10. 武器の声が消えた戦場
角笛と剣戟の音を追って、俺たちが街道の丘を越えた時、眼下の光景は「戦闘」と呼べるものではなくなっていた。
魔剣騎士たちが、ばらばらに逃げ惑っていた。
剣は持っている。だが、構えていない。魔剣を両手で握って振り回し、空振りし、体勢を崩したところを魔族兵の槍に突かれる。間合いという概念がない。隊列という概念がない。背中を守り合うという概念が、ない。
「酷いな……」
リシアが呻いた。
「本当に、初心者だ。体だけ大人の」
「リシア。救出します。指示を」
「言うと思った」
彼女は即座に隊へ向き直った。
「北辺守備隊、戦闘配置! 目標は敵将の撃破ではない! 孤立した騎士の回収と離脱! アルト、隊形は」
「くさび型で押し込んで、傘型で開いて、回収したら閉じて下がる。……盾は俺の合図で前へ。槍は盾の肩越しにだけ突く。弓は追撃の足だけを狙う。深追いは、しない」
「聞いたな! 総員、かかれ!」
四十人のくさびが、混戦へ突き込んだ。
派手さは何もない。盾兵が三歩進んで止まる。槍が突く。空いた隙間から俺が出て、騎士に群がる魔族兵を斬り、倒れた騎士を盾の内へ引きずり込む。また三歩進む。その繰り返し。
だが、封魔領域の中で、この地味さは無敵だった。
魔族兵は明らかに戸惑っていた。魔剣も魔術も使わない人間の一団が、崩れない。どこを突いても槍の返しが来る。深追いを誘っても、誰も追ってこない。
「なんだこいつら……騎士じゃないのか!?」
「騎士じゃねえよ!」
デグが盾の裏から吠え返した。
「ただの兵隊だ! 悪かったな地味で!」
俺は乱戦の中心へ目を走らせた。ひときわ立派な、焼け焦げた白銀の鎧。地に膝をつき、それでも炎の出ない魔剣を振り回している男。
クライヴ。
彼の周りには、第五小隊の生き残りが数人、庇い合うように固まっていた。
「……回収します」
感情を、一度荷物を下ろすように脇へ置いて、俺は駆けた。
クライヴに槍を突き入れようとした魔族兵を、横から斬り伏せる。二人目、三人目。円を描くように立ち回り、第五小隊の周囲から敵を引き剥がす。
「立てますか。退路はあちらに――」
「な……」
クライヴが、俺を見上げた。
煤と血で汚れた顔の中で、目だけが、亡霊でも見たように見開かれていた。
「アルト……? なぜ、貴様が……なぜ貴様が動ける!? 領域の中だぞ! 魔力が、封じられて……」
「俺の剣は、最初から魔力で振っていません」
それだけ答えて、俺は生き残りの騎士たちへ声を張った。
「歩ける者は負傷者を担いでください! あの盾の列まで走れば、味方が収容します! いいですね、走ったら止まらない!」
「は、はい!」
騎士たちが動き出す。あの、担架で運ばれた経験のある若い騎士もいた。彼は俺を見て、泣き出しそうな顔で、深く、頭を下げた。
――だが。
「待て! 貴様ら、誰の許可で動いている!」
クライヴが立ち上がり、喚いた。
「指揮権は俺にある! 撤退は許可していない! 今から反攻だ、態勢を立て直して敵将を――」
誰も、止まらなかった。
誰一人、クライヴの声に足を止めなかった。
部下たちは俺の示した退路を走り、盾の列に吸い込まれていく。クライヴは呆然とそれを見送り、それから、真っ赤になって俺へ掴みかかってきた。
「貴様……貴様がまた俺から奪うのか! 部下も、手柄も、この戦場も!」
「――いい加減にしろ」
鈍い音がした。
リシアの拳が、クライヴの頬に入っていた。よろめいた白銀の鎧を、彼女は襟ごと引き寄せる。
「指揮権を主張したいなら、まず部下を生かせ。それができない指揮官の口上は、戦場では雑音という。……デグ! この御仁を後方へ『丁重に』お運びしろ!」
「うへえ、貧乏くじだ」
暴れるクライヴが担がれていくのを見届けて、俺は前線へ向き直り――
足が、止まった。
魔族兵たちが、左右へ退いていく。
割れた軍列の奥から、黒鉄の巨躯が、まっすぐ俺へ向かって歩いてきていた。
「――ほう」
魔将ヴァルガは、俺の十歩手前で立ち止まった。
間近で見ると、その巨躯は三メートル近い。だが威圧感の源は体格ではなかった。立ち姿だ。どこにも力みがなく、どこにも隙がない。魔力の圧も、殺気の誇示もない。ただ「正しく立っている」。
俺が十年かけて学んだことを、この魔族は、当然のようにやっていた。
「武器の声が消えた戦場で、立ち方を忘れぬ人間がいるとはな」
静かな声だった。
「名を聞こう、人間」
「……アルト・レイン。北辺守備隊」
「アルト・レイン」
ヴァルガは、その名を確かめるように繰り返した。
「我はヴァルガ。……一つ問う。貴様、なぜ魔剣を持たぬ」
「選ばれなかった」
「選ばれなかった、か」
黒鉄の兜の奥で、何かが笑った気配がした。嘲笑ではない。もっと冷たい、納得の気配だった。
「道具に選ばれず、故に道具に依存できず、故に己を鍛えるしかなかった。……皮肉なものよ。この国で唯一戦える剣士を作ったのは、この国の制度が貴様を捨てたことだ」
「……講釈はいい」
俺は剣を構えた。正眼。基本のままの構え。
「あなたを止めれば、この侵攻は終わるのか」
「試してみるがいい」
大剣が、来た。
――速い!
あの巨体から放たれたとは思えない、無駄のない斬り下ろし。受けたら剣ごと潰される。俺は半歩の見切りで軌道の外へ逃げた。石畳が爆ぜ、破片が頬を裂く。
二撃目は横薙ぎ。潜る。三撃目の突きは、大剣の常識を外れた鋭さで伸びてきた。刃で逸らす。腕が痺れた。逸らしただけで、この衝撃。
身体強化は二割。俺の速度も膂力も、普段には遠い。
それでも、見える。
ヴァルガの剣は、恐ろしく正確で――正確であるがゆえに、読める。踏み込みの深さ、肩の入り、剣先の起こり。基本に忠実な剣は、基本を知る者には軌道が視える。
四撃目を受け流し、俺は初めて反撃に転じた。籠手の継ぎ目へ、最短の斬り上げ。
ヴァルガは、剣を返してそれを弾いた。
「……いい刃筋だ」
感想を述べる声に、初めてわずかな熱が乗った。
「基本の五要素。構え、呼吸、歩法、間合い、刃筋。すべて備えておる。我は人間の剣術を三百年見てきたが、五つ揃えた者は十人とおらぬ」
「詳しいな」
「研究したのでな。人間の技は、道具に頼らねば実に興味深い高みへ至る。……だが」
大剣が、俺の剣を根元から打った。二割の強化では受けきれず、俺は大きく弾き飛ばされ、崩れた石橋の欄干で背を打った。
「大半の人間は、その高みへ登らぬ。登る前に、楽な道具を選ぶ。魔剣を、魔術を、権威を、血統を。……この国を見よ。貴様のような剣士を捨て、道具に選ばれた飾りを英雄と崇めた。故に、こうなった」
ヴァルガは、壊走する魔剣騎士たちの姿を大剣の先で指した。
「貴様一人が例外でも、国は変わらぬ。人は必ず、鍛錬より容易な力を選ぶ。……アルト・レイン。貴様は強い。だが、孤独な例外だ。例外は、種にはならぬ」
「……どうかな」
俺は欄干から体を起こした。肋骨が軋む。それでも、口の端は、なぜか笑っていた。
「うちの守備隊は、送り足と間隔だけで、あんたの兵を一人も通していないが」
ヴァルガの兜が、初めて、盾の隊列の方を向いた。
北辺守備隊は、退きながらも崩れていなかった。盾は割れず、槍の返しは止まらず、収容した負傷者を後方へ流し続けている。封魔領域のただ中で。
「…………」
沈黙は、短かった。だが確かに、あった。
その時――石橋の対岸で、悲鳴が上がった。
魔族兵の一隊が、退避の遅れた避難民の荷車列に取りついていた。老人、女、子ども。護衛の兵はわずか。
俺は、ヴァルガを見た。
がら空きだった。奴は俺との対話に意識を割いていて、今この瞬間、俺の踏み込みなら籠手の継ぎ目まで届く。敵将に一太刀。戦局を変えられるかもしれない、千載一遇の。
――考えたのは、一瞬だった。
俺は、ヴァルガに背を向けて走った。
石橋を渡り、荷車に取りついた魔族兵を斬り伏せ、避難民の前へ立った。
「守備隊、傘型! 避難民を内へ! 収容次第、離脱する!」
背後から、追撃は来なかった。
代わりに、静かな声だけが届いた。
「……敵将の首より、民の命を取ったか」
ヴァルガは、動かぬまま俺を見ていた。
「甘さと呼ぶべきだが――貴様のそれは、判断が速すぎる。迷った末の甘さではない。最初から、そう決めておる剣だ」
「悪いか」
「いいや」
魔将は、大剣を肩に担いだ。
「ますます、生かしておけぬと分かっただけよ」
黒鉄の巨躯が身を翻す。魔族の軍列が、それに従って動き出す。――南へ。王都の方角へ。
「全軍に告げる。進軍を早める。……アルト・レイン。貴様に、備える時間はやらぬ」
◇
その夜。前線南方の避難野営地。
焚き火を囲む俺たちのもとへ、急報は立て続けに舞い込んだ。
一つ。ヴァルガ軍の進軍速度が倍加し、王都までの防衛線は事実上、消滅したこと。
一つ。王都全域が――巨大な封魔領域に、覆われたこと。
「王都全域だと……そんな規模の領域が張れるのか」
リシアが地図を睨む。伝令の兵は青い顔で続けた。
「城壁の魔導砲も、騎士団の魔剣も、全て沈黙。王都は、その、丸裸です。魔族軍の先鋒は明朝には北門へ……」
「それで、王命は? 各地の部隊への救援命令は」
「出て、いません。王都からの伝令が領域を出られないのか、それとも指揮系統自体が……何も、届かないんです」
沈黙が落ちた。
命令は、ない。
北辺守備隊への帰還命令も、王都への救援命令も、何も。俺たちは今、完全に宙ぶらりんだった。
「決まっているだろう、行くぞ王都へ!」
大声を上げたのは、後方に「丁重に」保護されていたクライヴだった。縄こそ解かれたが、剣は取り上げられている。
「王都には騎士団本部がある! 我がバルゼン家の屋敷もだ! おいアルト、貴様、あの魔将と打ち合えたのだろう! なら貴様が先陣を切れ! 命令だ!」
「あなたに命令権はない」
リシアが冷ややかに斬って捨てた。
「あるとすれば、撤退命令を握り潰して二十騎を包囲に突っ込ませた件の、査問への出頭命令くらいだ」
「な……っ、き、貴様、平民風情が――」
「デグ。お客様が興奮しておられる」
「へいへい。ほら、あっちで薬湯でも飲みましょうや、元隊長さんよ」
クライヴが連れられていくのを見送って、焚き火の周りは、また静かになった。
俺は、炎を見つめた。
王都。俺を追放した街。俺を嘲笑った選剣殿。俺の十年を「雑兵の処理」と書き続けた騎士団本部。
そして――百万の、何の罪もない住民。
「……皆は、北辺へ帰ってください」
気づけば、そう口にしていた。
「守備隊の任務は敗走兵の救援でした。それは果たした。北辺だって魔物が動いている。皆は砦へ戻るべきだ。……王都へは、俺一人で行きます。封魔領域の中で戦える人間は、多分、俺しかいない。なら俺一人で行くのが、一番、損害が」
「――アルト」
リシアの声が、静かに、俺の言葉を断った。
「あんた今、私たち全員の目を見ずに喋っていたな」
「…………」
「一人で行くのが一番損害が少ない。なるほど、計算上はそうかもな。じゃあ聞くが、その計算に、私たちの意思はどこに入っている?」
焚き火が、爆ぜた。
「城壁で言ったな。一人で背負うなと。地竜の谷で、あんたは初めて私たちに背中を預けた。だから竜は落ちた。……なのに、王都の話になった途端、これだ。追放された街のことになると、あんたはまた一人に戻るのか」
彼女は立ち上がり、焚き火越しに、まっすぐ俺を見下ろした。
「命令は、ない。何処にもな。だったらこれは、命令で動く話じゃない。……アルト・レイン。命令ではなく、お前がどうしたいかを言え」
どう、したいか。
俺は、掌を見た。剣胼胝の硬い、この掌で、俺は何を掴みたい?
騎士団への復讐か。違う。あの街への未練か。違う。なら見捨てられるのか。……それも、違う。目を閉じれば浮かぶのだ。選剣殿の石段も、報告室の窓も、そして黒煙の下で聞いた、あの子どもの悲鳴も。王都には今夜、あの悲鳴が百万ある。
俺は、顔を上げた。
リシアの目を見た。デグの目を、隊のみんなの目を、順番に。
「……王都を、救いたい」
声は、思ったより、はっきりと出た。
「俺を追放した街だ。正直、今でも好きにはなれない。でも、あそこで死のうとしている人たちは、俺を追放していない。……俺は行きたい。勝算は低い。死ぬかもしれない。それでも、行きたい。――だから」
一度、息を吸った。
言え。最後まで。
「俺と一緒に、来てほしい。……いや、違うな。来てくれとも、帰ってくれとも、俺が決めることじゃない。明日の朝、全員に話します。危険も、勝算も、全部。その上で――それぞれの意思を、聞かせてください」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがてリシアが、ふっと表情を緩めた。
「……上出来だ、隊長代理」
「隊長代理?」
「王都行きの部隊の、だ。私が推薦する。文句のある奴は?」
焚き火の周りで、笑い声とともに、いくつもの手が上がった。全部、「文句なし」の手の挙げ方だった。




