第153話「一人でできた」
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翌朝、ゴブは夜明け前から起きていた。
俺が目を覚ましたとき、ゴブはすでに迷宮の入り口の前に立って、何かを確認するように門柱の石組みを触っていた。
「早いな」
「眠れませんでした」
振り向かずに言う。耳が少し赤い。
「そういえばあの農民、今日また来るんだったか」
「……はい。返答を待たせています」
「カイルはまだ戻らない。しばらくかかるかもしれない」
「わかっています」
それだけ言って、ゴブはまた石組みに手を当てた。
俺は特に何も言わなかった。昨日の夜、ゴブには話してある。カイルが今日、接続点へ一人で行く。外から来るものと話してくる。それが終わったら、たぶん俺のスキルのことも動き出す。そういう流れになると。
ゴブは黙って聞いていた。「わかりました」とだけ言った。
それから少し間があって、「レンは——俺のことが心配ですか」と聞いてきた。
「何が?」
「農民との交渉。一人でやるの、初めてです」
まあ、聞いてから判断しよう、と俺は思った。
「話してみてから考える。でもゴブはもう充分やってる」
ゴブはそれ以上何も言わなかった。
農民がやって来たのは、昼少し前だった。
ラルク村の男で、名をコスと言った。五十がらみの、日焼けで顔が赤みがかった男だ。先日の話では、迷宮の北側斜面にある畑に魔物が毎晩入ってくるという。作物が荒らされている。何とかしてほしい。
俺が最初に受けた相談だったが、「ゴブに任せてみる」と伝えていた。コスの顔には最初から不審の色があった。
「ゴブリンに、なんとかしてもらえるとは思えないんですが」
はっきりと言う男だ。俺は特に口を挟まなかった。
ゴブが正面に立った。コスの視線と、ゴブの目が合う。
「話を、聞かせてもらえますか」
コスが眉を寄せた。「話?」
「どのくらい前から、どんな魔物が、どういうふうに入ってくるのか。知りたいんです」
「……わかった。話すよ」
コスが話し始めた。ゴブはノートを出して、書き留め始める。
三週間ほど前から。毎晩、日が落ちてから深夜にかけて。ヘビ型の魔物が三匹から五匹。実を食べるというよりは踏み荒らしている。追い払おうとすると逃げるが翌日また来る。番犬を置いても無意味だった。
俺はそれを少し離れた場所で聞いていた。
ゴブが話を聞きながら、ときどき確認の質問を挟む。「北側だけですか? 東側は?」「踏み荒らされるのは端の方だけですか?」「日が落ちてから、どのくらいで来ますか」
コスは最初こそぎこちなかったが、しだいにすらすらと答えるようになった。
一通り聞き終えると、ゴブは「少し待ってもらえますか」と言い置いて、迷宮の中に入っていった。
コスが俺のそばに来た。
「あのゴブリン、ちゃんとわかってんですか?」
「たぶん。話を聞いてきましたよ」
「迷宮の中に入っていきましたが」
「中に聞きたい相手がいるんです」
コスが黙った。
俺もそれ以上は言わなかった。
十分か、十五分か。ゴブが戻ってきた。
「確認してきました。あの魔物はたぶんルートを探しています。北側の斜面が、最近岩が崩れて通りやすくなった。それで迷宮の外の方まで出てきてしまっている。意図して畑に入っているわけじゃない。他のルートに誘導できると思います」
コスが目を細めた。「誘導?」
「畑の端に、においの強い草を置いてもらえますか。それと、岩の隙間の方に別のにおいをつけておきます。こちらから誘いかければ、夜は元のルートを使うようになるはずです。三日、試してみてください。もしうまくいかなければ、また聞かせてください」
コスが口を開けたまま、しばらく動かなかった。
「……それだけか?」
「それだけです。簡単に言えば、道を変えてもらうだけです。あの魔物たちも、好きで畑に入っているわけじゃありませんから」
コスが俺を見た。
「あのゴブリンが言ったことは、本当か?」
「さっき俺が知ったのと同時なので、本当かどうかはやってみないとわかりません。でも根拠はある話だと思います。まあ、聞いてから判断しよう、ということで」
コスは少し笑った。皮肉っぽい笑いじゃなくて、どこか拍子抜けしたような笑い方だった。
「わかった。試してみる」
「何かあればゴブに話しかけてください。この迷宮の門番です」
コスはもう一度ゴブを見た。ゴブがまっすぐ立っている。辞令に「ゴブ」と書いた、正式な門番。
「……魔物と話したのか。おまえが」
ゴブが少し背筋を伸ばした。
「はい」
コスはしばらく黙っていたが、「よろしく頼む」と短く言って、来た道を戻っていった。
コスの背中が見えなくなったところで、俺はゴブの方を見た。
ゴブは門柱に手をついて、少しうつむいていた。
「ゴブ?」
「……緊張しました」
「そりゃそうだろ」
「うまくいきましたか」
「三日後にならわかる。でも話はできてたと思う」
ゴブがゆっくり顔を上げた。
「……俺、ちゃんと聞けましたか?」
「聞けてた。きちんと確認してたし、向こうも話しやすそうだった」
「それだけじゃ、合意にならないかもしれない」
「そこから先は試してみないとわからない。でもゴブはやるべきことをやった」
ゴブがまたうつむいて、何かを考えた。
そのまましばらく黙っていたから、俺も別に急かさなかった。腹が減ったので、背嚢の中にあった固パンを取り出して少しかじった。
「……一人でできました」
ゴブが、静かな声で言った。
俺はパンを噛みながら答えた。「そうだな」
「レンがいたから、できたのかもしれない」
「いや、俺は何もしてない」
「でも——」
「本当に何もしてない。横にいただけだ」
ゴブがこちらを見た。目が少し赤い。
「それでも——いてくれてよかった、です」
俺は何も言わなかった。言う必要がなかったから。
ゴブは続けた。「俺も、調停者になれるかもしれない」
初めて聞く言い方だった。今まで「門番になりたい」とは言っていた。「調停者」という言葉をゴブ自身が自分に当てはめたのは、たぶん初めてだ。
「なれると思う」
「レンみたいには、なれないかもしれません」
「俺みたいにならなくていい。ゴブみたいになれ」
ゴブが少し考えた。
「……ゴブみたいな調停者、というのは」
「まだ誰もいない形だ。だから一番になれる」
ゴブがそれを聞いて、ゆっくりと笑った。
何か堪えているような、でも本当に嬉しそうな、そういう笑い方だった。
【迷宮管理Lv.9:移管条件確認中——最終段階の発動条件、なお未確定】
スキルの表示が視野の端に浮かんだ。
カイルはまだ戻っていない。
接続点の奥で、今ごろ何を話しているのか。外から来るものは、カイルを相手にどんな言葉を選んでいるのか。
俺には見えない。
それでよかったと思う。
ゴブが「カイルは、今日戻ってきますか」と聞いた。
「来ると思う。ただ——」
俺は空を見た。午後の光がまだ高かった。
「どんな顔で戻ってくるかは、会ってみるまでわからない」
ゴブが頷いた。
「まあ——聞いてから判断ですね」
「そうだ」
俺たちは一緒に、迷宮の入り口の前に立っていた。
風が少しあった。ゴブの耳が風に動いた。
遠くから、足音が聞こえてきた。




