最初に、お前の話を聞かせてくれと言ってきた」
「俺の話を?」
「ああ。「調停者はどこから来たのか」。どういう経緯でここにいるのかを知りたがってた」
そうか、と俺は思った。「来た者」もまた、まず「聞く側」に回ったのだ。
「それで?」
「話した。お前がゴブリンの扉を開けた話とか、王都に行った話とか、ドランのこととか」
カイルはそこで一度止まった。ゴブが「ドランのこと、話してくれたんですか」と小さな声で言った。
「ああ。俺が第七に来た頃には、もういなかったが——話は聞いてる。お前の話を通じて」
ゴブは何も言わなかった。でも、耳が赤くなっていた。
カイルが続ける。
「話してたら、向こうが「お前は調停者になるのか」と聞いてきた。「わからない」と答えた。そしたら——」
カイルが少し間を置いた。
「「聞いてから判断しろ」と言ってきた」
俺は何も言わなかった。
「来た者が、そう言ったのか」と確認する必要もなかった。カイルの目を見れば、本当のことだとわかった。
「それで俺は笑った。なんかおかしくなって。そしたら向こうも、何が面白いのかわからないながら「笑ったな」って言ってきた」
カイルが自分でも笑いそうになりながら、それを収めた。
「だから俺は、まあ——聞いてから判断した」
その言葉が、小屋の中に落ちた。
静かに、確かに。
ゴブが「あ」と小さな声を出した。
俺は杯を机に置いた。
「……移管、どうする」
カイルが俺を見た。まっすぐに。
「受ける」
受ける、という言葉が出た瞬間、スキルの表示が変わった。
【迷宮管理Lv.9:移管条件——「後継者の独立確認」完了。最終移管の準備が整いました】
俺は画面を見ながら、なるほど、と思った。
条件は「カイルが一人で話す」ことではなかった。
「カイルが自分の言葉で受ける、と言う」ことだった。
スキルは、決断を待っていた。
「今すぐできるか」
カイルに聞いた。カイルは一瞬考えてから、「今日でないとだめか」と返した。
「だめじゃない。お前の好きなときでいい」
「じゃあ……明日。一晩、考えたい」
「わかった」
俺は頷いた。ゴブが「俺も——立ち会っていいですか」と手を上げた。
カイルが「当たり前だろ」と言った。
珍しいことに、カイルの声はそこだけ少し柔らかかった。
夕方、カイルが「一つ聞いてもいいか」と言った。
小屋の外で三人並んで座っていた。雨にはならなかった。空がゆっくり赤くなっている。
「なんだ」
「来た者が最後に言ってたんだが——お前も最初は怖かったか、と聞いてきた」
「怖かった。ゴブが扉をノックしてきた夜、何があるかわからなかったから」
「そうか」
カイルはしばらく黙った。
「来た者に、同じことを聞いた。「お前も最初は怖かったか」って。そしたら「怖いという概念がなかった。今は——少しわかる」と言ってた」
「それは?」
「「聞いてもらえないかもしれない、という感覚が、怖いに近いものだと今はわかる」と」
俺はそれを聞いて、少し時間が経ってから言った。
「それを言えたなら、だいぶ遠くまで来たな」
「ああ」
カイルが膝に肘をついて、遠くを見た。
「俺も——最初に第四迷宮に行ったとき、怖かった。何を言えばいいかわからなくて、黙ってた。でもお前から「黙って聞くことが答えになる場合もある」と言われて、少し楽になった」
「そんなこと言ったか」
「言った。お前はいちいち覚えてないんだな」
「重要だと思ったことしか覚えない」
「失礼なやつだ」
ゴブが「レンはいつもそうです」と即座に同意した。カイルが初めて声を出して笑った。
俺も、つられて少し笑った。
足の裏はまだじんじんしていた。日が落ちていくのを見ながら、俺は今夜は早く寝ようと思った。
明日は、スキルが手を離れる日になる。
恐ろしいとか、寂しいとか、そういう感情があるかというと——正直なところ、あまりない。ただ「明日だ」という感覚が、静かにある。
カイルが「まあ」と呟いた。
「まあ、聞いてから判断した。——結果がこれだから、悪くなかっただろ」
俺は何も言わなかった。
ゴブが「悪くなかったです」と言った。
赤い空が、少しずつ暗くなっていった。
夜、ゴブが先に小屋に戻り、カイルも宿へ向かった。
俺は一人で門の前に立った。
ここに来てから、何度この場所に立っただろう。
最初の夜、扉の向こうからゴブがノックしてきた。あの音が全ての始まりだった。
今は静かだ。
迷宮の中から、何か音がするわけでもない。風が少しある。草が揺れる音だけがする。
俺はスキルを一度確認した。
【迷宮管理Lv.9:明日の移管に向けた最終調整を行っています——カイル・ベルグへの引き継ぎを待機中】
「待機中」
口に出してみると、妙に実感があった。
俺もずっと、待ちながらここにいた。
来る者を待って、聞いて、また待った。
それだけだったかもしれない。でも、それが全部だったような気もする。
ゴブが「ドランが言っていた」と話してくれた言葉を思い出す。
「来てくれた者を、ちゃんと待っていること——それが門番だ」
明日、スキルは渡る。
俺が門番でいられるのは、あと一日だ。
まあ、聞いてから判断しよう——と俺は思った。移管した後のことは、その後で考えればいい。
門の前から離れようとしたとき、ゴブの声が後ろからした。
「レン」
振り返ると、小屋の入口にゴブが立っていた。
「……カイルさんから、さっき伝言があって」
「なんだ」
ゴブが少し間を置いた。
「「明日——スキルが渡ったら、お前は何をするんだ」って、俺に聞いてほしいって」
俺はしばらく黙った。
「……なんで俺じゃなくて、お前に聞かせるんだ」
「カイルさんが言ってました。「レンに直接聞いたら、また曖昧に答える。ゴブから聞いたら、ちゃんと答えるかもしれない」って」
俺は苦笑した。
「そうかもな」
「で——何をするんですか」
「まあ」
俺は答えた。
「聞いてから判断する」
ゴブが「それだけですか」と言いかけて、止まった。
止まって、それから笑った。
「——カイルさんに伝えます。「やっぱりそれだった」って」




