第143話「またあなたか」
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カーラからの通信が入ったのは、夜明け前だった。
「アシダ殿。明日の朝、議会に行きます」
「一人でか」
「セルディン議員と、先に話しておこうと思って」
接続点の近く、岩盤に背中を預けたまま俺は空を見た。星がまだ出ていた。
「カイルが根回しに行ったんじゃなかったか」
「カイル殿は別の議員の方々への説明にあたっています。セルディン議員は——あの方は、直接話さないと動かないので」
カーラの声に迷いはなかった。でも俺には聞こえた。少しだけ、固さが混じっていた。
「緊張しているか」
間があった。
「……してません」
「そうか」
俺は何も言い足さなかった。カーラが「していない」と言ったなら、それを聞けばいい。
「——してるかもしれません、少し」
今度は俺が笑った。声には出さなかったが。
「まあ、聞いてから判断しよう。会う前から決めなくていい」
「……そうですね」
通信が切れた。空が、少しずつ白み始めていた。
翌朝、王都の議会棟。
カーラは廊下の奥、セルディン議員の執務室の前に立った。扉を叩く前に一度だけ息を吸う。
ノックした。
「入れ」
低い声が返ってくる。扉を開けると、がっしりとした体格の老人が机の向こうで書類を読んでいた。白髪交じりの顎髭。目が鋭い。
視線が上がる。
「……またあなたか」
言いながら、セルディンは椅子を引いた。座れ、という動作だった。
カーラは向かいに座る。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「時間を取るとは言っていない。話があるなら立ったままでも聞く」
「では立ったままで」
カーラが立ち上がった。
セルディンが片眉を上げた。
「……座れ。冗談だ」
「はい」
また座る。セルディンが書類を脇に置いた。
「封印維持協定の件だろう。カイル殿から概要は聞いている」
「そうです」
「反対する」
「理由を聞かせていただけますか」
セルディンが俺を見るような目をした——とカーラは後で語った。
「あなたも「まず聞く」を覚えたか」
「アシダ殿から習いました」
「……そうか」
老議員は腕を組んだ。
「理由は二つある」
セルディンが話し始めた。カーラは手帳を出さなかった。ただ向き合う。
「一つ。王国が魔物側の存在と正式な協定を結ぶことは、前例がない。前例のないことを議会が認めれば、何でも通せるという空気が生まれる。それは長い目で見て危険だ」
「……もう一つは」
「外から来るものとやらが、本当に協定を守るかどうか誰も保証できない。書類に名前を書いたところで、相手が守る理由がない」
カーラはすぐには答えなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。
「前例がないことは、理由になりますか」
「なる。前例は秩序だ」
「では——ゴブリンの門番が議会で証言したことも、前例がありませんでした」
セルディンが黙った。
「北部村落への補償が認められたのも、前例のないことでした。今はそれが制度になっています」
「……屁理屈を言う」
「アシダ殿の言葉を借りるなら、「まあ、聞いてから判断しよう」です」
老議員がふん、と鼻を鳴らした。
「もう一つの懸念——相手が守るかどうか、という話ですが」
カーラが続けた。
「三百年間、封印の向こうで封印を維持してきた存在たちが、なぜ今になって協力を求めているかご存知ですか」
「知らん」
「また、無視されるのが怖いからです」
セルディンの動きが止まった。
「三百年、誰にも気づかれなかった。誰にも話を聞いてもらえなかった。だから今、正式な記録を求めている。書類に名前が残ることで——自分たちが存在したという証明が欲しい、と」
廊下の方から遠い話し声が聞こえた。それが遠ざかると、静寂が戻った。
セルディンが長い間、窓の外を見た。
「……その話は」
低い声だった。
「アシダ殿から聞きました。接触した際に、相手がそう言ったと」
「三百年か」
「はい」
「無視され続けた、か」
カーラは何も付け加えなかった。
セルディンが机の上で指を組んだ。
「——私が議員になったのは、三十年前だ。当時から封印の話は禁忌だった。危険思想と見なされた。声を上げた議員が二人、更迭されている」
カーラが静かに聞いた。
「あなたは?」
「気づいていたが、言わなかった。三年前から、数値が変わり始めていたのに」
カーラの手が、手帳の上で止まった。
「三年前から——ご存知だったんですか」
「知っていた。だが誰に言う。あの頃の議会で「封印が崩れている」と言えば、私が次に更迭される番だった」
セルディンの声は淡々としていた。後悔ではなく、事実の報告のように。
「結果として三年間、何も動かなかった。あの迷宮で——知性体たちが何をしていたかも、当時の私には知る気もなかった」
カーラが言いかけた。
「あなたが最初に言ってくれていれば——」
セルディンが手を上げた。
「言いたいことはわかる。だが「もし」を言っても何も動かん」
カーラが口を閉じた。
「それより今、動けるかどうかの話をしよう」
俺がその会話を聞いたのは、後からカーラの報告を通じてだった。
第七迷宮の入口近く、岩の上に座って耳を傾けながら、俺はゴブに話した。
「セルディン議員が動いてくれそうだ」
「おじいさんの方ですね」
「そうだ」
ゴブが岩の上で膝を抱えた。
「怖かったから言えなかった、というのはわかります。俺も最初、ここに来るのが怖かった」
「ノックするのが怖かったか」
「すごく怖かったです。百回練習してから、やっとノックした」
俺はそれを聞いて少し黙った。
「百回か」
「そうです。夜中に一人でノックの練習を。石に向かって」
「知らなかった」
「言ってませんでした」
ゴブが少し笑った。
「でも、ノックしてよかったです。開けてくれたので」
「開けて正解だったな」
「レンが言うと変な感じがします。俺が正解だったかどうか、最初に決めるのはレンなのに」
「まあ——聞いてから判断しよう、と思ったんだ。あの夜も」
ゴブが「ふん」と鼻を鳴らした。ゴブリンの仕草だったが、どこかセルディンに似ていた。
「カーラさんは、うまくやれますか」
「うまくやると思う。もう十分話を聞いてきた人だから」
「レンが教えたんですか」
「俺は何も教えてない。一緒にいたら覚えた、という感じだ」
「それが一番いい教え方です」
ゴブが言った。妙に確信がある声で。
「誰に聞いた」
「ドランに」
俺は答えなかった。
ゴブも続けなかった。
風が迷宮の入口から流れてきた。少し冷たい。
「カーラの報告が来るまで待つか」
「待ちます。俺は待つのが得意なので」
「知ってる」
「レンは?」
「俺も——今は待てるな」
ゴブがまた膝を抱え直した。
その後、しばらく二人とも黙って座っていた。
夕刻に通信が入った。カーラからだった。
「セルディン議員が、協議の場を設けることに同意しました」
「そうか」
「ただし条件があります。「協定の内容を、段階を追って開示する」こと。一度に全てではなく、順を追って。議員たちが理解できるペースで」
「それは——来た者に了承を取らないといけないな」
「はい。それをアシダ殿にお願いしたいのですが」
俺は少し考えた。
「聞いてみる」
「……それだけですか」
「まあ、聞いてから判断しよう——というのが来た者への話でも通じるといいんだが」
通信の向こうでカーラが小さく息を吐いた。笑いを飲んだような音だった。
「通じると思います、あの方には」
「だといいな」
通信を切った。
スキルのインターフェースが静かに光る。
【迷宮管理Lv.9:封印接続——通信可能状態】
接続を開いた。
封印の向こうから、ゆっくりと信号が届き始めた。
「——また来た」
「来た」
「話があるか」
「ある。聞いてほしいことがある」
「聞く」
信号が少し揺れた。来た者が話すときの癖だった。思考しているとき、わずかに揺れる。
「条件の話だ。段階を追って開示する形になる。王国の議員たちが理解できるペースで。急かすことはしない。ただ——時間がかかるかもしれない」
信号が揺れ続けた。
「急かされないのか」
「急かされない」
「待てばいいのか」
「待てばいい」
また揺れた。今度は長く。
「……私たちは三百年待った」
「そうだな」
「それより短ければ——待てる」
「三百年より短くする」
「約束か」
「約束だ」
信号が落ち着いた。波が凪ぐように。
「わかった。その条件でいい」
「助かる」
「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
来た者が少し間を置いた。
「——段階を追って、というのは、向こうが怖いからか。私たちを」
俺は正直に答えた。
「そうだ。怖いと思っている人間もいる」
「怖くなくなる方法はあるか」
「時間だ」
「時間か」
「話を聞いていくうちに、少しずつわかってくる。完全にはならないかもしれない。でも——そういうものだと思う」
信号がまた揺れた。今度は違う感触だった。考えているのではなく、何かを受け取っているような。
「——怖くても、聞けるか」
「聞ける人間は、確実に増えた」
「そうか」
「あと——来た者、一つ聞いていいか」
「何か」
「セルディンという議員を知っているか。王国の議員だ」
「知らない」
「今日、初めてあなたたちのために動いてくれた人間だ。三年前から封印の異常に気づいていたのに、声を上げられなかった人間でもある」
信号が止まった。
「なぜ、それを私に言うのか」
「知っていてほしかった。あなたたちに気づいていた人間がいたことを。気づいていたが、言えなかった人間が——今日、動いた」
長い沈黙があった。
信号がゆっくりと戻ってきた。
「……三年前から、か」
「そうだ」
「——それは、知らなかった」
その声には、何か変わったものが混じっていた。俺には名前がつけられなかったが、ゴブならわかるかもしれない、と思った。
接続が静かに閉じた。
スキルの表示が変わった。
【迷宮管理Lv.9:封印接続——「段階的開示」合意成立。協定草案作成フェーズへ移行可能】
ゴブが横で覗き込んだ。
「なんて書いてますか」
「協定の準備に入れる、と」
「よかった」
「ああ」
「——次は、草案を作るんですね」
「そうだ。カーラとセルディン議員がまず動く。その後——」
俺が言いかけたとき、接続点から再び信号が届いた。
今度は弱い。余韻のような。
来た者の声が、最後にもう一度だけ届いた。
「——その、三年間声を上げられなかった者。名前を聞いてもいいか」




