9. 折れた前線
王都北方の前線街道は、敗北の色に染まっていた。
打ち捨てられた荷馬車。焼け焦げた軍旗。そして――道端に転がる、無数の魔剣。
「……魔剣を、捨てていったのか」
デグが信じられないという顔で、一振りを拾い上げた。青い宝玉を柄に持つ、氷系の魔剣。市場に出れば城が買える代物だ。それが、泥にまみれて転がっている。
「捨てたくもなるだろうさ」
答えたのは、道端で手当てを受けていた敗走兵だった。
「振っても何も出ないんだ。氷も、炎も。ただ重いだけの飾りだよ。……あんたら北辺守備隊か? 悪いことは言わない、引き返せ。あの黒鉄の魔将には、何も通じない」
俺たちは救援可能な負傷者を収容しながら、北上を続けた。リシアの判断で、守備隊から志願した四十名。任務はあくまで「敗走兵の救援と、状況偵察」だ。
進むほどに、敗走兵の証言は具体的になっていった。
――魔将ヴァルガ。黒鉄の甲冑をまとう巨躯の魔族。
――奴の周囲には「封魔領域」と呼ばれる見えない領域が展開され、その中では魔剣の固有能力と、外へ放つ魔術のすべてが沈黙する。
――そして騎士団は、魔剣が沈黙した瞬間に、戦う術を失った。
「妙だと思わないか」
行軍中、リシアが馬を寄せてきた。
「魔剣が使えなくなっても、剣は剣だ。鋼の刃も、鍛えた腕もそのまま残る。なのに『全滅に近い』。……武器を失ったのではなく、戦い方を失ったとしか思えない」
「魔剣騎士団の訓練を見たことは?」
「ない」
「九割が、魔剣の出力操作です」
俺は自分の記憶を辿って言った。
「魔力を練る、溜める、放つ。その訓練が九割。構え、足運び、間合いの稽古は、入団時に形だけ。……魔剣の火力があれば、間合いの外から敵を消せますから。誰も、剣の振り方を鍛え直さないんです」
「つまり、封魔領域の中の魔剣騎士は」
「十年前に稽古をやめた初心者と、同じです」
リシアは長く息を吐き、前方を見据えた。
「……前線の廃砦に、生き残りが立て籠もっているという話だったな」
「はい。それと」
俺は、敗走兵の一人から聞いた情報を伝えた。
「その中に――第五小隊がいるそうです」
午後、俺は偵察を兼ねて、単独で封魔領域の境界を確かめた。
領域の境は、目に見えない。だが、分かる。一歩踏み込んだ瞬間、体の内側で常に回っている魔力の流れが、急に重くなる。水の中で腕を振るような抵抗感。
試しに、身体強化を練ってみた。
――弱い。普段の三割、いや二割か。それでも。
完全には、消えていない。
体の内側だけで完結する、最低限の強化。外へ放つ力は封じられても、内を巡る力は殺しきれないらしい。
「二割……」
二割あれば、呼吸はできる。構えは組める。歩法も、受け流しも、刃筋も――そもそも魔力に頼っていない技術は、全部そのまま残る。
俺の剣は、封魔領域の中でも、死なない。
その意味を考えていた時、前方の廃砦から、角笛の音が響いた。
長く、二度。
あれは敗走の合図でも、救援要請でもない。
――出撃の合図だ。
「……正気か?」
この状況で、打って出るだと?
◇
――同刻。廃砦、作戦室。
「隊長、正気ですか!?」
第五小隊の生き残りの一人が、声を裏返らせた。
クライヴ・バルゼンは、地図の上の駒を並べ直しながら、部下を見もしなかった。
「敵将ヴァルガの本隊は、街道沿いに南下中。だが奴の『領域』とやらにも限界はある。斥候によれば、半径はせいぜい五百。つまり領域の外から《炎牙》の最大奥義を撃ち込めば――」
「上層部の命令は『負傷者を収容し後退せよ』です! 昨日届いた命令書を、なぜ皆に……」
「命令書だと?」
クライヴは、初めて顔を上げた。
その目は血走っていた。
「後退して、どうなる。ん? 王都へ戻って、何と報告する。『魔剣騎士団の精鋭が、魔剣を封じられて壊走しました』と? 誰が信じる。誰が許す。バルゼン家の名は、騎士団の名誉は、どうなる!」
「し、しかし現に《炎牙》は領域内では――」
「だから領域の外から撃つと言っている!!」
拳が地図を叩いた。駒が跳ね、転がり落ちた。
「いいか。俺はな、負けたことになるわけにはいかんのだ。ここで敵将の首を取れば、全てが引っくり返る。敗北は前哨戦、俺の勝利が本戦だ。歴史はそう書き換わる。……総員、出撃準備!」
兵たちは顔を見合わせた。
誰も動かない。その沈黙の中で、若い騎士がぽつりと言った。
「……アルトさんが、いてくれたら」
空気が凍った。
「五百の距離を詰めるまで、誰が横をやられます。溜めの間、誰が正面を止めます。前は、全部あの人がやってた。今なら分かります。俺たち、あの人に守られて撃ってただけだ。だから――」
「貴様アアアッ!!」
クライヴの手が、若い騎士の襟首を掴み上げた。
「あの補助兵の名を口にするなと言ったはずだ! 俺は魔剣騎士だ! 《炎牙》のクライヴ・バルゼンだ! 素振りしか能のない平民に、守られてなどいない!!」
誰も、何も言わなかった。
その沈黙を服従と読み違えて、クライヴは襟を突き放し、マントを翻した。
「出撃する。臆した者は置いていく。ただし敵前逃亡として報告するがな」
……こうして、第五小隊を含む魔剣騎士の残存二十騎は、補給も陣形もないまま、廃砦を出た。
街道を駆け、敵影を見つけ、クライヴは馬上で《炎牙》を抜き放った。
「距離、五百二十! 領域の外だ! 溜めるぞ、援護しろ!」
刀身に炎が渦を巻き始めた、その時。
魔族の軍列が、左右に割れた。
奥から歩いてくる、黒鉄の巨影。一歩ごとに、空気が重くなる。
「構わん! 撃ち抜く! 《炎牙》の焔咬は五百を届か――」
炎が。
ふ、と。
蝋燭を吹き消すように、消えた。
「…………は?」
クライヴは、自分の魔剣を見た。ただの赤い装飾のついた、鉄の棒がそこにあった。
「なぜだ。領域は半径五百のはず……」
「領域の広さを、我が変えられぬと思ったか」
静かな声が、戦場の全てに届いた。
魔将ヴァルガ。黒鉄の甲冑。飾りのない大剣を無造作に提げ、魔力の誇示も、威嚇の咆哮もなく、ただ歩いてくる。
「五百と測らせたのは我よ。貴様らは必ず、境界の際から撃とうとする。道具の射程に、貴様らの思考ごと縛られておるからだ」
誘い込まれたのだと、その場の全員が理解した。
理解した時には、魔族兵の包囲が、完成していた。




