医療ドラマと病棟の悪魔
現在、9時59分。病棟から邪悪が降り注いできた。邪悪という曖昧な言葉で表すだけなら幾分かマシかもしれない。目に見える邪悪なら、それは既に悪魔の姿をなしていると言えるだろう。
『キャッキャッ! 今回もオレ様が処方を書き換えてやったぜ!』
パソコンの前で私はつい舌打ちをした。注射剤の処方締め切り、その直前に起こった処方変更。それを私は“病棟の悪魔”と呼んでいる。注射剤、特に輸液は腕の点滴で薬剤を入れるイメージが強いかもしれない。だが、腕からの点滴では血管痛を起こしてしまうものも存在する。
そこで、心臓付近の太い血管に繋げた管から薬剤を入れる方法がある。その輸液の多くは量がリットル単位のため、私たちは毎度のように輸液の可否と、医師の処方変更があったのかを確認している。基本は締め切り時間前にはチェックを済ませているので、処方締め切り――それも一分前に変更されたとでもなれば、当然気分が削がれてしまう。
『どうだー? 最ッ高の嫌がらせだろう?』
「ミキシングの前によくもこんな……!」
――悪辣な真似を!
パソコンの画面を前に、私は握りこぶしをつくる。いくら考えてもこれは反則だ。残りわずかとなったペットボトルのコーヒーを飲み干すと、クリーンベンチのある無菌室へと移動した。
クリーンベンチの送風と照明の電源を入れる。不織布の帽子とガウンを身にまとい無菌グローブを装着する。
医療ドラマでは箱の中に手を入れ、箱の中で輸液の準備をするシーンを見かけることがある。あの箱がいわゆるクリーンベンチだ。
混ぜる作業はあの箱の中で行われなければならず、慣れるまでの間は筋肉痛になることがある。輸液処方が多い日は十を超える輸液を作るため、テキパキとこなすことが必要なのもこの仕事の大変な部分だ。
私は身支度を済ませると、患者別に輸液製剤とガラスアンプル、バイアルを準備していく。たまに3~4センチほどの小さなアンプルもある。そのアンプルは倒さないようにそっと置くのが難しい。手先がプルプルと震える。
「うーん、どうしよっかな」
『キャッキャッ! このパントテン酸ってかいてあるアンプル、とても小さい瓶なのに5本もあるなぁ? どれ、オレ様がひとつ割ってやるぜ!』
「やめろっ!」
思わず、声に出てしまった。瞬間、手の弾みでテーブルの上に置こうとしていたガラスアンプルがクリーンベンチの中から飛び出した。当然足元に落下したガラスアンプルは砕け、中身の成分が飛び散っている。
私は頭上の悪魔を睨み付けた。
「はぁ、何やってんだろう私……。あとで掃除しなきゃ」
監査済みの処方箋をマグネットで壁に貼り付けて、混ぜる順番を確認する。輸液の混合は一番大きな輸液バッグにアンプルやバイアルの中身を注入していく。
「ええっと、次はエルネオパ1号が1.5リットル、ねぇ……」
これは心臓付近のカテーテルからカロリーを摂取するための輸液なのだが、製造されている規格は1リットルと2リットルのものしか存在しない。そのため輸液バッグを二つ連結させて2リットルとした後、500ミリリットルを輸液バッグから抜くことになる。これもなかなか時間のかかる作業だ。
輸液の中身が勢いよく流れ込んでくれれば良かったのだが、細い管で繋ぐことで片方のバッグに全量を移すので、1リットルのペットボトルの水を流しに捨てるよりもはるかに時間がかかるのである。
「残り三人。あと少しよ……」
時計の針は11時を回ったところ。正午までには各病棟に渡しておきたい。そのためには11:30までにはすべて混合を完了しておきたいところだ。
私は大急ぎで輸液を混合していく。集中力が極限まで高められ、外の音が耳に入ってこないくらいの感覚。私は輸液とアンプル、バイアルの中身をテキパキ混ぜていった。
――無菌室のドアが、開いた。
「あ、空井さん。6Aの患者さんの輸液、今さっき変更になったから作らなくていいよー」
「……は、え?」
私の手元にあるのは6A病棟と記されたその患者の輸液。既に混合は終わっている。捨てるには遅い。
仕方のないことだと分かってはいるが、ミキシングに費やした私の熱意と時間も一緒にシンクへ流れていく。
「はぁ……」
どんな顔をしたら良いのかもわからないまま、溜め息がもれる。私はグローブを外し、ガウンとキャップを脱ぎ捨てた。午前中に混合を終わらせたら、午後は調剤室の手伝いが基本なのである。
***
病棟の悪魔――。奴と私は激戦を繰り広げた。
その後は息も絶え絶えになりつつ、調剤室にて内服の取り揃えを行う。これから高齢の患者へ薬の一包化をしていくのだが、処方箋には便秘薬のマグミットを一日あたり三錠用意しろとの指示が書かれている。手元にはマグミットの錠剤が合計12錠あるが、これをシートから出すことはできない。
マグミット錠は吸湿しやすいためだ。錠剤が吸湿してしまうと、効果が弱くなってしまう。そのため極力シートから錠剤を押し出したくはなかった。
「はぁ、プルゼニドなら楽チンでいいんだけどなー」
傍でガタガタと音を立てていた分包機が、止まった。
一包化調剤は基本、錠剤が箱の中に充填された錠剤を自動で分包してくれるため、人の手はさほどかからない。しかし、分包紙と箱の中身を補充するなら話は別だ。
「……空井さん。この薬ストック無いからシートから錠剤プッチンしといて。私は分包紙を補充するから!」
「はーい、了解です」
渡されたバラ錠の箱は空っぽだ。その中にプッチンした錠剤を詰めるのだが、これが地味に手間のかかる作業だったりする。プチプチと錠剤をシートから押し出しては、それを箱に詰めていく。
退屈半分、焦り半分で、あまり穏やかではない。一包化の分包機はひとつしかないので、詰め作業の一つ一つで調剤が遅れていく。私は手早く分包機のカセットに薬を充填すると、バタンと分包機のフタを閉めた。
「ふぅ」
ふと、額の汗を拭う。天井の冷房は冷たく、変な意味で背中が冷める。スクラブの下に着たインナーは半袖のはずなのだが……。
「はあ、大変だねー」
「お互いに大変だね、小山さん……」
彼女は彼女で散剤の分包に急かされていたはず。小山さんはキリの良いタイミングで話しかけに来てくれたようだ。
調剤した内服薬たちはいずれ、各病棟へ配られる予定だ。しかし、輸液と同じように処方が変更になることも多い。
ここにも悪魔が隠れている。
「うわー! またこの処方変わるの!? もうーっ!!」
『キャッキャッキャッ!!』
やはり病棟の悪魔とは仲良くできる気がしない。なんせ毎度毎度、悪魔のせいで私のやる気は削がれていくのだから。
……今もまだ、悪魔の笑い声が脳内に響いているし。




