第147話「破れたとき」
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「修正草稿に、一つだけ追加してほしい条件がある」
来た者の声が届いた瞬間、俺は思わず手元の草稿から目を上げた。
夕暮れの接続点。岩肌の冷たさが背中を通して滲んでくる。今日はカーラが議会棟の外せない会議で来られず、ゴブと二人でここに座っていた。カーラへの通信石は胸ポケットの中で温もりを保っている。
「聞いている。言ってくれ」
俺が答えると、少しの間があった。
来た者は間を置くようになった。最初のころは、沈黙と断絶の区別がつかなくて、接続が切れたのかと何度も確認した。今はわかる。これは考えながら言葉を選んでいるときの、あいつなりの礼儀だ。
「協定が——破れたとき、のことだ」
低く、ゆっくりとした言葉が来た。
「第四条に違反時の話し合いを入れてもらった。それはよかった。だが、もう一つある」
「もう一つ」
「協定が破れたとき。ただし話し合いでも解決できなかったとき。完全に破綻したとき——そのとき、また聞きに来てほしい」
俺はしばらく黙っていた。
ゴブが隣で草稿の端を指先で押さえながら、小さな声で「また、聞きに来る……ということですか」と繰り返した。
「そうだ」と来た者は答えた。「文書に書けるような法的な条文ではないと、わかっている。だが——」
そこでまた間があった。
岩の向こうから、冷えた風が吹いてきた。封印層の空気は常に少し違う。外の季節を知らない。三百年、ずっとそうだったのだろう。
「三百年間、誰も来なかった。来ようとする者がいなかった。来たとしても、聞く気がなかった。だから——協定が破れたとして、また三百年が始まるのかと、そう思う」
声に感情の揺れがあった。
最初のころ、来た者の声は波長のように平らだった。今は違う。言葉に重さがある。
「俺から約束できることは一つだ」
俺は草稿を膝の上に置いて、岩の向こうに向かって言った。
「聞きに来る。俺じゃなくても——聞ける者が、必ず来る」
また間があった。今度は少し長い。
ゴブが俺を横目で見た。何も言わなかったが、目が「それで大丈夫ですか」と言っていた。
大丈夫かどうかは俺にもわからない。
「俺じゃなくても」というのは、嘘ではない。カイルがいる。カーラがいる。ゴブもいる。来た者の声を聞ける者が、今はもう一人じゃなくなった。でもそれを言えば大丈夫になるかというと、そういう問題でもない。
「聞きに来る、という部分を——書いてほしい」
来た者が静かに言った。
「法的な条文でなくていい。附則でも覚書でも。ただ、書いてほしい。書いてあれば、三百年後の誰かが読む。そのとき——まだ言葉があることを信じられる」
「……書く」
俺は短く答えた。
草稿の余白に書き込んだ。「協定が破れた際、調停者は改めて当事者の声を聞くことを努める」。文言はカーラに後で見てもらう。でも意味は伝わるはずだ。
「ゴブ、通信石出してくれ」
「はい」
ゴブがポーチから通信石を取り出して俺に渡した。起動すると、カーラの声がすぐに来た。会議の合間に待機していてくれたのだろう。
「アシダさん。どうなりましたか」
「修正要件が一つ追加になった。協定が完全に破綻したとき、調停者が改めて話し合いに来る旨を附則として入れてほしい。文言はカーラさんに任せる」
「……法的な拘束力がない附則ですね」
「それでいいと言っている」
少し間があった。
「わかりました」とカーラは言った。「法的効力はなくても——書いてあることに意味がある、ということですね」
「そういうことだ」
「……アシダさん、少しだけいいですか」
「どうぞ」
「それを求めてきた理由が、なんとなく想像できます。三百年間、声を聞いてもらえなかったから——書いてあれば、未来の誰かが読む、と」
俺は何も言わなかった。カーラは十分にわかっている。
「セルディン議員にも伝えます。協定書の全文が整ったら、また連絡します」
通信が切れた。
ゴブが「カーラさんは——聞ける人になりましたね」と言った。
「なった」と俺は答えた。
【迷宮管理Lv.9:封印接続点——通信状態:安定。封印強度:74.2%】
スキルの数値を確認してから、俺は草稿を折り畳んだ。
「来た者、もう一つ確認させてくれ」
「何か」
「附則の内容を——今、読み上げてもいいか。確認してほしい」
「……読んでくれるのか」
「まあ、聞いてから判断しよう。気に入らなければ言ってくれ」
俺は草稿を広げ直した。余白に書いた文字が薄い。声に出して読んだ。
「——協定が破れた際、調停者は改めて当事者の声を聞くことを努める。これは義務ではなく、意志として記す——」
「意志として、か」
「法的に縛れない。縛らないほうがいい場合もある。ただ——書いた人間がそう思っていた、という記録にはなる」
来た者はしばらく黙っていた。
ゴブが足元の石を指先で撫でながら待っていた。この子は待つのが上手くなった。最初は沈黙が怖くてすぐ口を開いていたのに、今は相手の間を邪魔しない。
「いい」
来た者が言った。
「それで、いい」
声が少し違った。低いままだが——何か、固まったような。長い問いが一つ終わったときの音だった。
「ありがとう」と俺は言った。
「礼は——こちらが言う」
「どちらでもいい」
「……そうだな」
来た者が、珍しく軽い調子で言った。初めて聞く声のトーンだった。ゴブが少し驚いた顔で俺を見た。俺も少し驚いていたが、顔には出さなかった。
「一つ、聞いていいか」
来た者が言った。
「聞いてくれ」
「「聞ける者」——そういう者が、これから増えるのか」
俺は答える前に少し考えた。増やすために動いてきた。カイルに教えた。カーラは自分で気づいた。ゴブは最初から持っていた。セルディンは——恐怖の中でもう一歩踏み出した。
「増えている」と俺は言った。「増えてきた。これからも増えると思う」
「根拠はあるか」
「今まで増えてきたから」
来た者がまた間を置いた。
「——それは、根拠になるのか」
「俺はそう思っている」
今度の沈黙は短かった。
「わかった。信じてみる」
そう言って、来た者の接続が静かに遠ざかっていった。切れたのではなく、退いていく感じがする。いつからかそうなった。
接続点の空気が少し戻った。俺は足を崩して岩に背を預けた。
「レン」とゴブが言った。
「なんだ」
「「聞ける者が増える」って——本当にそう思いますか」
「思っている」
「でも、増えなかったら」
「そのときはそのときで、また考える」
ゴブが「……ずるいですね」と言った。
「何が」
「いつも、次があるみたいに言う」
「次があると思っているから言う」
ゴブが少し口をつぐんだ。それから、ぽつりと言った。
「ドランも——次があると思っていたかな」
俺は答えなかった。
ドランのことは、今でも時々考える。あの光が広がって消えた瞬間のことを。「ゴブを頼む」と言い残したことを。あの言葉の重さを、今でも正確に量れているとは思えない。
「わからない」と俺は正直に言った。「でも——最後に話せた、と言っていた。それは確かだ」
ゴブが小さく頷いた。
「そうですね」
風がまた来た。封印層の、季節を知らない風。
俺は草稿を上着のポケットに入れた。明日、カーラに渡す。附則の文言を整えてもらって、三者の確認を取る。それが終われば、協定草稿は署名待ちの状態になる。
順序がある。手続きには順序がある。それが面倒なのは知っているが、順序を踏むことに意味がある。踏んだことが記録になる。記録が、三百年後の誰かへの言葉になる。
「帰るか」と俺は言った。
「はい」とゴブが答えた。
立ち上がって、封印接続点から歩き出した。背後で、岩が静かに風を受けていた。
その夜、カーラから短い通信が来た。
「附則の文言、整えました。明日、セルディン議員に確認を取ります。——一つだけ聞かせてください。「意志として記す」という部分、残しましたがよかったですか」
「よかった」と俺は返した。
少し間があって、カーラの声が続いた。
「来た者が、その言葉を気に入ったんですね。きっと」
「たぶんな」
「……アシダさん」
「なんだ」
「「聞ける者が増えるのか」って、来た者に聞かれたとき——どう答えましたか」
「増えている、と答えた」
また少しの間があった。
「——私も、そう思います。増えてきた」
「そうだな」
通信が切れた。
俺は寝台に腰を下ろして、天井を見た。特に何も考えていなかった。草稿のことを考えた。来た者のことを考えた。「意志として記す」という一文のことを考えた。
三百年後の誰かが、それを読む。
まあ——そのときはそのとき、か。
翌朝、カイルから短い通信が来た。
「附則の件、カーラから聞いた。協定署名の件だが——王国側の調停者署名、俺が担当することになった」
「そうか」と俺は答えた。
「……俺でいいのか」
通信石の向こうで、カイルの声が少し固くなっていた。
「俺より適任だ」と俺は言った。
長い沈黙があった。
「——明日、署名に来る」とカイルが言った。「場所を教えてくれ」
俺は場所を伝えた。通信が切れる直前、カイルが小さな声で何か言いかけた。
「なんだ」と俺が聞いた。
「——いや。明日」
それだけ言って、切れた。
カイルが署名する。それがどういう意味を持つか、カイル自身もわかっているはずだ。わかった上で来ると言っている。
俺はスキルを確認した。
【迷宮管理Lv.9:封印強度74.2%——移管条件:確認待機中】
「確認待機中」。
この表示を初めて見たのはいつだったか。その意味を、今は正確に知っている。
カイルが署名した瞬間——この表示が変わる。




