第145話「言わなかった理由」
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「言ったとして、誰が聞いてくれた?」
セルディンの声は、怒りでもなく嘆きでもなく、ただ静かだった。
議会棟の小部屋。昨日と同じ木の机。同じ椅子。でも昨日と何かが違う気がした。昨日は「交渉の場」だったが、今日は——もう少し、別の何かになっていた。
カーラが黙った。
俺は第七迷宮の詰所から通信石を通じて聞いていた。声だけが届く。表情は見えない。でも沈黙の重さは、はっきりとわかった。
「三年前の議会を——覚えていますか、副司令」
セルディンが続けた。
「あの頃の雰囲気を。魔物との協議など論外。迷宮の自律知性体などという概念は笑い話。封印強度の低下など、データの誤差だと一蹴されていた」
「……はい」
カーラの声がそこだけ低くなった。
「あの場で私が立ち上がって、『封印の異常を知っている』と言ったとしましょう。どうなりましたか。私の発言は嘲笑されたか、あるいは——危険思想の持ち主として記録されたか。どちらかでしたよ」
沈黙が続く。
俺は通信石を握ったまま、何も言わずにいた。
ゴブが隣に座って、同じように聞いていた。さっきから身じろぎもしない。
「言えなかったのではなく、言えない状況があった」とセルディンは言った。「それを——甘えだと言いたいなら、そう言ってください。私も、そう思っています」
カーラがようやく口を開いた。
「……私も、似たことがありました」
セルディンが少し黙った。
「若いころ。部下を一人、失いました。その子が何度か、作戦への懸念を私に伝えようとしていた。私は聞いていなかった。正確には——聞こえていたのに、判断を保留にしていた」
「……」
「あの子が死んでから、気づきました。聞いてさえいれば、変えられたかもしれないと。でもその後しばらく、私は同じことをしていました。聞くことが怖くなったんです。聞いてしまったら、責任が生まれる。だから聞かないことを選んだ」
俺はカーラがそこまで話したことに、少し驚いた。
会議の場で、反対派の重鎮に向かって、自分の失敗を語るのは——戦術的な意味もあるかもしれないが、それだけじゃない。カーラはここ数ヶ月で変わった。「一人で背負う人」が、少しずつ「話せる人」になってきた。
俺が教えたわけじゃない。ゴブも、セルディン自身も、そうして来た道がカーラを変えた。
「聞かないことを選んだ……」セルディンが繰り返した。「そうです。私も同じだ。言わないことを選んだのではなく——言う場所が、なかった。そういうことにしていた」
「セルディン議員」
カーラが呼んだ。
「今は、ありますか。言える場所が」
また沈黙。
今度は長かった。
俺は通信石に手を当てたまま、待った。ゴブが「どうなってるんですか」と小声で聞いてきた。俺は軽く首を振った。
待つしかない。
「アシダ殿」
セルディンが、突然俺に話しかけてきた。通信石越しだとわかっているのに、声の向きが変わった気がした。
「聞こえているか」
「聞こえています」
「あなたは——今の状況を、どう見ていますか」
俺は少し考えた。正直に答えることにした。
「三年前と今の違いを、俺は数字で説明できます。封印強度の回復率、「来た者」との交渉実績、ゴブたちの移送から今まで溢出がゼロだったこと。そういう事実はある」
「……」
「でも今、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「言ってみなさい」
「三年前に言い出せなかったのが、セルディン議員一人の問題じゃなかったとしたら。聞けない場所に、聞こうとしない人間が多すぎた、ということなら——今は少し違います。俺が言うのも変ですが」
「変ですが、と言いながら言うのか」
「まあ、そうですね」
通信越しだったが、セルディンが小さく笑った気がした。
「聞ける人間が増えた、と?」
「増えました。少しは」
俺の隣でゴブが「俺も聞きます」と言った。通信石に顔を近づけて、ちょっと大きな声で。
「聞きます。百回ノックの練習はもうしないでいいです。ノックしてくれたら、最初から開けます」
少しの間があった。
「……それはゴブリンの門番殿か」
「はい。第七迷宮の、現在申請中の門番です」
「申請中の、か」
「正式承認はまだです。でも仕事はしています」
また間があった。
今度は違う種類の間だった。
「副司令」
セルディンがカーラに向き直ったのがわかった。
「協定草案を、もう一度見せてください。私が気になっている条項が、三つあります」
カーラの声が少し変わった。緊張から、何か別のものに。
「わかりました」
「全部を飲むとは言いません。ただ——聞いてから、判断します」
俺は通信石を持ったまま、じっとしていた。
その言葉を聞いたとき、何か言おうとして——やめた。
何も言う必要がなかった。
ゴブが俺の顔を見て、「今、なんか言いましたよ」と囁いた。
「聞こえてたか」
「聞こえました。「聞いてから判断する」って」
「そうだな」
「レンが言いそうなことを言いました」
「似てたか」
「似てました」
俺は小さく息を吐いた。
部屋の外で風が動いた音がした。夕方が近い時間帯で、詰所の窓から石畳が見えている。第七迷宮の入口まで、ここから数歩。
今日も何も「壊れて」いない。
交渉が進んでいる。少しずつ、確かに。
通信がひと段落したあと、カーラから別線で接続が来た。
「今の、聞いてましたか」
「全部」
「セルディン議員が——笑いました。最後に」
「気づいてた」
「ああいう笑い方をする人だとは、思いませんでした」
「聞いてみないとわからないものが多い」
カーラが少し黙った。
「アシダ殿。一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「三年前の議会——あなたがいたら、どうしていたと思いますか」
俺は少し考えた。
「わからないですね。俺もその場の空気に飲まれたかもしれない」
「そうですか」
「でも——聞こうとはしたと思います。聞いてから判断しようと。それだけ」
「それだけ、か」
「それだけで変わることもある。ゴブが百回ノックしてきたときみたいに」
カーラが「そうですね」とだけ言った。
声に、やわらかさがあった。
ゴブが隣で「俺の話が出ました」と小さく誇らしそうにしていた。俺は「そうだな」とだけ返した。
「一つだけ、確認させてください」
しばらくして、カーラからまた通信が来た。
「セルディン議員が——笑ったあと、こう言いました。『……そうですな』と」
「聞こえてた」
「あれは——どういう意味でしたか。笑ったのに「そうですな」だけで」
俺は少し考えて、答えた。
「承認だと思います。言葉にはならなかったけど——認めた、ということじゃないですかね」
「認めた」
「三年前に言い出せなかった自分のことも。聞けなかった場所のことも。で、今は違う、ということも」
カーラが少し間を置いた。
「「今は聞ける人間が増えた」——アシダ殿、さっきそう言いましたよね」
「言いました」
「あの言葉が——効いたんだと思います」
「そうだといいですね」
「自信を持って言っていいと思います」
「まあ」と俺は言った。「結果を見てから判断します」
カーラがかすかに笑った気配がした。
「ゴブリンの門番殿も、今日は良い一言を言っていました」
ゴブが通信石の近くで「聞こえます」と言った。
「ありがとうございます。百回ノックは誇張です。本当は三十二回でした」
「正確に覚えていたのか」
「あの夜のことは全部覚えています」
俺もあの夜のことは覚えている。暗い詰所の扉を、小さな拳が叩いた音。最初は気のせいかと思った。でも聞こえた。だから開けた。
それだけだった。
「明日——セルディン議員と草案の読み合わせをします」とカーラが言った。「三つの条項について、意見を出すそうです」
「わかった」
「「来た者」への報告は、その後でいいですか」
「そうします」
「では、また明日」
通信が切れた。
詰所に静けさが戻った。
ゴブが伸びをして、「長い一日でした」と言った。
「まだ夜じゃない」
「気持ちが長かったです」
「そうか」
しばらく、二人で黙っていた。
「レン」
「なんだ」
「セルディンって人、最初は嫌な人かと思いました」
「最初はな」
「でも——ノックしなかったことを、後悔してる人でした」
「そうだな」
ゴブは少し考えてから言った。
「ノックしたくてもできなかった人のことを——俺はわかります」
「知ってる」
「でも、ノックした後のことが怖かったのは——俺も同じでした」
「三十二回、叩いてたもんな」
「叩いてから、後悔しようと思っていました。叩いて、もし怒鳴られたら、その時に後悔しようと」
俺は笑った。声に出して。
ゴブが「笑うところですか」と言った。
「笑うところだ。良いことを言ってる」
「そうですか」
「叩いてから後悔するのが、正しい順番だな」
ゴブが「そうです」と少し胸を張った。
窓の外が、少しだけ暗くなり始めていた。
明日、カーラがセルディンと草案を詰める。その結果を「来た者」に伝える。順番は、決まっている。
俺はスキルを確認した。
【迷宮管理Lv.9:封印接続——安定。外部存在「来た者」——待機状態。次回接触まで:未定】
待機状態、か。
「来た者」も待っている。俺たちの返事を。
「ゴブ」
「はい」
「明後日あたりに「来た者」と接続するかもしれない」
「そのときは俺も入っていいですか」
「もちろん」
ゴブが「わかりました」と言って、詰所の隅に置いてある薄い毛布を引き寄せた。夜まで待つつもりらしい。
俺は通信石を机の上に置いて、椅子に深く座り直した。
やることは、ある。カーラの交渉が進んで、草案が固まって、来た者に報告する。その先には署名がある。三者の署名が揃えば——道が開く。
まだ終わっていない。
でも、今日確かに一歩、進んだ。
「……そうですな」
セルディンのあの声が、少しだけ耳に残っていた。
長い三年間を抱えて、ずっと黙っていた人間が——初めて笑った顔で、そう言った。
俺は見ていない。声だけ聞いた。
でも——十分だった。
翌朝、カーラから短い通信が届いた。
「三つの条項、すべて合意に向けた修正案が出ました。今日の昼に草案の最終確認に入ります」
それだけだった。
俺は「わかった」と返した。
ゴブが「どんな修正ですか」と聞いてくる前に、もう一本、通信石が音を立てた。
カイルからだった。
「アシダ。王都から今朝出た。明日の夕方に着く。——あと、一つ聞いていいか」
「なんだ」
「草案の王国側署名、俺がやるって話、本当に俺でいいのか」
俺は少し間を置いた。
「俺より適任だ」
カイルが黙った。長い沈黙があった。
「……わかった」と、低い声で言った。
「明日、待ってる」
通信が切れた。
ゴブが「カイルさんが署名するんですか」と聞いてくる。
「そうなる予定だ」
「大丈夫ですか」
「カイルなら大丈夫だ」と俺は答えた。
それから少し考えて、もう一言だけ付け加えた。
「まあ——聞いてから判断しよう、って奴だしな」
ゴブが「それ、カイルさんは言えるんですか」と首を傾げた。
俺は答えなかった。
明日、カイルが来る。草案の最終確認が入る。署名の話になる。
そのとき、カイルがどんな顔をするのか——
それは、見てから判断することにした。




