第144話「あなたが最初に言ってくれていれば——」
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カーラから連絡が来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「セルディン議員と、今から話せます。来ますか」
俺はゴブの顔を見た。ゴブが小さく頷く。
「行く」と答えると、カーラは「では議会棟の第三会議室で待っています」とだけ言って通信を切った。
声に疲れがあった。でも折れてはいない。昨日の夜から準備してきた人間の声だ。
第三会議室は、王都の議会棟の中でも端に位置する小さな部屋だった。大会議場の荘厳さとは無縁の、木の椅子と木の机だけの空間。窓から午後の光が差し込んで、埃っぽい空気を白く照らしている。
セルディン議員はすでに席についていた。
以前よりも老けて見えた。いや、老けたのではなく、疲れているのかもしれない。あの白い眉毛の下の目が、俺とカーラを交互に見る。
「またあなたか、と言いたいところだが」
セルディンは椅子を引き直しながら、小さく息を吐いた。
「……昨日、副司令殿とだいぶ話した。今日はその続きだ」
俺は椅子には座らず、部屋の隅に立った。今日ここに来たのは俺のためではない。カーラとセルディンの続きを聞くためだ。
カーラが資料を机に置く。封印維持協定の草案、それと迷宮管理スキルが記録した過去三年分の封印強度データ。
「昨日お伝えした内容に、一つ追加があります」とカーラが言う。「封印強度の変動を、もっと詳しく見ていただけますか。特に三年前のこの時期——」
セルディンがデータに目を落とした。
一秒、二秒。
長い沈黙があった。
「……知っている」
それだけ言って、セルディンは資料を机に置いた。乱暴ではなく、ゆっくりと。まるで重いものを慎重に扱うように。
「三年前、私はこれと同じ数値を別の経路で知った。王国の古い記録官が個人的に調査していたものだ。非公式の報告として私のところに回ってきた」
カーラが息を呑む気配がした。
俺も少し驚いた。知っていた、という言葉の意味が、じわじわと重くなってくる。
「知っていたのに——」とカーラが言いかけた。
セルディンが片手を上げて、それを止める。
「言わせてくれ」
静かな声だった。命令ではなく、頼みだ。
俺は黙って聞く。カーラも口を閉じた。
「知っていた。だが言い出せなかった」
セルディンが窓の外に目を向けた。午後の光の中に、王都の屋根が続いている。
「三年前、議会の空気は今と全然違った。魔物との協議などという話は、完全な夢物語だった。ゴブリンが人語を話すなど、誰も信じなかった。あの第七迷宮の門番が何をやっているのかも、当時は誰も知らなかった」
レンのことを言っているのか。
「封印に異常があると言ったところで、誰が信じた。魔物の管轄区域の地下深くで何かが起きている、などという話を——」
セルディンが止まった。
「怖かった」
短い言葉だった。
でも、その短さの中にずいぶん長い時間が入っていた。
「信じてもらえないのが怖かった。おかしな話を持ち込む老いぼれだと思われるのが怖かった。何より——言ったところで、自分一人ではどうにもならないのが分かっていた。だから言わなかった」
部屋が静かだった。
カーラが口を開こうとした。
「あなたが最初に言ってくれていれば——」
セルディンがゆっくりと首を振った。
「副司令殿、そう言いたい気持ちはわかる。だが言わせてほしい」
カーラが言葉を飲み込む。
「言っていたとして、誰が聞いてくれた?」
その問いが、部屋に落ちた。
答えようとして、カーラが止まった。
答えが、出てこないのだ。
三年前の議会を俺は知らない。でもセルディンの目を見ていると、当時の空気が伝わってくる気がした。鎖で繋がれたように動けない、あの感覚。言ったところで無駄だという確信。その確信が正しかったかどうかは関係なく、そう感じていたという事実。
俺はポーチの中の通信石を握った。
それからカーラに目で問う。カーラが小さく頷いた。
「セルディン議員」と俺は言った。「少し、割り込んでもいいですか」
セルディンが俺を見た。
「言え」
「三年前は、聞ける人間がいなかったかもしれない。それは本当だと思います」
俺は椅子を引いて、ようやく腰を下ろした。
「でも今は——少し変わりました」
セルディンの眉が動く。
「ゴブリンが議会で証言した。あなたが「怖い」と白状した。外から来るものが、俺たちの言葉に耳を傾けた。そのどれも、三年前にはなかったことです」
「それは——お前たちが動いたからだ」
「そうです。でも最初は一人だった。ゴブが扉をノックするところから始まった。あいつは百回練習してから来たそうです」
セルディンが、少し目を細めた。
「百回」
「百回叩く練習をしてから、俺の門をノックした。聞いてもらえる保証なんてない。それでもノックした」
俺はそこで止めた。言いすぎると重くなる。
セルディンはしばらく黙っていた。
窓の外で、鳥が鳴いた。それだけが音だった。
「……三年前の私は、ノックしなかった」
静かな声だった。
「ゴブリンは百回練習してノックした。私は——一度も試さなかった」
それは後悔の言葉だった。でも卑下ではなかった。ただ事実を言っている。
「怖かったのだ、本当に。聞いてもらえないのが怖かったのではなく——聞いてもらったとして、それでも何も変わらないのが怖かった」
カーラが口を開いた。今度は慎重に、言葉を選んで。
「私も——聞いてもらえないと思っていた時期がありました」
セルディンが副司令を見る。
「若い頃、部下の異変に気づいていた。でも「気のせいかもしれない」と思って、確認しなかった。その結果、部下を失いました」
それはカーラが以前、俺に話してくれたことだった。道中で、ぽつりと言った話。
「聞けばよかったと、今でも思っています。聞かなかったのは怖かったからではなく——面倒だったからかもしれない。それが一番情けない」
セルディンが、静かに息を吐いた。
「……副司令殿が、そういうことを話せる人間とは思わなかった」
「最近、話せるようになりました」とカーラが答えた。「聞いてくれる人間が増えたので」
俺は余計なことを言わないようにした。
でも少し、胸の中で何かが動いた気がした。
話し合いが一段落したのは、午後の光が斜めになる頃だった。
セルディンは資料をもう一度手に取り、封印強度のデータを眺めた。
「協定の草案を見せてもらった。一つだけ確認したい」
カーラが姿勢を正す。
「「封印維持の確認頻度」の条項だ。六ヶ月ごとと書いてあるが——外から来るものは、この頻度で問題ないのか」
「確認します」と俺は言った。
通信石を取り出して、ゴブへ送る。ゴブがフォル経由で「来た者」に問い合わせる、という経路だ。少し時間がかかる。
俺たちは待った。
セルディンは待つ間、窓の外を見ていた。
五分ほどで返答が来た。ゴブの声だ。
「六ヶ月は長い、と言っています。最初の一年は三ヶ月ごとにしてほしい。その後は状況を見て話し合いたい、と」
俺がカーラに伝える。カーラがセルディンに視線を送る。
セルディンはしばらく考えた。
「……妥当だな。最初の一年は信頼を積む期間だ。三ヶ月ごとで構わない」
「議会を通りますか」とカーラが聞く。
「私が通す」
短い答えだった。
さっきまでの重さとは少し違う。何かを決めた人間の声だ。
「三年前に言えなかった分——今、言う。それだけのことだ」
カーラが「ありがとうございます」と言った。
俺も頭を下げた。
セルディンは「礼はいい」と言って立ち上がりかけ——少し止まった。
「一つだけ聞いてもいいか、門番殿」
「どうぞ」
「お前はなぜ——こういうところに毎回首を突っ込む。ジョブは門番だろう。門の前にいればいいはずだ」
俺は少し考えた。
「まあ、聞いてから判断しようと思うので」
セルディンが眉を上げた。
「それだけか」
「それだけです」
セルディンはしばらく俺を見て、それから小さく鼻を鳴らした。
笑い、ではなかった。でも怒りでもなかった。
「……そういう答えが出てくる人間が、こんな世にいるとは思わなかった」
それだけ言って、セルディンは立ち上がり、部屋を出ていった。
会議室に俺とカーラだけが残った。
カーラが椅子の背に寄りかかって、長い息を吐いた。
「……終わりました」
「お疲れさまでした」
「本当に疲れました」
素直な言葉だった。副司令らしくない。でも今は副司令でなくていい場所だと、カーラも分かっているのだろう。
「セルディン議員が——あんな話をするとは」とカーラが言う。「三年前から知っていたとは」
「そういう人は多いと思います」と俺は答えた。「知っていて、言えなかった人間は」
カーラが俺を見る。
「あなたも、そういうことがありましたか」
俺は少し考えた。
「最初にゴブが来た夜、扉を開けるかどうか迷いました。深夜に魔物が来て、話を聞いてほしいと言っている。面倒なことになると思った」
「でも開けた」
「まあ、聞いてから判断しようと思って」
カーラが小さく笑った。
本当に小さく、疲れた笑い方だった。でも本物だった。
「あなたのその言葉、最初は意味が分からなかった」とカーラが言う。「聞いてから判断するのは当然ではないですか、と思っていた」
「今は?」
カーラが少し間を置いた。
「当然ではないと分かりました。聞く前に判断することの方が、ずっと多い。人間は」
外から、鐘の音が聞こえた。
午後の定時の鐘だ。
カーラが立ち上がった。
「草案を修正してセルディン議員に送ります。三ヶ月ごとの確認頻度で。明日には議会に通せると思います」
「頼みます」
カーラが書類を集めながら、ふと手を止めた。
「来た者の返答で——一つ気になったことがあります」
「なんですか」
「「状況を見て話し合いたい」という部分です」
カーラが俺を見た。
「「話し合いたい」。三百年間、誰とも話せなかった存在が、そう言ってくる。それが——少し、すごいことだと思って」
俺も少し止まった。
確かにそうだ。あの「来た者」が、次の話し合いを自分から望んでいる。
「聞ける者が増えると、聞きたい者も増えるんですかね」とカーラが静かに言う。
「そうかもしれません」
カーラが書類を抱えて、ドアに向かった。
「——では、また明日報告します」
「まあ、聞いてから判断します」と俺は答えた。
カーラが振り返らずに、少し肩を揺らした。
笑っているのか、呆れているのか。
どちらでもよかった。
ゴブへの通信を入れると、一声で繋がった。
「どうでしたか」
「うまくいきそうだ。議会は明日通る予定」
「……よかった」
ゴブの声に、安堵の重さがあった。
「「来た者」に伝えておいてくれ。少し待ってもらうことになる、と」
「分かりました。伝えます」
少し間があった。
「レン」
「なんだ」
「セルディン、という議員は——三年前から知っていたんでしょう」
「そうだ」
「それは……怖かったんでしょうね」
俺は少し驚いた。ゴブがそう言うのは想定していなかった。
「俺も怖かった。百回練習してからレンの扉をノックした。でも——あの人は三年間、ノックしなかった」
「そうだな」
「でも今日、言いました。それは——よかったと思います。遅くても、言った」
俺は何も言わなかった。
ゴブが続ける。
「遅れても、ノックは届く。俺はそう思っています」
扉の向こうから来た奴が言うと、説得力がある。
「俺もそう思う」と俺は言った。
ゴブが「では「来た者」に伝えます」と言って、通信を切った。
部屋に静けさが戻ってきた。
午後の光が、窓から机の端まで伸びている。
封印維持協定の草案が、テーブルの上に一枚残っていた。
まだ三者の署名が入っていない、ただの紙だ。
でもこの紙が必要になったのは——三年前に言えなかった人間がいて、百回練習してノックした奴がいて、聞いてから判断しようとした人間が少しずつ増えたからだ。
俺はその紙を折って、ポーチに入れた。
カーラに返す必要がある。これは俺の書類ではない。
立ち上がって、部屋を出た。
廊下の先に、カーラの後ろ姿が見えた。
「カーラさん」
振り返る。
「草案、忘れていきましたよ」
カーラが眉をひそめ、それから「ありがとうございます」と受け取った。
そして歩き出しながら、小さく付け加えた。
「……明日の採決が終わったら、「来た者」への報告はあなたが直接やってみてください」
「俺が?」
「「来た者」が——最近、あなたへの接続を強く求めてきています。フォル経由で確認しました」
俺は少し止まった。
「何を話したいと言っていましたか」
カーラが足を止めずに答えた。
「「協定の内容を、直接確認したい。そして——一つ、変えてほしい条件がある、と」」




