第151話「スキルを渡す話」
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「カーラさん、少し時間をもらえますか」
朝の管理棟前、俺はコーヒー代わりの薬草茶を両手に持ったまま声をかけた。
カーラが書類の束から顔を上げる。目の下に薄い隈がある。昨日も遅くまで書いていたんだろう。
「今ですか」
「急ぎじゃないですが、今のほうがいい話なので」
カーラが俺の手の中の茶を見て、片方を黙って受け取った。こういうとき、余計なことを言わない人だ。それが俺はわりと好きだった。
「聞きます」
「スキルを、カイルに渡したいと思っています」
短い沈黙が落ちた。
カーラが茶を一口飲んでから、静かに言った。
「……理由を、聞いていいですか」
「俺より聞いてるから」
「それだけですか」
「それだけです」
カーラがもう一度茶を飲んだ。今度は少し長く。
「……引き継ぎの件は、管理局に確認します。正式な移管手続きが必要になります」
「そこはお任せします」
「条件は揃っているんですか。スキルのほうで」
俺は腕に視線を落とした。
【迷宮管理Lv.9:引き継ぎ条件——後継者の成立確認済み。移管まで:1段階】
「残り一段階、って出てます。何をすれば最後の段階に達するかは、まだわかってない」
「……わからないまま進めるつもりですか」
「まあ、聞いてから判断しようと思って」
カーラが小さくため息をついた。咎める感じじゃない。ただ、慣れたようなため息だ。
「——カイル本人には、言いましたか」
俺は少し間を置いた。
「まだです」
「……それを先に言ってください」
昼過ぎ、カイルを探したら迷宮の裏手の石壁に背中を預けて座っていた。剣はそばに置いてない。ただ空を見ていた。
「飯は食ったか」
「食った」
「じゃあ仕事の話をしていいか」
カイルが俺を見上げて、何かを読もうとするように少し目を細めた。
「……なんだ」
俺は壁に並んで寄りかかった。少し風があって、迷宮の入口の方角からゴブの声が聞こえた。農民との話し合いだ。今朝から続いている。
「スキルを渡したい。お前に」
沈黙。
カイルが何も言わないから、俺は続けた。
「迷宮管理のスキルだ。今は俺がLv.9で持ってる。残り一段階で移管できる状態になってる」
「……俺には無理だ」
即答だった。
拒否でも謙遜でもない、ただ事実を言ったような声だった。
俺はそれを聞いてから、少し考えた。
「最初にゴブが俺の扉をノックした夜」と俺は言った。「俺も同じことを思った」
カイルが視線を動かした。
「無理だって」
「そうだ。ゴブリンが「話を聞いてほしい」って言ってきて、俺は最初に思ったんだ。こんな話、俺が聞けるわけがないって」
「……でも聞いた」
「扉を開けただけだ。そこから先は、向こうが話してくれた」
風が少し止んだ。
カイルが石壁に頭を預けて、天を仰いだ。喉仏が動いた。
「俺は——お前みたいには、できない」
「お前みたいにやれとは言ってない。お前のやり方でやれ」
「……お前のやり方と俺のやり方が違ったら、スキルが機能しないんじゃないか」
それは、いい問いだった。
俺はしばらく考えてから答えた。
「スキルが機能するかどうか、俺にはわからない。でもカイル、お前は第四迷宮に一人で行った。フォルと話した。セルディン議員の言葉を最後まで聞いた。来た者との協定に署名した」
「……それは」
「全部、聞いてる。俺が見てなかった場面でも、お前は聞いてた。俺はそれを知ってる」
カイルが何も言わなかった。
石壁の向こう、ゴブの声と農民の声が混ざって聞こえてくる。なんだかおだやかな感じの声だ。
「渡すのはいつだ」と、しばらくしてカイルが言った。
「決まってないが、近い」
「……準備ができてから言うものじゃないのか、普通」
「準備してから来ることができる話じゃなかった」
「お前は大抵そうだな」
低い声だったが、怒ってはいなかった。
農民の話し合いは、ゴブが仕切っていた。
俺が管理棟の軒先から見ていると、ゴブは農民——初老の男が二人と若い女が一人——を迷宮の入口近くの石段に座らせて、自分も同じ高さに腰を下ろしていた。
「畑に入るのは、どの種類の魔物ですか」
「見た目は、ちっこい蜥蜴みたいなやつで——」
「ああ、スケイルランナーですね。第二層にいる。昼は巡回しません、でも夜間は……」
俺の耳に届くのはそこまでだった。
門の内側から、俺のスキルが何かを捉えた。
【迷宮管理Lv.9:第二層・スケイルランナー群——認識済み。行動パターン:採餌ルート変更申請——受付可能状態】
ゴブはこれを、スキルなしで交渉しようとしている。
自分の足で第二層まで降りて、スケイルランナーの群れのリーダーと直接話して、ルートを変えてもらうつもりだ。
それが「俺が聞く」と言ったときの意味だった。
俺はスキルの通知を閉じた。
ゴブには言わないことにした。
農民の初老の男が、何か冗談めいたことを言った。ゴブが「それは困りますね」と言い返した。笑い声が聞こえた。
カーラがいつの間にか俺の隣に来ていた。書類は持っていない。珍しいことに。
「……うまいですね、ゴブは」
「生まれつきじゃないと思いますよ」
「どこで覚えたんでしょう」
「さあ。見てたんじゃないですか、誰かを」
カーラが俺を見た。俺は視線を外さなかった。
「……そうですね」と、カーラは言った。
農民の一人が立ち上がって、ゴブに向かって頭を下げた。深く、丁寧に。
ゴブが困ったように頭を下げ返している。どう受け取っていいかわからないのか、耳がぴくぴく動いている。
俺はそれを黙って見ていた。
ちゃんと、見ていた。
夕方、農民たちが帰ったあとでゴブが俺のところへ来た。
「一人でできました」
「そうみたいだな」
「スキル、使いませんでした」
「知ってる」
ゴブが少し間を置いた。
「……ちゃんと、相手の話を聞いてから言いました。「まず、困ってることを教えてください」って。そしたら、向こうがいっぱい話してくれて」
「それだよ」
「それだけですか」
「それだけだ」
ゴブが「うーん」と唸った。もっと複雑な何かを期待していたようだ。
「でも——」と、ゴブが続けた。「俺も調停者になれるかもしれない、と思いました。初めて」
俺は少し驚いた。表情には出なかったと思うが。
「お前はもう門番だ」
「門番と調停者は、違いますか」
「似てるな。でも——」
「でも?」
「調停者は、扉を超えていく。門番は、扉のそばにいる」
「どっちがいいですか」
俺は少し考えた。
「どっちも必要だ」
ゴブがそれを聞いて、なにか納得したような顔をした。具体的に何を納得したのかは、ゴブにしかわからないだろう。
空が少し橙になっていた。
「レン」
「何」
「カイルさんは——受けてくれそうですか」
俺は迷宮の方を向いた。
「まだわからない」
「まあ——聞いてから判断、ですね」
ゴブが自分でそれを言って、少し照れたような顔をした。
「最近そればっかり使ってるな、お前」
「レンに似てきたんだと思います」
「悪い癖が移ったな」
「悪い癖じゃないです」
ゴブが真剣な顔で言った。俺は答えなかった。
夕風が迷宮の入口をすり抜けていった。
夜、俺はスキルのログを確認した。
【迷宮管理Lv.9:移管カウント——現在値:1段階保留中。移管条件詳細:未表示】
「未表示、か」
何が最後の段階なのかは、まだ教えてくれない。
カイルに話した。カーラに相談した。ゴブが一人で仕事をした。それだけでは足りないらしい。
まあいい。
俺はログを閉じた。
外では星が出ていた。
ゴブが管理棟の扉の前に立って、入口の確認をしている。今日から始めた夜間の点検だ。誰かに言われたわけじゃない。自分で決めたらしい。
俺はそれを窓から見ながら、カイルのことを考えた。
「俺には無理だ」と言った声を。
あの言い方は、諦めじゃない。
まだ、聞く前の声だ。
明日、カイルはどんな顔でここに来るだろう。
「……カイル本人に言いましたか」と、カーラが朝に聞いた。
言った。
あとは——カイルが、聞くかどうかだ。




