第148話「カイルが署名する」
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封印接続点から戻ってきた翌朝、俺は第七迷宮の管理小屋の前で、修正を終えた協定草稿の最終版を広げていた。
羊皮紙三枚。ぎっしりと書かれた条文の末尾に、三つの署名欄がある。
「外部存在・来た者」。「王国代表・調停者」。「迷宮知性体・フォル」。
附則も含めて、形としては完成している。あとは署名を集めるだけだ。
「……これ、誰が書くんですか」
ゴブが横から草稿を覗き込んで言った。いつもより少し低い声だった。
「王国代表のところ」と俺は答えた。「カイルだ」
ゴブが小さく黙った。
「レンじゃないんですか」
「俺じゃない」
短く言って、俺は草稿を折り畳んだ。
カイルへの通信は午前中に入れていた。
返事は早かった。「わかった。今日の昼に行く」とだけ書かれた通信石の文面を見て、俺は少し笑った。最初の頃のカイルなら、もっと長々と「なぜ俺が」「そんな役割が」と返してきただろう。
昼を少し過ぎた頃、蹄の音が聞こえてきた。
カイルが馬から降りたとき、手に書類の束を持っていた。第四迷宮からの報告書らしい。
「来た」
「ああ」
挨拶としては最低限だが、この二人ではそれで十分になっていた。
ゴブが水の入った杯を差し出す。カイルが礼を言って受け取る。以前は魔物から水を受け取ることに微妙な間があったが、それも今はない。
「署名の話だな」
カイルが先に言った。俺は草稿を広げてテーブルの上に置いた。
「読んでくれ。署名する前に、全文を」
「読まずに書けとは言わないのか」
「言わない。まあ、聞いてから判断しよう——読んでから決めてくれ」
カイルが草稿を手に取った。一枚目から順に、声に出さずに目で追っていく。俺は邪魔しなかった。
ゴブが外に出て、門の前を掃き始めた。静かな音だけが続く。
三枚を読み終えるまで、カイルは何も言わなかった。
「……附則か」
カイルが最後のページに視線を止めて言った。
「協定が破れたとき、また話を聞きに来ること。意志として記す」
俺は黙って待った。
「これを要求したのは、来た者か」
「そうだ」
「法的な拘束力はないな」
「ない」
「なのに入っている」
「入れた」
カイルが草稿から顔を上げた。その目が俺を見ている。何かを測るような目ではなかった。ただ、確認するような目だった。
「俺でいいのか」
「俺より適任だ」
「……なぜそう言える」
俺は少し考えてから答えた。
「カイルは今、第四迷宮で相手の話を聞いている。俺はここから動けない。そのうち完全に離れる。でもカイルはこれからも続けていく」
「お前が離れる話はまだ決まってないだろ」
「方向は決まっている」
カイルが短く息を吐いた。否定はしなかった。
「……俺でいいというなら、もう一つ聞かせてくれ」
「何だ」
「お前は、この協定が破れると思っているか」
予想外の問いだった。俺は草稿を見た。三枚の条文。三百年分の距離を埋めようとして書かれた言葉の束。
「わからない。百年後のことは誰にもわからない」
「だから附則を入れた」
「だから入れた。破れたとき、また聞きに行けるように」
カイルがしばらく草稿を見ていた。
「……聞きに行ける者が、百年後にもいるかどうかは」
「今、増えているんだ」
俺がそう言うと、カイルが視線を上げた。
「お前がそう言うのか」
「第四迷宮で、カイルが一人で聞いた。ゴブが門番になろうとしている。セルディン議員が「聞いてから判断する」と言った。カーラが最初からそういう人だった。増えている」
カイルが黙った。
外でゴブが掃き終えたらしく、箒を立てかける音が聞こえた。
「……俺でいいのか」
もう一度、カイルが同じことを言った。今度は少し声が低かった。
「俺より適任だ」と俺は繰り返した。「同じことを二回言うのはお前らしくないな」
「うるさい」
カイルが羽根ペンを手に取った。
インク壺に先を浸して、少し待つ。筆圧を確かめるように一度だけ空中で止めてから、署名欄に名前を書き始めた。
カイル・ベルグ。
流れるような字ではなかった。少し力が入り過ぎていて、最後の一字が若干跳ねていた。
俺はそれを黙って見ていた。
カイルが羽根ペンを置いた瞬間、腰の通信石が振動した。
いつもと違う振動の仕方だった。単発ではなく、連続した細かい震えが続いている。
「……なんだ」
手に取ると、スキルが展開された。
【迷宮管理Lv.9:記録更新——調停者署名確認。協定草稿・王国側調停者:カイル・ベルグ——登録完了】
それだけなら普通の通知だった。
だが次の瞬間、表示が変わった。
【迷宮管理Lv.9:移管条件——項目確認中……】
「おい」
カイルが俺の顔を見た。
「何の表示だ」
俺は答える前に、もう一度表示を読んだ。文字が続いて出てくる。
【協定締結行為——後継者の交渉実績として記録。移管条件・評価更新中。現在進行中の確認項目:3/4——】
「レン」
ゴブの声が外から聞こえた。いつの間にか入口まで来ていたらしい。「スキルが光ってます」
「わかってる」
表示がまだ動いていた。
「4/4」に変わるまでの数秒間、三人とも黙っていた。息を止めていたわけじゃないが、そんな気がした。
【迷宮管理Lv.9:移管条件——「後継者の成立」確認済み。引き継ぎまで:残り1段階】
部屋の中が静かだった。
カイルが「……後継者」と呟いた。呆然というよりは、何かを受け止めようとしている顔だった。
ゴブが俺を見ていた。
「レン。それは——」
「そうだ」
俺は通信石をテーブルに置いた。スキルの表示はそのまま出続けている。
「カイルの署名が条件の一つだったらしい」
「一つ?」と カイルが聞いた。
「全部で四つある条件のうち、今四つ目が揃った」
「……残り1段階ということは」
「もう一つ何かある」と俺は言った。「スキルはそこまでしか教えてくれない」
カイルが自分の手を見た。今署名したばかりの右手を。
「俺が名前を書いたせいで、お前のスキルが——」
「そういうことじゃない」
「じゃあどういうことだ」
俺は少し考えた。うまく言葉にできるかどうかわからなかったが、言ってみることにした。
「スキルは条件を測っている。カイルが署名できるだけの何かを積み上げたから、条件が揃った。名前を書いたことじゃなくて、書けるようになったことが条件だったんだと思う」
カイルが黙った。
しばらく、何も言わなかった。
外で鳥が鳴いた。遠くで何かが跳ねたような音がした。第七迷宮の、いつも通りの昼の音だった。
「……お前に教えてもらった覚えはないぞ」
カイルが低い声で言った。
「俺は何も教えてない」
「じゃあ誰が——」
「来た者に話を聞いてもらった奴が、第四迷宮にいるだろ」
カイルの顔が微妙に歪んだ。否定するのか、認めるのか、どちらとも言えない顔だった。最終的に、小さく息を吐いた。
「……うるさい」
ゴブが入口で「よかったですね」と言った。カイルに向かって言っているのか、俺に向かって言っているのかはわからなかった。
たぶん、両方だった。
俺はもう一度スキルの表示を見た。
【引き継ぎまで:残り1段階】
残り一つ。
「——どちらを先にするか」と俺は呟いた。
ゴブが「え?」と聞いてきた。
「ゴブの正式承認の通知も、今日来るはずだ」
ゴブが目を見開いた。
「今日って——今日ですか?」
「カーラから連絡が来てた。正午に議会で最終確認が通る予定だと。もう時間は過ぎている」
「それはつまり——」
ゴブが何かを言おうとして止まった。
カイルがゴブを見た。ゴブがカイルを見た。
「今日、二つ来るのか」とカイルが俺に言った。
「そうなるかもしれない」
「で、お前は「どちらを先にするか」と呟いた」
「ひとり言だ」
「ひとり言を拾う門番は珍しいな」
「お前が聞こえる距離にいたからだ」
カイルが短く笑った。ゴブも何か言おうとして口を開けたまま止まっていた。
そのとき。
腰の通信石が、また振動した。
今度は長く、一回だけ。
「——カーラからだ」
俺は通信石を手に取った。




